【ランキング】愛と感動の物語、第2弾! ブックレビューfromNY<第37回>

Kindred Spirit(同人)という名の郵便箱

ノースカロライナ州のリゾートの町、サンセット・ビーチに隣接するバード・アイランドには1983年以来、Kindred Spirit(同人)と名付けられた無人の郵便箱[2]がある。この郵便箱は誰でも手紙、葉書やメッセージを入れることができ、また誰でも郵便箱の中の手紙を読むことができる。人々の「希望と夢の保管所(repository)」としての役割を担ってきた。島には車を乗り入れることができないので、訪れる人はサンセット・ビーチのパーキングに車を置いて徒歩でバード・アイランドに入る。ポールに高々と掲げられた米国旗を目指して砂の中を歩くと郵便箱を見つけることができる。郵便箱の隣にはベンチが設置されていて、そこに座って手紙を読んだりできるようになっている。今月紹介するニコラス・スパークスの“Every Breath”のストーリーは、この実在するKindred Spiritという名の郵便箱から始まる。

ニコラス・スパークスは世界的なベストセラー作家で、今まで出版したすべての作品がニューヨーク・タイムズのベストセラーになっている。米国での出版部数は合計7500万部、世界中では、50か国語で1億500万部売れている[3]。1965年12月31日、ネブラスカ州生まれのスパークスは、ノートルダム大学の学生時代に最初の小説を書いているが、これは出版されることはなかった。そして1988年の大学卒業後は、いろいろな職業に就きながら2番目の未刊行小説を書いた。1994年から書き始めた小説“The Notebook”(邦題:きみに読む物語)は1996年に出版されるとたちまちベストセラーとなり、すぐに100万ドルの映画権の契約も結ばれ、ほとんど無名だったスパークスは、一夜にして、「売れる作家」となった[4]。以来スパークスは去年までに19の小説を出版、そのうち11作品が映画化されている。この最新作はスパークスの20作目の小説となる。

この小説では最初の章にスパークス自身が登場する。2016年の春のある日、ニコラス・スパークスは地元の人に、行ってみる価値があるから是非にと勧められ、バード・アイランドにあるこの無人の郵便箱を目指して砂の中を歩いていた(実話ではなくすでに小説の中)。郵便箱に到着し、箱の中身を取り出すと、手紙などに交じり書類用の茶封筒があることに気付いた。封筒には、「かつてないほどの驚くべき物語!」と書かれていた。そして封筒の中身を検めると、あるストーリーが12枚ほどの紙に書かれ、3通の手紙と男女を描いた数点のスケッチ画のコピーとともに封筒に入っていた。ストーリーや手紙をざっと読み、スケッチを見たスパークスは、郵便箱に封筒を入れた人物に非常に興味を持った。しかし、急に天候が悪くなったので、封筒やその他の手紙を郵便箱に戻し、いったん帰途についた。結局、そのあといろいろ忙しく、郵便箱に戻ったのは1週間ほどたってからだった。中を見ると、1週間前にあったほとんどの手紙はそのまま残っていたが、茶封筒はなくなっていた。

覚えているストーリーや手紙の内容を頼りに海辺を探索すると、ある家の前で、大工仕事をする老人に気付いた。老人の青い目を見た時、手紙に書かれていた青い目の人物に違いないとスパークスは思い、話しかけた。自己紹介をして、「茶封筒を郵便箱に入れたのはあなたですか?」と尋ねると、老人は「そうだ」と答えた。老人は、自分の身に起こった奇跡のような愛の物語を多くの人に知ってもらいたくて、ストーリーを書いて郵便箱に入れたが、すぐ思い直して封筒を取り戻したのだった。スパークスはこの物語をもとに本を書きたいと申し出た。老人はスパークスの話を熱心に聞きながら、自分にまつわる信じられないような話を多くの人に知ってもらいたいという気持ちと、周りの人たちのプライバシーを守りたいという気持ちのはざまで揺れ動いているようだった。最終的に、登場人物を匿名にすること、最終原稿を自分がチェックしてから出版することを条件に、老人はスパークスが物語を本にすることを承知した。こうしてスパークスは老人の話をもとに小説を書くことになった(という設定)。

