吉川トリコ「じぶんごととする」 13. まだその名前を知らない 後編

じぶんごととする 13 まだその名前を知らない 後編


発達障害だから強くなれた ぼくが発達障害だからできたこと 完全版

『発達障害だから強くなれた ぼくが発達障害だからできたこと 完全版
市川拓司
朝日文庫

 市川拓司さんの『発達障害だから強くなれた ぼくが発達障害だからできたこと 完全版』は、発達障害当事者のレポートというよりは、自伝的色合いの強い一冊だ。天真爛漫な人柄がよくあらわれていて、「らしさ」とされるものの埒外にある自分を唯一無二の特別なものだと肯定し、バキバキの全能感にみちている。私もわりかし自己肯定感が高いほうだが、これにはさすがに「負けた」と思ってしまった。あと、以前取りあげた町田康さんの『しらふで生きる』と対になっているというか、町田さんが死に物狂いで酒を断ったりあれこれ思考をめぐらせたりしてたどりつこうとした境地に、市川さんはなんの苦労もなくナチュラルボーンでやすやすと到達している(ように見える)のが、あまりにもむごく、度を超えたポジティビティって凶器にもなるんだな……などと思ったりした。

 ぼくは自分の文章を「微小ブロック構造」って呼んでいるんだけど、イメージとしては、小さな言葉のブロックをしっかりと積み上げていく感じ。レンガ塀みたいな文体。
 日本の文学は、ぼくからすると、うねる川の流れのようで、読んでて目が回ってしまう。なんか摑み所がなくて、気付くとまた同じ行に戻ってる。
 ぼくの脳は、この「日本的文体」を処理するための機能が著しく欠けている。

 市川さんは小説家としての自身の特徴として、体言止めや文章を短くするための倒置、テーマの反復、リフレインを挙げている。自動書記に近い感覚で無意識に書くのがデフォルトで、「意識して書いているときは、無意識時の自分のフォロアーでしかなく、しかもフォロアーとしても三流以下」とのこと。他の人がどのように小説を書いているのか知りたくてしょうがない私は、特にこの部分を興味深く読んだ。

 たしかに市川さんの文章は独特なリズムで、「日本的文体」に慣れているとちょっとざわざわするような読み心地ではあるのだけど、同時にそれが魅力にもなっていて、ハマるとくせになるかんじもわかるし、あれだけのベストセラーを生み出したのもうなずける(「冬のソナタ」やセカチューを引きあいに出し、自作のヒットのタイミングのよさを語っていることにも驚いた。「一発屋とはいわないけれど、(中略)さんぱつや」ってなかなか自分で言えることじゃない。なんか、ほんとに、敗北感……)。

 自動書記とか無意識とかいう感覚もわからなくもないのだけど、私の場合、どちらかというと身体性──キーボードを打つ運動によって言葉が導かれるというのか、意識の外側からやってくるなにかをつかまえる感覚に近い。そういうふうにして書いた文章は、後から読んでも生理的に気持ちがよくてしっくりくる。しかし、生理ばかり優先しているとそれこそとっちらかって読者を置いてきぼりにしてしまうんじゃないかという恐れもあり、だからついつい「わかりやすく」ととのえてちっちゃくまとまっちゃうのが悩みの種ではある。どうしてもここで入れておかなきゃいけない情報や説明だからと理屈を優先して書いた文章はやっぱりなんか異物感があってかっこわるいなあと思うのだが、それを生理的に気持ちよく読めるものに調整していく作業こそが、「文芸」だというかんじもする。

 ピアニストの友人が、自分にとってピアノは自由自在にできる唯一の道具であるというようなことを以前言っていて、すごいなと思った記憶がある。私は楽器も弾けないし、手芸も苦手だし、料理も苦手ってほどではないが得意ってわけでもない。唯一、得意というか仕事にしている文章に関しては、自由自在どころか、思うように書けなくていつも苦しんでいる。ストーリーを考えるのも大きく展開させるのも盛りあげるのも苦手だし、アクション描写も風景描写も苦手(なのにどうして小説を書いているんでしょうね……)。礼儀正しいとされる硬いビジネス文章も書けないので、メールのノリがとにかく軽く、いつもはじめましての編集者には驚かれる(社会性の欠如よ)。

 とりわけ難しいのは、自分の考えていることをそのまま言葉にうつしとることだ。厳密に精密に齟齬のないように言葉に置き換えること自体がほんとうに難しいんだけど、仮にぴったりと言葉に置き換えられたところでそれがそのまま読者に伝わるかといったらそういうわけでもない。そのあいだの落としどころというとどうしても妥協点みたいなニュアンスになっちゃうけど、ここでやっと飛躍を自分に許す。Aを表現したいとき、Aという言葉にたどりつけなかった(発見できなかった)り、Aという言葉そのままだと伝わりにくかったりするときに、Bという比喩を用いるみたいなこと。

