【ランキング】アメリカのベストセラーを発表!ブックレビューfromNY<第22回>
ロストフ伯爵はジェントルマン
アレクサンダー・ロストフ伯爵は1922年6月21日、メトロポール・ホテルに終身拘禁の刑を受けた。伯爵が1913年に発表し、高い評価を受けた『それは今いずこ?』[2] というタイトルの詩の内容が反体制的であるという理由だった。検事に「職業は?」と聞かれ「職業を持たないことがジェントルマンの仕事である」[3] と答えた伯爵は、革命後も裕福で、1918年からモスクワの高級ホテルであるメトロポール3階のスィート・ルームで先祖伝来の家具に囲まれて暮らしていた。部屋の大きな窓からは劇場広場が一望できた。
判決後、護衛の兵士とともにホテルに戻った伯爵は、しかし3階のスィート・ルームに住むことは許されず、6階の屋根裏部屋の一つ(革命前は宿泊客の執事やメイドの寝室に使われていたが、革命後は使用されていなかった)に移るよう命じられた。いくつかの自分の家具を持っていくことを許されたが、ベッドだけでいっぱいになるような狭い部屋だったので、椅子や机、祖母のコーヒーテーブル、ランプ、妹ヘレナのポートレートなどしか運び込むことはできなかった。そして部屋には《切手サイズ》の小さな窓があるだけだった。
伯爵は幼い時、両親をコレラで相次いで失ったあとは、未亡人だった祖母の伯爵夫人に伯爵家の跡取りとして育てられた。7歳の時、近所の子供にゲームで負け、悔し涙にくれて悪態をつきながらゲームのコマを蹴飛ばしているアレクサンダーを、まだ存命だった父親はスポーツマンシップに欠けた振る舞いだと叱責した。祖母は「ゲームに負けるのは愉快なことではない」と言って同情したものの、「だからといって相手をより満足させることはないでしょう」とも言った。負けて悔しがっていると、相手を余計喜ばせることになると教えたのだった。
ホテルの屋根裏部屋に移った伯爵は少しもめげた様子はなく、今まで通り毅然とした態度を保っていた。人間は自分の置かれた環境に制御されるのではなく、環境を制御すべきだというのが伯爵の持論なのだ。
その夜、伯爵は3階の元の部屋から運んできた机の前に座った。この机は、伯爵のゴッドファ-ザー(代父)で、伯爵の父親の死後は親友の息子である伯爵のことを気にかけてくれたデミドフ大公の遺品だった。机の4本脚のそれぞれに隠しボタンがあり、それを押すと隠し戸が開き、金貨がぎっしり詰まっていた。次の日、伯爵は取引のあった銀行家を部屋に招き入れて金貨を見せた。銀行家は、これはエカチェリーナ2世の戴冠記念に5000枚限定で作られた金貨で非常に高価な物だと値踏みし、必要であればいつでも換金に応じることを約束した。この金貨のおかげで伯爵は金銭的な心配をする必要はなかった。
ともあれ行動範囲をホテル内に限定された伯爵は、朝食を屋根裏部屋で食べた後は、ロビーで新聞を読み、ホテル内の2つのレストランのどちらかで食事をし、ホテルのバーで飲む以外は、週1回、ホテル内の理髪店に行くくらいしかすることがなかった。以後32年間、伯爵はホテルの中という狭い空間にとどまりながら、思いもかけない出会いや出来事に遭遇していく。
少女との出会い、親友との再会 – 1922年
数日後、ホテルのレストランの1つ、1階ロビー脇の「ピアザ」で伯爵は黄色のドレスを着たニーナという9歳の少女と知り合いになった。モスクワ駐在のウクライナ官僚の娘で母親がいなかった。ニーナの父親は、「短期勤務」だからとホテル住まいを続け、ニーナを学校に入れる手続きもせずにいたため、ニーナは昼間はホテルのあちらこちらに出没していた。伯爵はニーナに連れ回され、ホテルのあちこちを探検するする羽目になった。伯爵自身は、1918年からこのホテルに住み、ホテルを知り尽くしていると思っていたが、それは表の部分だけだったと思い知った。ニーナに連れて行かれたのは地下のボイラー室、電気室、物置、宴会用食器や備品の収納部屋、そして郵便室、電話交換室など顧客の目につかない部屋ばかりだった。驚いたことに、ニーナはどこで手に入れたのかホテルのマスターキーを持っていて、そのカギを使って客室まで開けて中をのぞいたりしていた。
9月21日、伯爵が22歳の時から親友だったミカエル・フィヨドロヴィチ(ミシュカ)が伯爵を訪ねてきた。伯爵は革命の前後、1918年までパリに住んでいたので、何年かぶりの再会だった。この日は伯爵のゴッドファーザーのデミドフ大公が亡くなってからちょうど10年になるので、伯爵と大公を偲んで語り、飲むためにワインを携えてきたのだった(ロシアでは死後10周年に死者を偲ぶ催しをする風習がある)。翌日、ミシュカはモスクワで開催される、RAPP(ロシア・プロネタリアート作家協会)の準備集会に参加するために伯爵と別れた。