1990年9月 ジンバブエ

42歳のトゥルー・ウォールズはジンバブエのワンゲ国立公園のサファリのガイドをやっている。ジンバブエが独立する前、英国領南ローデシアだった時代に、白人の裕福な大農場主の一人娘エブリンの長男として生まれたトゥルーは、11歳の時に自宅の火事で母を亡くしてから、義理の父や父親違いの双子の弟たちとはなじまず、屋外で1人で過ごすことが多かった。そして動物たちとなじみ、次第にサファリのガイドをするようになっていった。10年前に結婚して10歳の息子アンドリューがいる。子供ができてもガイドの仕事を続けて不在がちなトゥルーと、妻のキムとの結婚生活は5年後に終わりを告げた。キムはジンバブエ第2の都市ブラワヨ市で息子のアンドリュー、2番目の夫ケン、ケンとの間にできた娘と4人で暮らしている。トゥルーとキムは離婚後もアンドリューの両親として良好な関係を続けている。トゥルーは離婚後にブラワヨ市に家を買った。泊まりがけのガイドの仕事の時はアンドリューにとっては父親不在となるが、2週間の休みの間は、トゥルーはブラワヨ市の自宅で、アンドリューと2人で過ごす生活を続けている。

1990年9月9日の朝早く、トゥルーはワンゲ国立公園のキャンプを出て、愛用のトラックでブラワヨ市に向かった。前妻のキムと息子のアンドリューに会ったあと、自宅で1泊してから、翌日の早朝、ブラワヨを出て首都ハレル近郊のウォール家の屋敷に向かった。夜遅く屋敷に到着したトゥルーは義理の父のロドニーの住んでいる家にも、双子の兄弟が住んでいる家にも、また自分が26歳の時に祖父からの遺産として相続した本宅にも立ち寄らず、かつて召使が住んでいて、母が死んでからはよく1人で寝泊まりしていた小屋に行って一夜を明かした。そして次の朝早く、自分が運転してきたトラックを屋敷に置き、使用人頭に車でハラレ国際空港まで送ってもらった。

トゥルーは生まれた時から父親がいなかった。父親に関しては、母も祖父も口をつぐんで何も言わなかった。母は再婚し、双子の弟ができ、そして若くして亡くなった。事情を知っていたはずの祖父を26歳の時に亡くしてからは、トゥルーは自分の本当の父親に関して知るすべがなくなっていた。ところが数か月前、突然、父親を名乗る人物からの手紙がアメリカから届いたのだった。しばらくは封も切らずに放っておいたが、ある日ついに封筒の中を見ると1枚の写真と手紙、飛行機の切符が入っていた。写真に写っていたのは、若いハンサムな男性と一緒の、ごく若いころの母親エブリンとしか思えない女性の写真だった。手紙の主はアメリカ人で、ハリー・ベッカムと名乗った。手紙によれば、第二次世界大戦後、南ローデシアの鉱山で技術者として働いていたハリーが32歳の時、まだ学生だったエブリンと出会い、2人は愛し合ったが、彼はアメリカに1人で戻ることになった。その時、エブリンが妊娠していたことを知らなかったと手紙には書いてあった。そして自分は今、不治の病にかかっていて、生きている間に息子であるトゥルーにひと目会いたいとも書かれていた。

ハラレからアムステルダム、ニューヨーク、シャーロットを経由して、飛行機はようやくノースカロライナ州ウェリントンに到着した。ウェリントン空港には、トゥルーの名前を書いた札を持った運転手が迎えに来ていた。空港から約1時間のドライブののち、サンセット・ビーチという場所の海辺の3階建ての大きな家の1階のガレージに車は止まった。この近代的な家は、1階はすべて駐車用スペースで、2階、3階が居住スペースという作りになっていた。そして、運転手はトゥルーにこの家の鍵と手紙が入った封筒を渡した。手紙は父ハリーからで、食料品は冷蔵庫や食品棚の中にあるので自由に食べるように、外出をしたければリムジン・サービスを使うように、そして土曜日に会いに行く、と書かれていた。まだ火曜日の夕方だった。

1990年9月 サンセット・ビーチ

ホープ・アンダーソンは36歳の看護師。土曜日に予定されている友人エレンの結婚式に出席するためにサンセット・ビーチのコテージに来ていた。子供の時から毎夏必ず来ていた思い出深い別荘だが、最近、父が不治の病といわれる筋萎縮性側索硬化症(ALS)にかかったことがわかり、両親は今後のことを考え、コテージを売りに出した。自分の所持品の整理をするつもりで、少し早めに昨日(火曜日)からここに滞在しているホープは、沈んだ気持ちを持て余していた。原因は父の病気だけではない。6年間付き合っているボーイフレンドの医師ジョシュとの関係がマンネリ状態になっているからだ。子供の欲しいホープは早く結婚して子供を作らなければと焦る気持ちがあるが、もうすぐ40歳になるジョシュはいつまでたっても大人になりきらないで、自由を求めている節がある。今回の結婚式、当然ボーイフレンドであるジョシュが自分と一緒に出席してくれると思っていたホープだったが、ジョシュは男友達とラスベガスに遊びに行ってしまった。

