吉川トリコ「じぶんごととする」 16. きれいに踊りたかっただけなんじゃねえの? 後編

じぶんごととする 16 きれいに踊りたかっただけなんじゃねえの? 後編


幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII

『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII
岸見一郎、古賀史健
ダイヤモンド社

 ここで改めて私の不安の正体を探ると、結局はお金の問題なんだなということに行きあたる。

「売れ」とか「褒め」とか「優劣」とか「文学性」とか、そういった他人の物差しで作品を測られること、それ自体は私の手を離れたことなので、他者の問題として切り離せばいい。アドラー心理学ではこれを「課題の分離」と呼んでいる。私の小説をだれがどう評価しようと、それはその人の問題(主観)であって、私には関係のないことだ。「それってあなたの感想ですよね」ってまさにこういうときにこそ使う言葉なのだろう。

 しかし、いくら他人からの評価を気にしないといっても、無慈悲なる資本主義の世界では本が売れないと職を失ってしまう。さすがにこれは死活問題である。

 うーん、でも出版社から本を出せなくなったら小説を書かなくなるのかというと、文学フリマで同人誌を売ったり小説投稿サイトに小説を投稿したり、発表できる場所があるかぎり書き続けるだろうという気はする。食い扶持を稼ぐためにバイトしなければならなくなるから、専業だったときよりペースは落ちるだろうけど、読者の多寡はわりとどうでもよくて、読んでくれる人が一人でもいれば私は小説を書き続けていくだろう。だってこんなに楽しいことはほかにないから。楽しいだけじゃなくて苦しいこともあるけれど、それでもやっぱりこんなに楽しい「趣味」はない。

 待って、じゃあなんで私はこんなにも長いあいだ「売れたい」と思い続けてきたの……? という話になってくる。

 理由は「お金がほしいから」に尽きるのだが、宝くじが当たったり石油を掘り当てたりして巨万の富を得られるのであれば、正直なところ小説が売れるより手っ取り早くて助かるまである。一生遊んで暮らせるだけの金があれば、各出版社に溜まったファウルゲージなど気にせず、「売れ線」とか「流行り」とかも気にせずに(いまだってさして気にしてはいないが)、好きなだけのびのびと書きたいものを書いていればいい。金さえあれば文学賞もマジでいらない。

 とはいえ、現状そんな巨万の富は降ってきてもいないし、ファウルゲージは溜まり続ける一方なので、やはり売れるしかないのだが、どうして売れたいのか、そこのところをちゃんと自分で見定められているのであれば、とりあえずよしということにしておこう。どうしてそんなにお金がほしくてたまらないかについては、また別の機会にじっくり考える必要がありそうだけど。

 

『幸せになる勇気』に、【褒賞ほうしょうが競争を生む】という節がある。

「ほめられること」を目的とする人々が集まると、その共同体には「競争」が生まれます。他者がほめられれば悔しいし、自分がほめられれば誇らしい。いかにして周囲よりも先にほめられ、たくさんほめられるか。さらには、いかにしてリーダーの寵愛ちょうあいを独占するか。こうして共同体は、褒賞をめざした競争原理に支配されていくことになります。

 
 また、『嫌われる勇気』では、競争原理に支配された人がどのような「ライフスタイル」(※アドラー心理学では個人の世界観に基づく思考や行動のパターンをこう呼んでいる)を持つようになるのか、このように語っている。

 いつの間にか、他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だと見なすようになるのです。(中略)
 すなわち、人々はいつも自分を小馬鹿にしてせせら笑い、隙あらば攻撃し、陥れようとしてくる油断ならない敵なのだ、世界は怖ろしい場所なのだ、と。(中略)
 競争の怖ろしさはここです。たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、競争の中に身を置いている人は心の休まる暇がない。敗者になりたくない。そして敗者にならないためには、つねに勝ち続けなければならない。他者を信じることができない。社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからです。彼らにとっての世界が、敵で満ちあふれた危険な場所だからです。

 
 これを読んだときにいちばんに思い出したのが、『PRIZE―プライズ―』の主人公・天羽カインだった。もう完全にカインの「ライフスタイル」そのものじゃないか。

『PRIZE』書影

『PRIZE―プライズ―』
村山由佳
文藝春秋

 だれかを見返すこと、だれかをぎゃふんと言わせることを目的としているかぎり、カインの不安が消えることはない。仮に直木賞を獲って、いったんはだれかをぎゃふんと言わせられたとして、「あの受賞は出来レースだった」とか「部数が減った」とか「落ち目」だとか、またすぐに別の理由を持ち出してだれかが自分を嗤っているんじゃないかと疑心暗鬼にとらわれるだろう。その物差しは「だれか」を通してカインが自分に与えているものにすぎない。「だれか」とは、ひっきょうカインが生み出したまぼろしなのだ。