 あと小説を書いていると時系列がぐちゃぐちゃしがちで、毎回編集者に指摘される。現在の話が進行しているところへ過去のエピソードをシームレスに差し込みたいというか、そういうふうにしか書けないからそういうふうに書いてしまうんだけど、回想というにはボリューム多めで、作者も語り手自身も回想という意識があんまりない。無意識過剰というかもうちょっと考えて書けよってかんじだし、単にへたくそなだけって気もする。時系列を溶かすことによってなにかを表現したいという強いこだわりがないかぎり、読みやすさを優先しておとなしく直しの指示にしたがうことが多いんだけど、できれば一行空きにはしたくないという変なこだわりがある。

HiGH&LOW THE MOVIE』に、回想シーンの中にさらに回想が差し込まれる箇所があるのだが、公開当時それを「回想の回想」として Twitter や応援上映などでみんなが面白がっているのを見て、回想の中に回想が入るのは作劇的にご法度なんだということを知った。なんならそれまで普通に小説の中でやらかしていた気がするし、いまもふと気づくと「あっ、これ回想の回想じゃん」みたいなことになっていたりする。いまだにそれのなにがいかんのかよくわからんのだが、入れ子構造みたいになってややこしいからいけないんだろうか。

『あらゆることは今起こる』で柴崎さんが書いていた複数の時間が並行して流れている感覚ともまたちがうんだけど、でもちょっとわかるところもあって、その人の中に流れている時間感覚というのもその人だけのものなんだなあと思ったりなどした。
 一時期、若い人のあいだで句点が忌避される「マルハラ」というのが話題になっていたけれど、あれとはまたちょっとニュアンスがちがうかもしれないが、句点で区切ってしまうとあまりにもなにかの一区切り感が強すぎて、いやー! 無理ー! やだー! と思うことがたまにある。そのせいで、なんか知らんけど文章が長くなりがちである。どうしても文章を分けたくなくて、この一文にすべての要素を入れたいという強い欲求が起こり、おそらくそれは読者にひとまとまりのリズムとして受け取ってもらいたいという欲求だと思うんだけど、断定とか言い切りから逃れたいという気持ちもあったりして、あと単純にこの情報とこの情報は並行に同列に扱いたいとかそういうのもあって、かぎかっことか「──」でつなげてついつい情報量の多い文章になってしまう(市川さんのいうところの「日本的文体」ってこういうことをいうんだろうか?)(柴崎さんのああでもないこうでもないと蛇行する長めのセンテンスが私にはとても気持ちがいい)(一行空きが好きじゃないのはこれも関係しているのかも)。

 以前このような文章を「フリルが多い」とネットで揶揄されたことがあったんだけど、フリルは多いほうがかわいいからいいんです。


 ちょっと気の向くままに筆を運びすぎてしまったかもしれない。話があちこちに飛び、なんの話をしてるんだかよくわからなくなっていたりして、いつにもまして読みにくい文章でもうしわけない。

 今回取りあげた本を読みながら、またこの原稿を書きながら、「らしさ」ということについて考えた。ある共通点を持った人たちの本を横断して読んだはずなのに、途中からその共通点よりも差異のほうが際立っていく感覚が強く、発達障害らしさ、小説家らしさ、人間らしさ、私らしさってなんだろう、そんなのほんとうにあるんだろうか、というようなことを考えた。

「らしさ」というのはある部分でほっとさせてくれることもあるし、カテゴライズされる/することを心地よく感じることもあるが、同時に「らしさ」を押しつけられて苦しむことだってあるし、ステレオタイプをまねく危険性だってある。「自分は〇〇だから」「私らしく生きる」と過剰に思いすぎることだって、自縄自縛になりかねない。スマホもそうだけど、なんでもやりすぎはよくないし、過信は禁物だ。

 とりあえずいまのところはまだその名前を知らなくていいやと私自身は思っている。なにをどうしたって自分は自分でしかないんだから、そこにある気質や特性を把握するぐらいのかんじで、自分という人間をこれからも知っていきたい。でもそれが私のすべてじゃないってことも肝に銘じておきたいと思う(それはそれとして、診断を受けてみたい、自分が抱えているものの正体を知りたいという人はすぐにでも専門機関に行ったほうがいいとは思う)。

 他者と出会うことは、いつだって自分を知ることにつながる。だから私は他者に出会いたい。できるだけ多くの他者に出会いたい。けど、不特定多数の人と積極的にコミュニケーションをとりたいとは思わないしそんな時間も体力もないから、他者の書いた本を乱読するぐらいがちょうどいいのかもしれない(なんという結論)。

(次回は12月8日公開予定です)


吉川トリコ(よしかわ・とりこ)

1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。2021年「流産あるあるすごく言いたい」(エッセイ集『おんなのじかん』所収)で第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞。22年『余命一年、男をかう』で第28回島清恋愛文学賞を受賞。2023年『あわのまにまに』で第5回ほんタメ文学賞あかりん部門大賞を受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『戦場のガールズライフ』『少女病』『ミドリのミ』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』シリーズ『夢で逢えたら』『流れる星をつかまえに』『コンビニエンス・ラブ』など多数。
Xアカウント @bonbontrico


 

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