ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第三回 「昭和の歌姫」と山谷
「山谷」が消えた理由
「山谷」という地名が地図上から消えたのは昭和41(1966)年のこと。地名の由来は諸説あり、はっきりしない。江戸誌によると、民家が三軒あったために「三家」あるいは「三屋」と呼ばれていたのが転訛して「山谷」になったとする言い伝えがある。
戦争で焼け野原となった山谷は、「ヤマ王」こと帰山仁之助ら簡易宿所の経営者たちによって復興を遂げ、日雇い労働者が集まる簡易宿所の街(通称・ドヤ街)になった。しかし、昭和30年代半ばに入ると、警察を標的にした日雇い労働者の暴動が繰り返され、売春婦やヒロポン(覚せい剤の1つである塩酸メタンフェタミンの商品名)患者の増加、仕事にあぶれた労働者たちによる売血の横行などで、「山谷」と言えば無法地帯の代名詞として認識されるようになる。この結果、「山谷の住民」であることが分かると、嫁の来手がなく、嫁に行くのも容易ではなかったという。こうした山谷に対する負のイメージを払拭しようと、帰山仁之助ら簡易宿所の経営者や地域住民たちは警察と連携し、浄化運動を続けてきた。しかし、街に染み付いた汚名を返上することは容易ではなく、住民たちの大多数が「誤解と偏見に満ちた“山谷”はもうこりごり。人心一新のためにもっと明るい感じの新しい名前をつけよう」という意見で一致し、町名変更が実現したのだった。現在は、縁結びの神様として知られる、今戸神社の近くにある「山谷堀公園」がその名をとどめている。
隅田川へと続く山谷堀は江戸時代にできたといわれ、
現在は整備されて公園になっている(撮影:水谷竹秀)
こうした経緯を踏まえていたため、美空ひばりが自伝で「山谷」という地名を公表していた事実に驚いたのだ。他の書籍はいずれも「南千住」としか記されていないから尚更、その意図が不思議に感じられた。自伝が刊行された昭和46(1971)年は、度重なる暴動ですでに負のイメージが定着していたはずだが、「山谷」と敢えて記すことに抵抗はなかったのだろうか。ひばりはちょうどその年、芸能生活25周年を迎え、日本の歌謡界における代表的地位をすでに確立していた。
折しも同年、労働者の福祉向上を目指す東京都城北福祉センターは『山谷「現況と歴史」』という資料を発表し、その背景をこう説明していた。
<東京都台東区、荒川区の一角を占める山谷地域の名前は、多数の人たちにとって、暗いイメージを持った山谷騒動の記憶しかなく、そこには、感動すべき人間関係と働く労働者の苦悩、激動と美しさがあることをあまり知らない。
私達、山谷地域住民の福祉を向上するために、働く者にとっては、本当の姿を多くの人達に知らせ、正しい理解と認識を持っていただくよう努力しなければならないと思う>
町名は消えても、一度染み付いた街のイメージが拭えないことへの無念さがうかがえる。
これまでの連載でも述べたように、山谷を舞台とした書籍や記事は、いずれも日雇い労働者や生活保護受給者など社会的立場の弱い人々が取材対象の中心になっていたため、ネガティブな色合いが強かった。ましてや、あの美空ひばりが山谷と関連付けられた記述など皆無だ。そしてこの事実は未だに、周辺の一部住民以外、地元にすらそれほど広く伝わっていない。
仁之助の息子で「ほていや」の経営者、帰山哲男さん(67)も、5年ほど前にネット検索で初めて知ったという。
「この辺では未だに知らない人もいます。ひばりさんの母親が南千住出身だったことを記した本は出ていても、やはり昔の山谷のイメージがあるからそこまで積極的に知らされてなかったのではないでしょうか。私の親戚も昔は、出身を聞かれると『山谷』ではなく『浅草』と答えていました。山谷の学校に通う子供はガラが悪いからと、別の地域に『越境入学』する子供もいたほどですから」
哲男さんによると、その傾向が薄れてきたのは、2000年代に入ってから。一部の簡易宿所に外国人バックパッカーが泊まるようになり、テレビや新聞で取り上げられたのがきっかけという。