 

 2023年の放送映画批評家協会賞で最優秀女優賞を受賞したケイト・ブランシェットは、だれがいちばんかを競わせて優劣を決めるのは家父長制のピラミッドのようなものだと賞レースのありようをスピーチで批判した。「競争をやめよう」と呼びかけ、テレビや映画や広告に出ているすべての女性とこの賞を共有すると宣言したケイト・ブランシェットはまるきりアドレリアンである。

 一方的に優劣を決め、権威によって権威を与える文学賞のありようって、たしかに言い訳の余地もないほどめちゃくちゃマッチョだ。プロの作家を対象とした名だたる文学賞の多くが男性作家の名前を冠していることからも推して知るべしである(田辺聖子文学館ジュニア文学賞は中高生向けだし、氷室冴子青春文学賞は新人賞だし)。

 とはいえ、完全に競争をなくしてしまったら──たとえば直木賞が年功序列制になったり、キャリア十年をすぎたすべての作家に自動的に授けられるようなものになったら、賞の権威は地に落ち、だれも目もくれなくなるだろう。「特権」だからこそ、みんな焦がれるようにほしがっている。その点では私もカインも同じである。むろん、作家として五年十年と生き延びられたことは大いに寿げばいいけれど、それでいったらいまそこにあなたがいることを寿ぎたいよ。

〈天羽カイン〉ではなく〈天野佳代子〉はただそこに存在するだけで価値がある。それさえわかっていれば、自分の力を見せつけようと躍起にならなくても済むはずだ。競争から身を引き、これ以上「もう待たなくてもよく」なる。

 そう思う一方で、アドラー心理学を実践するカインなんて見たくないとも思ってしまう。そんなのつまんない。つまんなすぎる。あのキレキレの口吻でいつまでも編集者の石田三成さんせいなじっていてほしい。物語の主人公はやはりジェットコースターに乗せられてこそだ。


『嫌われる勇気』を読んでいたのと同時期に、Podcast番組「佐伯ポインティの生き放題ラジオ!」の第58回で、「先生から褒められたいと思うあまり仲間をライバル視してしまうのだが、競争せずに高めあうにはどうしたらいいのか」という相談が取りあげられていた。

「最初のきっかけって先生に褒められたいからではなかったはずじゃん。先生とかさ、仲間とか、ノイズが増えてんだよね。そうじゃなくて、ほんとうはさ、きれいに踊りたかっただけなんじゃねえの?」

 お悩みに対するポインティさんの答えを聞いて、目の前を覆っていた雲がさっと晴れていくのを感じた。

 ほんとうにそうだ。きれいに踊りたい。ただそれだけでよかったはずなのに、なんでこんなわけのわからない障害物だらけのレールを走らされてるんだろうって。

 うまくなりたいの。どんなことをしても、もっと小説がうまくなりたい。

『PRIZE―プライズ―』

 
 私とカインでは立っている場所も見えているものもなにもかもちがうが、カインのこの叫びには心の底から共鳴せずにはいられなかった。カインだってほんとうは、ただ小説を書いていられればそれでよかったんじゃないだろうか。うっかり商業デビューなんかしちゃったばっかりに、おかしなジェットコースターに乗せられ、競争に巻き込まれて、自分を見失ってしまっただけで。

 そう、だから、ダンスを踊ろう。昨日よりも今日、高く跳べるように。今日よりも明日、きれいに脚があがるように。

 いつか、カインにも無心に踊れる日がくればいいなと思う。それは物語の先にあるものだから、私が目にすることはないのだろうけれど。

(次回の公開は時期未定です)


吉川トリコ(よしかわ・とりこ)

1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。2021年「流産あるあるすごく言いたい」(エッセイ集『おんなのじかん』所収)で第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞。22年『余命一年、男をかう』で第28回島清恋愛文学賞を受賞。2023年『あわのまにまに』で第5回ほんタメ文学賞あかりん部門大賞を受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『戦場のガールズライフ』『少女病』『ミドリのミ』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』シリーズ『夢で逢えたら』『流れる星をつかまえに』『コンビニエンス・ラブ』『裸足でかけてくおかしな妻さん』など多数。
Xアカウント @bonbontrico


 

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