ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第三回 「昭和の歌姫」と山谷

 

遠い存在に

 

 高層マンションが並ぶ一角に建つ三階建てアパートの一室。突然の訪問にもかかわらず、インターフォン越しに取材の趣旨を説明すると、志希里さんはドアを開け、私をリビングへと案内してくれた。
「私の父がひばりの母親、喜美枝といとこ関係にあります。ひばりの祖父母は元々、このアパートから少し離れた長屋で、石炭の小売りをやっていました。私の父が新潟から上京し、その石炭商で修業していたんです。父親はやがて、自分で石炭問屋を始めるようになり、商売が軌道に乗ったのでひばりの祖父母を援助したと聞きます。そのお返しに祖父母は盆暮れになると、私の父に挨拶に来ていました」
 あの美空ひばりの親戚から、こんなにもすんなり話が聞けるとは思ってもみなかったので、私はいささか舞い上がってしまった。「時効」だから、話してくれたのだろうか。
 志希里さんによると、小学校低学年の頃から父親に手を引かれ、浅草国際劇場(現在、跡地は浅草ビューホテルになっている)にひばりの公演を観に行っていたという。
「私はよく裏口から劇場に入りました。父がいると顔パスで、ひばりの楽屋まで行けたのです。お祝い用の花束や飾ってあったネックレスなど『これ持っていっていいよ!』と、もらったことがありました。公演中は舞台裾から父と一緒に眺めていましたね。横浜の実家にお年玉をもらいに行ったこともありました。父はひばりの大ファンで、映画が上映されるとすぐに観に行き、レコードもたくさん持っていました」
 志希里さんの声は低く、そして太い。どこか美空ひばりの声色を彷彿させるかのようだ。私が、第四瑞光国民学校で開かれた公演のモノクロ写真を差し出すと、志希里さんはこんなエピソードを教えてくれた。
「父がひばりを学校に呼んだって言っていました。ひばりの母親は、娘をこんなところで歌わせたくないと言っていたらしいんです。もはやそんな器じゃないと思ったんじゃないですかね? でも父が頼み込んで、連れてきたんだよって自慢していました。真偽のほどは分かりませんけどね」
 そう言って笑う志希里さんは、モノクロ写真をじっと見つめながら、「すごい数の聴衆ですよね」と懐かしむように語った。
 美空ひばりは幼い頃から天才歌手として才能を開花させ、その美声と節回しは瞬く間に評判となり、舞台に上がるたびに拍手喝采を浴びた。11歳で映画に初出演し、間もなくレコードデビューを果たして超売れっ子に。17歳でNHK紅白歌合戦に初出場した。その姿を追い掛ける志希里さんの国際劇場通いは、ひばりが20歳になるまで続いた。ちょうどその頃、女性ファンから公演中に塩酸を掛けられ、ひばりが軽傷を負うという事件も起きた。以降はブラウン管の向こう側で歌う姿を見掛けるだけだったが、ある時、久しぶりに目の前で見ようと、志希里さんは新宿コマ劇場に足を運んだ。
「父の近況もお伝えしようと思って。名前を伝えると、付き人の方から『どうぞ』と通されたのですが、やはり恐れ多くなって引き返してきました」 
 親戚とはいえやはり、遠い存在に感じてしまったという。
 美空ひばりは昭和37(1962)年、当時の日活の大スター小林旭と結婚し、世間を騒がせた。その2年後にリリースした「(やわら)」は、高度経済成長期に生きるサラリーマンの共感を誘い、日本レコード大賞を受賞。その後も人生の悲哀を歌ったヒット曲を連発した。昭和の歌謡界で一世をふうした美空ひばりは、平成元(1989)年にこの世を去った。52歳だった。女性として初めての「国民栄誉賞」も受賞した。志希里さんはその時、父親と一緒に週刊誌の取材を受けていた。以来、私が訪れるまでの約30年間、取材を受ける機会はほとんどなかったという。

「色々と言われるのが嫌だったので、ひばりとの親戚関係については周りの人にめったに話しませんでした。今日はお話をしていて昭和時代を懐かしく感じました。今でもひばりの歌はほとんど覚えています。『私の誕生日』はすぐに口に出てきますよ」
 そう言って志希里さんは私の前で口ずさんだ。
 「今日は私の誕生日
  空のひばりの歌声に
  めぐりめぐってまた返る……」

 

◎編集者コラム◎ 『妻籠め』佐藤洋二郎
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