【NYのベストセラーランキングを先取り!】『モスクワの伯爵』のエイモア・トウルズが描く、若者たちの10日間の物語 ブックレビューfromNY<第75回>
更生施設から出所した若者と脱走した若者
The Lincoln Highwayは、著者エイモア・トウルズにとっては3作目の小説となる。ロングセラーとなった2作目の小説A Gentleman ㏌ Moscow(2016年)は2017年にこのコラムでも取り上げたので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれない。前作は、ロシア革命の後、モスクワのホテルの屋根裏部屋に30年間拘禁された元伯爵が主人公の小説だったが、この新作は、アメリカ・ネブラスカ州の倒産した農家の18歳の息子が主人公で、彼と彼を取り巻く人たちの10日間の物語ということで、前作とは全く異なった舞台設定や主人公のプロフィールが話題になっている。
1954年6月12日(土)、1年間の未成年更生施設での生活を終えて出所した18歳のエメット・ワトソンが、施設長が運転する車でカンサス州サリーナからネブラスカ州モーゲンの自宅に送り届けられたところから小説は始まる。自宅では隣人のランサム氏と銀行家が彼を迎えた。父親はエメットが施設に入っている間に病死、母親は8年前に家を出ていた。唯一の家族である8歳の弟ビリーはランサム氏が預かり、娘のサリーが面倒を見てきた。ランサム氏はエメットに、サリーが後でビリーを連れてくると言い、まずは銀行家を彼に紹介した。銀行家は、エメットの父親が銀行に多大な借金を残して亡くなり、もはや農場や家など財産すべてを差し押さえざるを得ない事情をエメットに説明した。ランサム氏は、家の所有権を失っても、しばらくはエメットとビリーが住むことができるように銀行家と交渉しようとしたが、エメットは素直に銀行家の書類にサインし、月曜日には弟と二人で家を出ると言った。銀行家が帰った後、サリーが連れてきたビリーと再会したエメットは、月曜日にはこの家を出て二人でどこか遠くへ行き、新しい人生を切り開くことを弟に納得させようとした。ビリーはその話を聞くと、意外にも目を輝かせて、それならサンフランシスコに行こうと言った。
1933年、エメットの父は希望にあふれ、ボストンから新婚の妻を連れてネブラスカ州に来て農場経営を始めた。しかし、日照りが続く年に水が必要な作物を植え、雨の多い年に日光の必要な作物を植えるというような間違った判断を繰り返し、ついには妻に見切りをつけられ、借金を残して病死した。そんな父を見て育ったエメットは、天候に左右される農業はギャンブルだと思った。彼は15歳の時すでに農場を継ぐことをあきらめ、その年の夏休みに大工の見習いになって技術を身に付けた。稼いだ金で、ブルーの1948年型スチュードベイカー[2]・ランドクルーザーを買った。エメット名義のこの車には、銀行も手を出せなかった。エメットはこの車で、ビリーとともに新天地を目指すつもりだった。彼の計画は、大工の腕を活かして働きながら、個人でも中古の家を買って修理し、高く売ろうというものだった。目的地としては、産業が盛んで人口増加が見込め、不動産市場が活発なテキサス州を考えていた。しかし、サンフランシスコ行きを主張するビリーは、エメットに8枚の古い絵葉書を見せた。父の遺品の中から出てきたという絵葉書は、母からのものだった、母が家を出た次の日から、ほぼ毎日送られてきていたことが消印の日付でわかった。母の住所は書かれていなかったが、消印からは、母がリンカーン・ハイウェイ[3]経由でサンフランシスコに行ったことが推察できた。ビリーは母がたどった大陸横断ハイウェイに乗ってサンフランシスコまで行こうと主張した。エメットは、自分たちを捨てた母に会う気はなかったし、母が今もサンフランシスコにいる可能性はほとんどないと思ったが、カルフォルニア州の人口増加率がテキサス州を上回っていることを知ると、弟の意見を取り入れることにした。
ランサム氏と娘のサリーが帰った後、エメットは納屋で、更生施設で同室だったダッチェス(本名:ダニエル)とウォリーを見つけて仰天した。二人は施設長の車のトランクに忍び込み、ここまで来たと告白した。ウォリーが無邪気にビリーと遊んでいる間に、ダッチェスは施設を逃げ出した理由をエメットに説明した。由緒正しい家柄のウォリーは、曽祖父から残された遺産があるが、成人するまで後見人である姉の夫によって管理されている。もうすぐ18歳になるが、義理の兄は、ウォリーに知的障害があるという理由で、成人後もウォリーの遺産を管理すると主張している。今はほとんど使われていないニューヨーク州北部アディロンダックスにある別荘は、もともと母方の曽祖父の家で、彼にかわいがられていたウォリーは壁の中の金庫に15万ドルが隠されていたことを知っていた。遺産が自由にできないなら、その15万ドルを盗み出そうという計画だった。ダッチェスはエメットに、車でニューヨーク州の別荘まで自分たちを送ってくれれば、ウォリーは15万ドルをダッチェスとエメットと3人で等分に分けることに同意していると言った。エメットは、自分とビリーはカリフォルニアを目指しているので、反対方向のニューヨークには行けないと言ったが、月曜日、リンカーン・ハイウェイへの道の途中にあるニューヨーク行き長距離バス乗り場までダッチェスとウォリーを送っていくことを約束した。それまでダッチェスとウォリーはエメットの家に滞在することになった。