クリスマスイブの午後遅く、ニーナと伯爵は「ピアザ」にいた。ニーナは父親とのディナーの前のオードブルと称してアイスクリームを食べ、伯爵はシャンパンを飲んでいた。ニーナは、1月からホテルを出て父と一緒にアパートに住むことになり、学校にも行くことが決まったと憂鬱そうに報告した。そして、ニーナはホテルのマスターキーを伯爵にクリスマスプレゼントとして残していった。
女優との出会い – 1923年
1923年6月21日、伯爵がメトロポール・ホテルに拘禁されて1年目の日、伯爵は一番上等なワイン色のスモーキングジャケットを着て1周年を過ごすことにした。理髪店に行く途中、ロビーで2匹の猟犬を連れ、猟犬の扱いに手を焼いている美しい女性に目をとめた。この女性はアンナ・ウルバノバという売り出し中の映画女優だった。散髪を終え、ホテルのバー「シャリアピン」で親友のミシュカを待っていると、アンナ・ウルバノバがやはりバーに来ていた。そのあと伯爵はアンナからのメッセージを受け取り、アンナのホテルの部屋で一緒に食事をしたのだが、この2人の最初の出会いは双方にとって散々な結末となった。食事の後、寝室でアンナが脱ぎ捨てて床に落としたブラウスを、着るものは必ず脱いだらハンガーにかけるという教育を受けてきた伯爵が無意識に拾い上げハンガーにかけたことで、女優は自分の行儀の悪さを指摘されたように感じて逆ギレし、伯爵を部屋から追い出したのだった。伯爵は長い間放心状態が続いた。女優のほうも、クローゼットの中の洋服すべてを床に投げつけたり、窓から洋服を外に投げ捨てたりと大荒れに荒れたのだった。
自殺未遂、そして再出発 – 1926年
1926年6月21日朝、銀行家は伯爵の部屋を訪れ、金貨の換金をして、デパートや近所のベーカリー、そしてメトロポール・ホテルの支払清算を手伝った。そのあと伯爵はミシュカあてに手紙を書き、ベルボーイに投函を頼んだ。午後は理髪店に行った。そしてワイン色のスモーキングジャケットのポケットに、金貨を1枚と「ベッドの上に出してある黒のスーツを着せて、アイドルアワー(伯爵家の元所領地の地名)にある伯爵家の墓地に埋葬してほしい」と頼んだメモを滑り込ませた。
思い起こせは4年前、拘禁の刑を受けてホテルに戻ったときは、「自分の環境は自分で制御する」と誓ったのだが、時代は変わり、伯爵はもはやそんな気力がなくなっていた。レストランで伯爵が「司教」とあだ名をつけている、ウェイターとしてまったく無能だが共産党に影響力のある若者がレストランでは幅を利かせるようになっていた。ニーナは広いアパートに移ってからはめったにホテルに来ないし、6月に開かれるRAPP年次総会に出席のため毎年モスクワに来ていたミシュカは、今年は参加しないという。彼は本を書くため大学も休職し、恋人のカテリーナを追いかけて今はキエフに住んでいる。ホテルの屋根の上ではちみつを採集していて、一時屋根の上で一緒にコーヒーを飲む仲だった雑用係のアブラムも、最近はミツバチが来なくなったので、屋根に上がって来なくなっていた。
ホテルのフォーマル・レストラン「ボヤースキィ」で夕食を済ませた伯爵は、バー「シャリアピン」へ食後のブランディーを飲みに行った。真夜中少し前に自室に戻り、直後に時計の12時のチャイムを聞いた。日付が改まった6月22日は妹ヘレナの死後10周年にあたる。ワインを開けグラスをアイドルアワーの方角に掲げ、伯爵はヘレナのためにワインを飲みほした。そして屋根に続く階段を静かに上がっていった。
屋根の上で心静かに飛び降りようとしていた伯爵に、「閣下」と後ろから声をかけたのは、雑用係のアブラムだった。興奮してミツバチが戻ってきたと伯爵に報告したのだった。アブラムと一緒にミツバチの巣を見に行き、蜂蜜の味見をしたとき、伯爵は蜂蜜の中に、故郷のリンゴの味を味わったのだった。
アブラムに「おやすみ」を言い、明け方の2時近くに伯爵は自室に戻った。ポケットの中の金貨は机の脚の隠し場所に戻した。まだ少なくとも28年分の金貨が残っている。翌日、「ボヤースキィ」が夕方6時に開店した時、最初の客としてレストランに入った伯爵は、支配人のアンドレイに「折り入って話がある」と切り出した。
給仕長
そして伯爵は「ボヤースキィ」の給仕長になった。
