武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」5. イッカクベーカリー
〜大学生の雄士とごはんの話〜
5. イッカクベーカリー
「あ、もしもし雄士くん? 遅くにごめんなさいね。悪いんだけど明日の朝、こっちに来る前にイッカクベーカリーさんに寄ってトースト用とサンドイッチ用の食パンを受け取ってきてもらえないかな」
喫茶ネムノキの店主葉子さんから電話がかかってきたのは、バイト前日の夜八時。雄士は、ちょうど茹であがったばかりのパスタをめんつゆ、マヨネーズ、オリーブオイルと胡椒で和えようとしているところだった。
「いいですよ」
返事をしながら、菜箸でボウルの中のパスタを混ぜる。具がなくても全然いける! と同級生の中島が豪語していたレシピだ。
「良かった。どうもありがとう」
スマートフォンの向こうで、葉子さんがほっとしたように言った。
イッカクベーカリーというのは、一角通り商店街の中で一番小さな店であるキムチ店の隣の細い路地を入って少し進んだところにある店だ。商店街の誰もが「パンを買うならイッカクベーカリー」と口を揃えて言うけれど、この町に引っ越してきた今年の春以来、雄士はまだ一度もイッカクベーカリーがオープンしているところを見たことがなかった。それもそのはず、朝七時のオープンとともに、イッカクベーカリーには続々と客がやって来て棚に並べられたばかりの焼きたてパンを購入する。その日の朝に焼いた分しか販売しないので、パンはあっという間にすべて売り切れ、正午までには閉店してしまうという幻のような人気店なのだ。店のドアには、ここがベーカリーだと知らなければ絶対に見落としてしまうくらい小さな看板がひとつかけられていて、その古びた鉄製の看板をドアの上にみつけることができれば営業中。看板がかかっていなければ、その日のパンにはもうありつけない。
「イッカク兄の方が、転んで足首を捻挫しちゃったらしいのよ。だから明日の配達ができないって今、連絡があったの」
葉子さんはそう言うと、ふうとため息をついた。
「寄る年波にはなんとやらかしらね」
咄嗟になんと答えたら良いかがわからず、雄士は「はぁ」となんとも間の抜けた返事をした。
「でもパンはイッカク弟がいつも通り焼いてくれるそうだから」
「あの、イッカクベーカリーさんてご兄弟でやってるお店なんですか」
「あら、知らなかった? イッカクベーカリーさんは双子なのよ」
正直なところ、雄士はパンが好きでも嫌いでもない。美味しいことは美味しいけれど、米や麺よりは腹にたまらないものだと思っているので自分で買うことはあまりない。でも、喫茶ネムノキのバイトの日に賄いで食べるサンドイッチはいつも美味しいし、何より一度営業中のイッカクベーカリーを見てみたかった。
「イッカクさんに寄る時間の分、こっちには遅れてきてくれていいから。それとパンの代金は月ごとにまとめて支払っているから食パンをもらうだけで大丈夫だからね」
受け取る予定の食パンの数を手近にあった紙にメモする。
「じゃあよろしくね! また明日!」
葉子さんの明るい声に、はいと返事をする間もなく切れたスマートフォンを流し台に置き、まだ湯気が上がるボウルの中身を勢いよく大皿にあけた。具無しのパスタを180gというのは一人前にしては多すぎただろうか。
翌朝は六時半に起きた。昨晩作った中島直伝の和風パスタは確かに美味しかった(180gは余裕でぺろりとなくなった)けれど、あそこにひとつかふたつ何かを足したらもっと味が引き締まるのではないかと思う。でも肝心の足すべきそれがなんなのかがわからない。
「大葉、梅干し?」
最近、食べ物について考えることが増えた。一人暮らしを始めたばかりの頃は「なんでもいいから安くたくさん食べたい」だったけれど、最近は「好みの味付け」や「使ってみたい食材」なども頭に浮かぶようになった。
「塩昆布とか?」
