ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第八回 山谷最大の名物食堂

茶色いアルバム

 あさひ食堂が開店したのは、昭和30(1955)年だった。第二次世界大戦が終結し、上野の地下道に溢れた「浮浪者」たちが、仁之助ら地元有力者によって山谷のテント村に搬送されてからおよそ10年後のことだ。すでに簡易宿泊施設は建ち並んでいたため、日雇い労働者たちにとって寝泊まりする場所は確保できたが、食の問題が残っていた。戦後の食糧統制下、山谷の労働者たちは移動証明(今でいう「住民票」)を持っていなかったため、配給を受けることができず、有り付けるのはコッペパンぐらい。これを解消しようと仁之助は、簡易宿泊施設の経営者たちと話し合い、木造2階建ての食堂を作った。これがのちの「あさひ食堂」である。当初は旅館組合にちなんで「組合食堂」と呼ばれていた。
 仁之助は、日本経済新聞(昭和60年6月)のインタビューで当時の様子について次のように語っている。

「それこそ『押すな押すな』のにぎわいだった。職業安定所に行ってその日の仕事を探す人のために、店は毎朝5時前に開けるが、いつも100人以上の行列ができていた。大体、8時ごろまでは息つく間もないほど忙しかった」

 日雇い労働者が働きに出る前の朝は、納豆や佃煮、塩辛など比較的手の掛からないメニューが中心で、夜にはさばの味噌煮や焼き魚、カレーライス、ラーメンなどを提供していた。

「調理場には7升だきのおかまが6つ並んでいて、次から次へとたけていく。それと、学校給食などで使われる大がかりな調理機のたぐいもあった。大根をおろす機械などで、弟が見つけてきたものだが、昭和20年代から調理機を使った食堂というのは珍しかったのではなかろうか」(前出のインタビューより)

 ご飯は麦飯だった。麦6米4の割合で混ぜたもので、当時は食糧統制下で米の販売は禁止されていたが、警察も黙認してくれていたという。

「お米のごはんの威光は絶大で、開店した当初は殺気だつほどの雰囲気だった。はじめの計画では、敷地の3分の2を食堂にあて、残りの3分の1は理髪店にするはずだったのが、開店当日から人がわっと入り込んでたちまち全部食堂になってしまった」(同)

 『山谷ドヤ街 1万人の東京無宿』(神崎清著、時事通信社1974年刊)によると、あさひ食堂で使っていた調味料は本場の一流品だった。支配人が千葉県野田の出身で、野田産の醤油と味噌を安く大量に仕入れていた。食堂から徒歩数分の仁之助の自宅には、米や味噌を保管する倉庫があり、ワイヤーでつながれたシェパード1匹が見張っていた。調理室は温水の出る皿洗い場をはじめ、生鮮食料品を保管する冷凍庫や、調理した食品を入れておく冷蔵庫はピカピカで、高級レストランのようだったという。
 最盛期の従業員は約60人で、早番、中番、遅番の3交代制で忙しく動き回った。他の食堂が休みに入る正月も店を開けて雑煮を出した。特筆すべきは、酒飲みの多い山谷において、あさひ食堂は酒類を一切提供しない方針を貫いていたことだ。その理由について哲男さんはこう口にした。
「店の回転率を良くするためだと父親がはっきり言っていました」
 
DSC_9093あさひ食堂の外観や店内が写った写真16枚が収録されたアルバム(撮影:水谷竹秀)
 
 私の手元には、あさひ食堂のモノクロ写真が収録されたB5サイズのアルバムがある。茶色い表紙に白い字で「PHOTO ALBUM」と書かれ、昭和37(1962)年10月の改築落成を記念して撮影された集合写真も挟み込まれている。店内の前列中央に、背広姿の仁之助がキリッとした表情で写っている。その周りを取り囲むように、白い調理服姿の従業員男女約60人が3列に並んでいる。
 アルバムの最初のページは食堂の全景写真だ。建物は2階建てで、「あさひ食堂」とゴシック調で書かれた店の看板が掲げられている。1階にはメニューサンプルが並んだショーケースが配置され、入口は2カ所あった。
 
DSC_9075改築直後のあさひ食堂の外観写真(撮影:水谷竹秀)
 
 そのほかアルバムに収録された写真は、カウンター席に丸椅子が並ぶ店内の様子、木製のデスクや椅子が整然と並んだ食堂の事務所、調理場で作業する従業員たち、ブラウン管の小さなテレビが置かれた従業員用の娯楽室・・・・・・。台紙は黄ばんで古くなっているが、モノクロ写真は保存状態も良く、時代の空気をはっきりと映し出していた。
 山谷最大の食堂が新たなスタートを切るための改築であったが、店の再開からわずか1カ月後、想定外の事態に巻き込まれる。

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