【NYのベストセラーランキングを先取り!】差別と貧困にまみれたアメリカの大恐慌時代を生き抜いた母と娘の勇気 ブックレビューfromNY<第64回>
1921年、好景気に沸くテキサスの小麦農業
1921年、テキサス州の小麦農業は、第一次世界大戦の勝利以来、豊作と値上がりで好景気に沸いていた。そんなテキサスの田舎町でトラクターなど農機具の販売をしていたウォルコット氏の店も絶好調だった。彼には3人の娘がいて、美しい下の2人は既に幸せな結婚をしていた。しかし、長女のエルサは14歳の時にリウマチ熱にかかり、治ってからも両親は彼女を病人扱いしてあまり外に出さなかった。学校に行かず、自室ですごすことの多かったエルサは、いろいろな小説を読んで自分とは違う冒険に満ちた生き方を夢見ていた。背が高すぎ、痩せて顔色の悪いエルサのことを、両親を含めだれもが不細工な娘だと思っていた。そして近所の人たちは、未婚のまま実家で年を取り、両親を看取った後は一人ぼっちで一生を終わるかわいそうな娘だと思っていた。
25歳の誕生日の前日、エルサは今までの自分を変えたいと思った。そこで勇気を振り絞って、父親にシカゴの大学で文学を勉強して作家を目指したいと願い出たが、一蹴されてしまった。もうずっと前に病気は治っていたにもかかわらず、父は、そんな弱い体で大学に行くなどもってのほかだ、自分に隠れた才能があるとでも思っているのか、と言い放って取り付く島もなかった。
25歳の誕生日、街で美しい深紅のシルク生地を見たエルサは、自分への誕生日プレゼントとして、その布を買った。そして、大好きだった祖父の口癖を思い出していた。「死ぬことを思い悩むな。生きていないことを思い悩め。勇気を持て」。家に戻ると、エルサは当時先端的な女性の間で流行していたボブ・スタイルに似せて髪の毛を切った。そして、《希望》という心の高まりを感じながら、買ってきた紅いシルクで流行のデザインのドレスを作り始めた。土曜日の夜、フラパーと呼ばれた若い自由な女性が好んで着そうな斬新なデザインのドレスが出来上がった。それを着て階下に降りると、案の定、両親はショックを受け、父はすぐさま「部屋に戻れ、恥を知れ」と怒鳴った。しかしそれまでと違い、エルサは父の言うことを聞かずにそのまま家を飛び出し、夜の街に向かった。もぐり酒場[3]で音楽を聴こうと思ったが、入り口でウォルコット氏の長女エルサだと気付かれ、入れてもらえなかった。土曜日の夜の街を一人、紅いドレスを着て歩くエルサを呼び止めたのが、レイフ・マーティネリだった。マーティネリ家は最近この付近の農場を買って引っ越してきたばかりで、レイフはまだ街のことを良く知らなかった。街に慣れていない2人はすっかり意気投合した。
こうしてエルサとレイフは人目を忍んで時々会うようになった。レイフはマーティネリ家の一人息子で、エルサよりずっと若く、子供の時に親同士が決めた婚約者がいて、8月からは、マーティネリ家から初めて大学に進学することが決まっていた。当時、プロテスタントのウォルコット家とカトリックでイタリア系のマーティネリ家との婚姻などありえなかったから、はじめからエルサとレイフは、結婚を前提としない付き合いをしていた。ところが、程なくしてエルサが妊娠する。お腹の子の父親がレイフであると知ったウォルコット氏は、エルサを無理やりマーティネリ家に連れて行き、レイフと結婚させろと迫った。もしマーティネリ家がエルサを受け入れなくても、ウォルコット家としてはエルサを勘当したので、エルサに帰る家はない、と言い放ち、エルサをマーティネリ家の門前に残して車で立ち去った。
突然のウォルコット氏とエルサの訪問に、息子とエルサの交際を知らなかったレイフの両親のトニーとローズは狼狽したが、レイフの子供がお腹に宿っているからには、エルサを追い出すことはできないと決意した。レイフの大学進学は取りやめになり、子供の時からの婚約は解消された。そして、身内だけでエルサとレイフの結婚式を挙げ、翌年2月、無事に長女のロレダが生まれた。
1934年、干ばつ、砂嵐、小麦の不作にあえぐテキサス