給仕長として忙しく働く中で、1928年ごろまでにはかつてひどい別れ方をした女優のアンナとの関係を修復、アンナがメトロポールに泊まる時は、会うようにもなっていた。
1930年のある夜、レストランの個室「黄色の部屋」の客がウェイターとして伯爵を指名した。客はオシップ・イヴァノヴィッチ・グレブニコフという名の元赤軍大佐だった。部屋にはほかに客はいなかった。オシップはこれからイギリス、フランス、アメリカなどとの外交に関わらなければならないので、伯爵と月1回、「黄色の部屋」で食事をしながら、ジェントルマンとしてのマナーや外交スキルを英語やフランス語で話しながら学びたいと依頼した。伯爵とオシップは以後、友情を深めていった。
ニーナの娘ソフィア
1938年の春、ニーナが突然伯爵を訪ねてきた。そして、6年前に結婚したこと、2週間前に夫レオと農業関係の集会に出席するためにモスクワに戻って来たが、戻ってすぐに夫は逮捕され、5年の懲役刑を科せられた。自分は夫と一緒に、今夜、懲役刑が執行される地に行くつもりだけれど、5歳の娘ソフィアを連れて行けないので、しばらくの間、預かってほしいと伯爵に頼んだ。生活が落ち着いたら迎えに来るので、1~2か月のことだからと言い、ソフィアを伯爵に託すと、ニーナはそのまま出て行ってしまった。結局、ニーナは娘を迎えに来ることなく消息を絶ってしまった。
その日、久しぶりにミシュカが訪ねてきた。本を出版することになったが、出版元が文章の一部修正を要求していると怒り狂っていた。なんとか伯爵はミシュカをなだめたが、翌日ミシュカは出版社に怒鳴り込み、彼の言動が当局の知るところとなって、1939年3月、シベリア送りになってしまった。
一方、伯爵はバーで知り合ったアメリカ人の外交官リチャード・バンダーホワイルと親交を深めていった。
1950年、ソフィアは17歳になっていた。成長するにつれピアニストとしての才能を示した。ソフィアのピアノの才能に気付いたホテルの楽団指揮者ビクターは、ソフィアにピアノの手ほどきをしていた。
1953年
1953年3月3日、スターリンの死により、ソビエト連邦の行く末が不透明になってきた。
その年、ソフィアはピアノのコンクールで優勝した。
そして同じ年、伯爵の親友、ミシュカの死が元妻のカテリーナから伯爵に伝えられた。そして、そこで伯爵は初めて、ミシュカと伯爵の間の秘密をカテリーナに明かすのだった。その秘密とは……。
1953年12月21日、6か月後の6月21日に、ソフィアはオーケストラの一員としてパリに行くことが決まった。伯爵は、ソフィアの将来に関する綿密な計画と準備を始めた。その計画と準備とは……。
そして、32年間に及んだホテル生活の末に伯爵の人生はどうなったのか……。
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1917年のロシア革命直後の混乱の中、革命政府の裁判によってホテルに拘禁の刑を受けた伯爵は、結局32年間ホテルから一歩も外に出ることはなかった(厳密に言えば、一度やむを得ない事情でホテルの外に出ているのだが、その時は元赤軍大佐のオシップの機転と助けで、当局に気付かれることなく無事ホテル内に戻った)。それにもかかわらず外の世界の政治的な変化が、ホテルに有形無形の影響を与えていることを伯爵も読者もひしひしと感じる。ウェイターとして無能な「司祭」は、おそらく政治的な理由で1950年代にはホテルのマネージャーの地位に上り詰めた。
伯爵がホテルで人生を過ごしている間、世界情勢は東西冷戦時代へと突き進んでいった。その危うさをホテルの中で感じ続けた伯爵は、最愛の娘(ソフィアは伯爵にとって娘であり、伯爵はソフィアにとって最愛のパパになっていた)の将来の安全と幸せを願い、綿密な計画を練り、それを実行に移すのだった。
この作品は1920年代から50年代にかけてのロシア(ソビエト連邦)を描く歴史小説と言える。同時に最後の100ページの思わぬ展開に手に汗握るサスペンス小説にも仕上がっている。
[2]“Where Is It Now?”
[3] “It is not the business of gentlemen to have occupations”p.4
佐藤則男のプロフィール
早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!
初出:P+D MAGAZINE(2017/09/16)
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