愛犬のスコティと一緒に別荘に来たホープは、水曜日の朝、スコティと浜辺を散歩していた時に偶然トゥルーと出会った。トゥルーの滞在している3階建ての家と、ホープの両親の別荘は隣同士だった。ノースカロライナ州ローリーから来たホープとジンバブエから来たトゥルーはお互いに自己紹介をし、ホープは友達の結婚式に出るため、トゥルーは父に会うためにサンセット・ビーチに来たことをそれぞれ話した。ホープから近くの桟橋の向こうに「クランシーズ」というレストランがあることを聞いたトゥルーは、その夜、1人でレストランに出かけた。するとしばらくして、ホープがレストランに入ってきた。また偶然に出会った2人は夕食をともにした。夕食のあと2人はホープの家で、ワインを一杯飲んで別れた。その間お互いのことをいろいろ話した。ホープは聞かれるままにジョシュとの関係がうまくいっていないことを話し、トゥルーは自分の生い立ちや家族のことを話した。そして、ホープはバード・アイランドにある郵便箱“Kindred Spirit” のことをトゥルーに話し、是非行ってみるべきだと勧めた。

次の日(木曜日)、トゥルーは朝早く桟橋で釣りをしながら、スコティとじゃれあっているホープを目で追っていた。ホープは犬と散歩のあと、シャワーを浴び、美容院に出かける前に、隣の家のドアにトゥルーに宛てメモを挟んだ。釣りから戻ったトゥルーは、「午後Kindred Spiritに行くつもりなので、一緒に行きたければ3時にビーチで会いましょう」というホープからのメモを見つけた。そして2人は一緒にKindred Spiritまで行き、郵便箱の中にあった手紙を読んだ。その夜、ホープの家で夕食を一緒にした2人だったが、その最中にラスベガスにいるホープのボーイフレンドのジョシュから電話が入った。ホープは「今は話したくない」と電話を切った。そしてその夜、トゥルーはホープの家に泊まった。

次の2日間、金曜日から土曜日にかけて、トゥルーはほとんどホープの家にいた。トゥルーはホープの姿を何枚もスケッチ画に描いた。金曜日の夕方、ホープは結婚式のリハーサルディナー[5]に出かけ、トゥルーは彼女の家で帰りを待った。土曜日の午後、父のハリーが来ることになっていたので、その時は、トゥルーは父の家に戻った。

会うまでは本当に父親であろうかと疑う気持ちもあったが、訪ねてきた老人に自分と同じ濃い青い目、頬の小さなえくぼを見た時、まぎれもなく父親が目の前に立っていると確信したトゥルーだった。石油会社エクソンの重役を定年退職した父は、ステージⅣの肺がんを患っていた。そして父は、どのようにしてエブリンに会ったか、どれほど彼女を愛したか、しかし、なぜ突然愛するエブリンを捨てるようにしてアメリカに戻ってしまったかをトゥルーに話した。南ローデシアを去る時にはエブリンが妊娠していることを知らなかったのに、どうして息子がいることがわかったかについても話した。

父と会ったあと、ホープの家に戻り、トゥルーは彼女の帰りを待った。父の話を聞いて、トゥルーは父と自分を重ね合わせた。父と母は一緒になるすべを見つけることができず、結果的に父は母を置いてアメリカに戻ってしまった。しかし、自分とホープの場合は違う、一緒になれると信じたかった。翌朝、トゥルーはホープに、一緒にジンバブエに行って息子のアンドリューにも会ってほしいと頼んだ。真夜中過ぎに結婚式から戻り、ほとんど眠ることのできなかったホープの気持ちは、トゥルーへの愛と現実との狭間で揺れ動いていた。というのも、結婚式場に、ボーイフレンドのジョシュが現れたのだった。木曜日の夜、電話でホープに冷たくされたジョシュは危機感を抱き、急遽ラスベガスから戻り、結婚式場でホープにプロポーズしたのだった。不治の病の父のことも心配だったが、何よりもトゥルーと結婚することは、自分の子供を持てないことを意味し、そのことが、結婚して子供を作りたかったホープにとっては致命的だった。トゥルーはアンドリューが生まれたあとに麻疹にかかり、その後遺症で子供を作れなくなっていた。結局、ホープはトゥルーと別れることを決意し、サンセット・ビーチをあとにした。