結婚から13年後、エルサは2人の子供ロレダとアント(アンソニー)の母親として子育てにいそしみ、家事だけでなく農場の切り盛りも手伝って、マーティネリ家に受け入れられていた。だが、農場を取り巻く環境は、1929年の大恐慌以降、年々厳しいものになっていた。当初は豊作が続いていたが、価格の下落が農場経営を圧迫した。そして、その後数年にわたり干ばつが続いて不作となり、干ばつの影響で砂嵐が多発するようになって農場は大打撃を受けた。農場主の多くが経済的に立ち行かなくなり、新天地を求めて西海岸を目指すようになっていった。移住した親戚や友人から手紙をもらい、自分たちもと、農場を捨てて、カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州などに移住する人が増えていった。そんななか、エルサと結婚してから自由を奪われ、農場に縛り付けられたと感じていたレイフは、心機一転、カリフォルニアに行きたいという夢を膨らませていた。しかし、トニーとローズは、雨さえ降ればまた小麦を収穫することができるので、今は耐える時だと、移住に反対した。エルサも、何の保証もなく2人の子供を連れて移住することはリスクが高すぎると感じていた。家族の同意を得ることが難しいとわかると、レイフはある日、黙って一人で家を出た。書き置きには、行く先も、戻ってくるつもりかどうかも書かれていなかった。
1935年、カリフォルニアで移住者として差別され
働き手の夫を失い、子供2人を抱えたエルサは、前にもまして義理の両親と働き続けた。子供の将来のために、なんとか農場を捨てずに頑張っていたエルサだったが、下の子アントが砂嵐の影響で肺炎になって入院、医者からは完治のためには空気のきれいな土地で療養する必要があると言われたことで、もうこの地に住み続けることはできないと思い知った。トニーとローズはエルサの決意を支持したが、自分たちは農場にとどまると告げた。そして、連邦政府から支給されたわずかな救済金のほとんどをエルサに渡し、ガソリン代がもったいなくて使っていなかった車でカリフォルニアに行くようにと、エルサと子供たちを温かく送り出した。
カリフォルニアへの道すがら、エルサと子供たちは、多くの人たちが荷車を引いて西を目指して歩いている姿を車の中から見た……。
ついにカリフォルニア州に入ったエルサたちは、目の前に広がる緑の美しい景色を見て心を膨らませたが、すぐに厳しい現実に直面したのだった。エルサたちと同じように、干ばつや恐慌で故郷を追われた人々が、夢を求めて、着の身着のままでカリフォルニアに殺到していた。カリフォルニアの綿農場主や果樹農園主は、そうした移住者を安い労働力としてこき使っていた。同じアメリカ人でありながら、移住者はOkies[4]と呼ばれて差別され、蔑まれた。レストランや店舗など接客業では原則としてOkiesは雇われなかった。彼らは、生活ができないほどの低賃金で、農場や農園で日雇いや季節労働者として働かざるをえなかった。家賃も払うことができず、小川が流れる道路脇の空き地にテントを張ったりして集団で生活していた。移住者たちの《キャンプ》を初めて見た時、エルサも子供たちもこんなところには住めないと思った。しかし結局、《キャンプ》の片隅にテントを張って生活を始め、日雇いや季節労働の仕事を探しながら、連邦政府の食糧援助やカリフォルニア州のわずかな援助金を頼りに生きていくしかなかった。
母と娘
エルサにとって、2人の子供は宝だった。下の子のアントは母親べったりだったが、長女のロレダは物心つくと、父親レイフの現実生活に対する不満を敏感に感じ取り、外の世界での冒険を夢見る父親に理解を示すようになっていた。なりふり構わずあくせく働く母と比べ、情熱的に夢を語る若くハンサムな父をロレダは敬愛した。小麦農業が不況に陥ってからは、父とロレダは、いつもカリフォルニアの話で盛り上がっていた。そんな父が自分を捨てて一人で出て行ってしまった時、ロレダの落胆は、怒りとなって母のエルサに向けられた。炎のような情熱を持ち、チャレンジ精神の旺盛なロレダは、どんな苦しい時も涙を見せず、自分の感情を出さず、ひたすら耐えている母を見るたびに苛立ちを覚えた。