ニューヨークへ
月曜日の朝早く、エメットはビリー、ダッチェス、ウォリーをスチュードベイカーに乗せて出発した。売れない舞台俳優でボードビリアンの父を持つダッチェスは、幼い時に2年間、養護施設に預けられていた。その施設がリンカーン・ハイウェイへの道の途中にあるから、ちょっと寄ってみたいとダッチェスは言った。時間は十分あったため、エメットは了承した。ダッチェスは一人で施設に入っていったが、なかなか戻ってこない。エメットが施設に探しにいくと、責任者であるシスター・アグネスと話し込む羽目になった。そして、しばらくして外に出ると彼の車はなくなっていて、ビリーが一人、芝生の上で本を読んでいた。ビリーはエメットに、ダッチェスは用事が済んだら必ず車を返すと言って、ウォリーとともに行ってしまったと告げた。バックパックだけが残され、エメットの荷物も、トランクに隠しておいた300ドルの現金も、車とともに消えた。
エメットは車を取り戻すために、ダッチェスとウォリーを追って鉄道でニューヨークに行くことにした。最初は、ビリーを再びサリーに預けて一人で行くつもりだったが、ビリーが一緒に行くと言ってきかなかったので、一緒に連れていくことにした。しかし、ほとんど現金もなく、切符を買うことができないので、貨物列車にもぐりこんでニューヨークを目指した。
人生はバランスシート
エメットにとって、人生はバランスシートだった。父の借金だけでなく、自分が、過失とはいえ人を殺してしまったという《借り》はすべて返して、ゼロの状態で再出発したかった。だから銀行の差し押さえにも素直に同意した。高校でジミーの執拗な挑発に乗ってしまい、鼻にパンチを一発くらわすつもりが、結果的にジミーを死なせることになり、ジミーの家族から訴えられた時も、エメットは一切弁解せず、更生施設送りとなった。出所しても、人を殺したことが「チャラ」になったとは思えなかった。出所した翌日、町で仲間を連れたジミーの弟ジェイクに呼び止められて絡まれたが、エメットは抵抗もせずパンチを受け続けた。
「もしまだ終わっていないと思うなら、終わらせよう」と言って殴られ続けるエメットを、ダッチェスはたまたま遠くから見ていた。まともな教育を受けていなかったダッチェスは、更生施設で初めて会計学を学び、バランスシートについて知った時、人生はバランスシートのようなものだと思った。そして、エメットが自然体で人生のバランスシートを立て直そうとしている姿に感銘を受けた。ダッチェスは、15万ドルを盗みにいく途中で、いくつか寄り道をして自分の人生の《貸し》と《借り》の清算をするつもりだった。
10日間のカウントダウン
この小説は、エメットが更生施設から出所して自宅に戻った日から10日間の出来事がカウントダウン形式で描かれている。各章のタイトルは登場人物名で、その時々の、それぞれの考え、見方、状況が描かれている。興味深いのは、ダッチェスとサリーの章は一人称で本人が語るスタイル、その他のエメット、ビリーを含め6人の登場人物の章は三人称で書かれていることだ。なぜダッチェスとサリーの章だけ違うスタイルなのかについて、著者は、二人とも非常に強い性格で、自由に意見を言うタイプなので一人称のほうがしっくりきたと述べている[4]。
⚫︎ エメットとビリーはニューヨークに着いて、車を取り戻すことができたのか?
⚫︎ ダッチェスは人生の《貸し》と《借り》を清算することができたか?
⚫︎ ダッチェスとウォリーは15万ドルを手に入れたのか?
⚫︎ 10日間の出来事は、何に向かってのカウントダウンだったのか?
⚫︎ エメットとビリーは、リンカーン・ハイウェイでサンフランシスコを目指すことができたのか?
予想外の、そして、ハッピーエンドとは言えない結末が、読後も後を引く作品だった。
[2]Studebakerはアメリカの車両メーカー(1852-1967)。もともと馬車メーカーで、のちに自動車も製造した。
[3]Lincoln Highway:1913年開通の最初の大陸横断ハイウェイ。ニューヨーク市タイムズスクエアからカリフォルニア州サンフランシスコ市リンカーンパークまで。
[4]The Lincoln Highway: Q and A – Amor Towles
佐藤則男のプロフィール
早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!
初出:P+D MAGAZINE(2022/02/15)
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