2014年10月 Kindred Spiritの奇跡

サンセット・ビーチでのトゥルーとの出会いと別れからすでに四半世紀近くたち、ホープは60歳になっていた。あのあとホープはジョシュと結婚し、2人の子供、ジェイコブとレイチェルに恵まれた。しかし、結婚生活はいつもジョシュの女性関係に悩まされ、8年前、2人は離婚した。子供たちも独立し、ノースカロライナ州ローリーの自宅に、ホープは1人で住んでいた。8年前の離婚直後から、ホープはトゥルーと連絡を取りたくて探し続けたが、ジンバブエの政治情勢が不安定なこともあり、消息はつかめなかった。生きているのかどうかさえわからなかった。

2014年10月、ホープは自宅を出てカロライナ・ビーチに向かった。かつて両親が別荘を持っていたサンセット・ビーチは今や豪華な別荘が建ち並ぶ高級リゾート地になってしまっている。それに比べて、カロライナ・ビーチにはまだこぢんまりしたコテージが並び、昔のサンセット・ビーチのようだった。ホープが借りた小さなコテージは、昔の両親の別荘に似ていた。去年、1週間このコテージを借りて過ごし、今年もここに来た。コテージに着いた翌日、ホープはKindred Spiritの郵便箱に向かって歩いた。去年、カロライナ・ビーチに滞在した時、ホープは郵便箱にメモを入れたのだった。そのメモの内容が人づてにでもトゥルーに伝われば、彼は今日、郵便箱に現れるはずだった。

そしてホープとトゥルーは奇跡のようにKindred Spiritの郵便箱で再会した。

ただひたすら再会を喜び、結婚を申し込むトゥルーに対し、最初の喜びが落ち着いたあと、再会が遅すぎたと悲嘆にくれるホープだった。実は父親と同じ病気、筋萎縮性側索硬化症にかかっていて5年半くらいの命しかなく、それも最後の1年はとても厳しい状態になるとホープは言った。その言葉に対しトゥルーは、自分は24年も1人で生きてきたのだから、4年半でも2人で一緒に生きていきたいと言ったのだった。

エピローグでは、作者スパークスがまた登場し、自宅の前で車いすに座ったホープとその隣に立ってホープの肩にやさしく手を添えているトゥルーに会っている。そして「やっと2人は自分たちだけの時間を持てるようになった。」とこの小説を結んでいる。

****************************
人は、人生において日々、自分の気持ちと周囲の状況との狭間で、大なり小なりいろいろな決断をし、そしてその結果を受け入れて生きている。その人生が終わりに近づいた時、「あの時、自分の気持ちのままに行動していたらどうだっただろう?」と思うことがあるかもしれない。「もうやり直すには遅すぎる」と思う必要はない、と前向きな気持ちにさせてくれる、これはそんな小説だと思う。

スパークスは読者への「作者の覚書」の中で、この小説では、小説の中に作者が登場するという手法を使い、「私がトゥルーとホープのストーリーを見つけたというのは全くの作り話だ[6]」と述べている。ただ、小説の背景に関しては、ジンバブエには何度も旅行し、またサファリのガイドから体験談などを聞き、その経験や取材をもとにこの小説を書いたと述べている。実際、トゥルーとホープの愛のストーリーもさることながら、英国植民地時代(南ローデシア)から独立国(ジンバブエ)へと激動の変遷を遂げた国を生き抜いてきた白人のトゥルーやその家族の話に興味は尽きない。トゥルーにまつわるアフリカでの数々のエピソードはこの小説に奥深さを与えている。

1948年生まれのトゥルーと1954年生まれのホープの愛の物語は、特に団塊世代の読者の心を鷲掴みにするだろう。

[2]http://thekindredspirit.net/
[3]http://nicholassparks.com/about/
[4]https://www.biography.com/people/nicholas-sparks-562686
[5]新郎新婦・両家の両親・牧師などの司式者・付添人などで、式前日にリハーサルを行い、そのあとで兄弟姉妹や親族、親しい友人を加えて催される食事会を『リハーサルディナー(rehearsal dinner)』と言う。
[6]“…my “discovery” of Tru and Hope’s story is entirely fictional….”, p.306

佐藤則男のプロフィール

早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!

初出:P+D MAGAZINE(2018/12/14)

【著者インタビュー】東海林さだお『ひとりメシの極意』
私の本 第6回 大澤真幸さん ▶︎▷04