それだけに、やっと念願叶って喜び勇んでカリフォルニアにやって来たロレダの失望は計り知れなかった。学校では、Okiesの子供というだけで、いじめに遭い、仲間外れにされた。夏休みには母と一緒に綿摘みをして、農場が自分たち移住者を低賃金で搾取することで成り立っていることを思い知った。社会的不平等に目覚めたロレダは、搾取されている労働者を一致団結させて労働条件の改善を勝ち取ろうとする労働運動に心を動かされるようになっていった。
地域社会に影響力を持つ農場主たちは、労働運動を阻止しようと、警察も巻き込んであらゆる手段を講じていた。労働者には、もし労働運動に参加すれば即刻クビにする、代わりの移住者はいくらでもいると脅した。エルサは、ロレダに運動に関わることを禁じ、母と娘の確執は深まった。しかしエルサは、ロレダを通じて労働運動の指導者ジャックと知り合い、彼が心から社会正義と平等を信じ、搾取されている貧しい移住者たちを助けようとしていることを知って、次第に運動に興味を持ち始めた。ついに、ジャックたちは10月6日にすべての綿農場で一斉ストライキを行うことを決めた。
エルサはこの時、祖父の「勇気を持て」という言葉を思い出し、自分を奮い立たせて、今まで心の奥底にしまい込んでいた強い思いを行動に移したのだった。かつて姑ローズは、エルサは《ライオンの心》を持っていると、その芯の強さを称賛したことがあった。そして《ライオンの心》を行動に移した母を目のあたりにして、ロレダの母に対する思いは一変、尊敬と誇りでいっぱいになったのだった。
はたして、ストライキはどんな結末を迎えたか? そしてこの後、エルサとロレダ、アントはどうなったか? テキサスの農場に残ったトニーとローズは?
この小説は、父も母も果たせなかった大学進学を、娘のロレダが実現しようとしているところで終わっている。マーティネリ家から初めて大学に進学する。しかも女性が!
著者について
クリスティン・ハナは1960年カリフォルニア州生まれの小説家。ワシントン大学でコミュニケーションを学び、卒業後はシアトルの広告代理店で働き、その後、ロースクールに進学して弁護士になった[5]。1991年から小説家。2015年に上梓したThe Nightingaleは43カ国語に翻訳されて世界的なベストセラーとなり、様々な文学賞を受賞している[6]。
[3]Speakeasy:禁酒法時代のもぐり酒場のこと。
[4]Okies:本来はオクラホマ州から移住してきた貧しい人々を意味していたが、特にカリフォルニア州では、オクラホマだけでなく周辺の州から移住してきた貧しい人々の総称となった。
[5]Kristin Hannah – Wikipedia
[6]The Nightingale, in 2015 was voted a best book of the year by Amazon, Buzzfeed, iTunes, Library Journal, Paste, The Wall Street Journal and The Week. Additionally, the novel won the coveted Goodreads and People’s Choice Awards. The audiobook of The Nightingale won the Audiobook of the Year Award in the fiction category. About Kristin – Bio – Kristin Hannah
佐藤則男のプロフィール
早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!
初出:P+D MAGAZINE(2021/03/12)
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