ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第八回 山谷最大の名物食堂

めちゃくちゃに破壊された店内

 山谷では昭和35(1960)年から日雇い労働者たちによる暴動が繰り返されてきたが、標的にされたのは常にマンモス交番で、食堂がその対象になったのは後にも先にもこの時だけだろう。発生は皮肉にも、昭和37年11月23日の「勤労感謝の日」だった。現場の様子を映した映像は、中日映画社のサイトに公開されている。http://www.chunichieigasha.co.jp/?p=7751
 

https://youtu.be/oEmWMGERkG8

 
 翌日の各紙は、この暴動を社会面で大きく扱った。以下は同年11月24日の朝日新聞朝刊による。
 発生は午後6時半ごろ。「パレスハウス」という山谷最大の簡易宿泊施設に泊まっていた鳶職の若者 (当時21歳)が、女性店員に何かを注文した。よく聞き取れなかったために女性店員が聞き返したところ、若者は茶碗に入っていた茶をぶっかけ、これを見ていた他の男性店員と店の前で喧嘩になった。2人は間もなく、駆け付けた警官にマンモス交番へ連行された。ところが、喧嘩を見ていた通行人が仲間を集め、食堂の前で「仲間を殴った奴に謝らせろ!」と罵りながら店内に乱入し、乱暴が始まったという。店員たちは店の奥の調理場に逃げ込んだが、食器や椅子、板切れなどが投げつけられ、店内はガラスや食器類、丸椅子などが壊れて散乱し、天井の蛍光灯も割られ、破片や破損物で足の踏み場もないほどにめちゃくちゃに破壊された。
 あさひ食堂を取り囲む群集は時間とともに膨れ上がり、1500人に。浅草署は機動隊を配置し、装甲車も出動させたが、罵声を浴びせられ、装甲車も叩かれる始末。食堂経営者の帰山仁之助は、群集に向かって陳謝したが、これがかえって逆効果となり、マンモス交番に向かっての投石も始まった。浅草署は機動隊員約800人を投入して事態収拾を図り、午前0時ごろにようやく沈静化したという。この暴動で、労働者ら16人が器物損壊、暴行、公務執行妨害などの疑いで逮捕され、7人が負傷した。都電やバスも止まり、周辺の交通機関は麻痺した。
 各紙に掲載された写真は、あさひ食堂を群集が取り囲む様子が映し出され、食堂のシャッターがもぎ取られようとしている。店内には丸椅子や食器、調理器具が散乱し、改築から1カ月後とは思えないほどの無残な姿をさらけ出していた。
 浅草署長は、暴動の原因についてこう語っている。

「直接の原因は同じ料理のお代りをさいそくした酔払いの客に対する女子従業員の態度がなまいきだというようなことだったらしい。これに男子従業員が加わり、居合せた約100人の客が客のかたを持って騒ぎだした。交番の係員がすぐ双方を交番に移したのち、従業員だけを本署に移したが、これが片手落ちと一部の住民にみられたのかもしれない」

 従業員だけを本署に移す理由が不明だが、店内にいた目撃者の証言は、連行についての署長の説明と食い違っていた。

「食堂の従業員が酒に酔った中年の労働者をなぐりつけたのでみんなおこった。しかも、警官が女定員にお茶のはいった茶わんをぶっつけた客は連行しながら、なぐりつけた従業員は連れて行かなかったのが騒ぎを大きくした」

 毎日や読売の報道でも、警察が客の労働者だけを連行し、店員への取調べを行っていなかったことが騒ぎの発端だという視点で書かれている。どうやら警察の対応が問題だったようだ。ただ、その矛先が食堂に向かったという事実は、労働者たちの店側に対する不満の表れでもあった。
 読売新聞に掲載された浅草署長のコメントがそれを示している。

「食堂に対してもっていた日ごろの不満が従業員の応対の悪さということがきっかけでこういう騒ぎになったのだと思う。もちろん、なかには警察に対する反感もあっただろう」

 食堂に対する不満というのは、従業員の態度が日頃から横柄だったことに起因しているようだ。哲男さんはこう回想する。
「あさひ食堂の従業員を募集すると、面接に来るのは流れ者が多かった。借金を抱えて逃げて来た者、家庭に問題があった者、刑務所上がりだと噂されていた者などで、厨房では従業員同士の喧嘩も起きていた。でもそういう気の強い従業員じゃないと、山谷の日雇い労働者には対応できないんですよ。あさひ食堂に限らず、山谷には流れ者が多いからね」
 従業員の態度に加えて、暴動の火種は他にも考えられた。この日は帰山仁之助が経営する山谷の芝居小屋「(よし)(かげ)(かん)」で「地下たびまつり」が開かれ、労働者数百人が集まる中、抽選で地下足袋や手ぬぐい、石けんなどをプレゼントする催し物があった。そこで酒を飲んで酔っ払った労働者たちが、あさひ食堂に向かったために騒ぎを起こしやすかった可能性もある。
 一方のあさひ食堂経営者、仁之助は各紙に次のように述べた。

「別にお客さんからにくまれるようなことはしていない。トラブルの原因ははっきり聞いていないが、いずれにしても騒ぎの発端となった責任は感じている」(読売新聞)

「一昨年夏の騒ぎ以来、平穏に過ぎてきたし、宿舎や食堂の設備もよくしてきたつもりだ。私があやまれば解決するかと思い群集に向かって“申しわけない”と頭を下げたが、ワーワー怒声をあげて聞き入れてくれなかった。山谷のために残念だ」(毎日新聞)

 一方で、朝日新聞に掲載されたコメントは、上記の2つとは少し毛色が違う内容だった。

「山谷の人びとの気持ちはよく分かっているつもりだ。うらみを受ける覚えもないし、どうしてこんなことになったのか分からない。もののはずみだろうが、親や兄弟のいうことさえ聞けないすさんだ孤独な人びとの集まりなのだから、こういった集団暴力が起きない方が不思議なのかも知れない」

 この発言が「上から目線」ととらえられたのか、当時すでに山谷で活動を始めていた梶大介の怒りを買い、活動家たちと仁之助を中心とする簡易宿泊施設経営者との対立の溝がより深まったのである。

色川武大、傑作『狂人日記』誕生秘話
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第3回 前編