ニホンゴ「再定義」 第3回「ガンダム」

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 ここで非常に興味深いのが、ガンダムにシビれた層のけっこうな割合が、ガンダムを卒業しないまま大人になったらしい点だ。ドイツなどと異なり日本で「アニメ・マンガ趣味は成人になるまでに卒業すべきもの」という通念がなぜか徹底的に崩れてしまった、その大きな原動力のひとつがまさにガンダムであるように思われる。

 その「卒業拒否」は何をもたらすか? 端的にいえばコンテンツの高度化だ。「ビジュアルや設定の緻密さを鍛えぬけば、基本同じ内容でも、どんな知的権威だって納得せざるを得ないモノになる!」という、オトナ対応ガンダム作品の発生である。昭和中期的な大人の無理解に抗しながらガンダム愛に燃えていたお子様たちが内心抱いていた、それは切実な夢であり文化的野望なのだ。また、そういった怒りや怨念が無い場合でも「今、オレたちが観たい」ガンダム像を追究するパワーは強かった。

『機動戦士ガンダム0080』『0083』といったOVA作品や外伝的コミック作品のリリースと評価を経てこの流れは、安彦良和による初代コンテンツ完全リメイクといえる『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』にて完成の域に達する。本作は政治・社会・文化ドラマとして秀逸な作品だが、多くのファンにとって「脳内補完なしで味わえる、理想の初代ガンダム世界がまさにここに!」という感銘抜きで語れない存在だろう。さらに、本家世界観のパラレル作品として成立した『機動戦士ガンダム サンダーボルト』は、もともと「ザクを極限チューンナップして(いやこのチューンナップの中身が超ヤバいのだけど)ついにガンダムに勝つ!」的な話だったのが、いつのまにか「カルト宗教と戦争力学の相克」という凄い領域で哲学的にハードコアドラマ展開しながら成功していたりする。いまや絵柄的にも何もかもみな懐かしいTVシリーズの第1話で、アムロが「こいつ…動くぞ!」とガンダムを起動させたとき、誰がここまでの展開を予期しただろうか?

 ということで「ガンダム」には、クリエイターとファンの相互作用によって、そもそも子供向けだったものが、成長し成熟し、ついに大人向けコンテンツに至ったという特性があり、これは文化的にかなり特異で興味深い事象といえる。社会的影響力の大きさなどを踏まえると「コンテンツ」というより「ジャンル」と呼称するほうが適切かもしれないが、いずれにせよ他に例を見ない話だ。

 まさにこの点こそガンダムの文化的価値として、どんな欧米インテリに対しても語るに値するといえよう。真の文化的底上げとは何なのか? 理不尽な権威性に対するルサンチマン昇華としての価値は? そしてそれを踏まえてガンダムの「子供向け玩具」由来のデザイン的意匠性は、シンボルとしていかなる意味を持つのか? などなど、興味は尽きない。

 だがしかし…と敢えて言おう。

 知的に高度化したガンダム系コンテンツが「昭和オタクの夢の具現化」であれば、それに付き合わされる形になった後続世代のオタクたち自身の「夢の具現化」は、果たしてどのように成されるのか? そのあたりの精神的なダイナミズムの問題がなおざりにされている感が無くもない。エヴァンゲリオンも同様だが、よくもわるくもオタクコンテンツ周辺のアレコレは1990年代的な人間が仕切りまくっており、その世代の業界的意見がすべてを圧している感があるので、その陰で何かが永きにわたって抑圧されたままではないか、という昏い予感もある。

 その「抑圧された何か」は、どんな形で言語化されるのだろう。それもおそらく「日本語」パワーワード化する宿命なのだ。

(第4回は5月31日公開予定です)


マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。

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