呟きながら、雄士は人通りのない商店街を歩いていった。小学生の頃、夏休みが始まったばかりの朝に表で鳴く蟬の声で一度目が覚めてしまうと、夏休みであることが嬉しくてとてもではないけれどもう寝ていられなかった。そっと起き上がって部屋を出る。朝のしんとした台所は、見慣れた場所のはずなのに妙によそよそしく、裸足の足の裏に床がぺたりと冷たく感じた。静かに冷蔵庫のドアを開ける。コップに牛乳を注ぎ、それを飲みながら居間のテレビをつけて音量を下げ、わくわくしながら一人でアニメ番組を見ていた夏のことをふいに思い出した。母も祖母も妹の胡桃もまだ起きてこない自分だけの朝。なんのことはない、けれどとても特別な時間だった。キムチ店の角をまがり、植木鉢や、発泡スチロールの長細い箱に土を詰めただけの簡易プランターが点々と並ぶ細い路地をしばらく進むと、小さなアイアン看板がドアの上に出ている家があった。看板に刻まれたイッカクベーカリーの文字を確認すると、イッカクとベーカリーの間に、細い縦長の二等辺三角形のような柄が彫られていた。ショーウィンドウもなく一見したところただの民家なので、ここがベーカリーと気付かずに通り過ぎてしまう人も多いに違いない。
「おはようございます」
ドアを開けると同時に聞き慣れたろろろんという涼やかな音が響いた。この商店街の店は、ドアのある造りならばどこも皆同じベルをとりつけているのかもしれない。人が五人も入ればいっぱいになってしまうような小さな店内には壁に沿ってぐるりとL字型の木製カウンターがあり、そこにきっちり等間隔に数種類のパンが並べられていた。嗅ぐだけでお腹が鳴りそうな良い香りが漂っている。
「いらっしゃいませ」
真っ白なコックコートを着た男性が奥の厨房からひょいと顔を出した。手には、パンを載せた大きな銀のトレイを持っている。
「喫茶ネムノキの食パンを受け取りにきました」
雄士がそう言うと、男性は、
「ああ、あなたがネムノキの新しいバイトさんですか」
と笑みを浮かべた。白髪交じりの短いあご鬚が渋い。この人がイッカクベーカリー兄弟の弟さんだろうかと考えながら、雄士は、はいと返事をした。
「今朝は配達できなくて申し訳ない。兄が昨日の夜、怪我をしてしまったものですからばたばたしていて。ちょっとお待ちください」
持っていたトレイをさっとカウンターの端に置き、男性は厨房に戻った。やはりこの人が弟さんだ。カウンター上に並んだパンを見てみるとどれもとても美味しそうだ。あんパンやメロンパンなど子供からお年寄りまで誰でも喜びそうなものもあれば、ゴルゴンゾーラのリュスティック、実山椒のバゲットといった雄士があまり見かけたことのないようなものまで様々だ。これを一人で全部焼くなんて一体何時に起きて作業をするのだろう。
「お待たせしました。これがトースト用の五枚切りで、こっちはサンドイッチ用の六枚切りです」
弟さんが運んできたトレイには、食パンが入った紙袋が四つ載っている。
「ちょっと多いけど、大丈夫かな?」
大荷物になっても平気なようにと財布とペットボトル、バイト用の小さなノートだけを入れたリュックサックを背負ってきたので、両手は空いている。
「大きい手提げ袋に入れましょう。ちょっと待ってください」
弟さんはそう言うと、ばたんばたんと後ろの棚の戸をいくつか開けた。
「あったあった。これを使ってください」
表の看板と同じ書体でイッカクベーカリーと印刷された手提げ用紙袋を取りだし、がさがさとひろげる。
「あの、この真ん中の三角のマークってなんですか?」
紙袋にも看板と同じ細い三角形が印刷されていた。
「イッカクという生き物をご存じですか?」
「えーと、角がある魚でしたっけ?」
あご鬚を撫でながら、うんうんと弟さんが頷いた。
「正確には魚ではなくて哺乳類なんだけどね」
「あ、じゃあこの三角、もしかして角ってことですか」
「当たり」
弟さんは、手を伸ばしてメロンパンをひとつ取り、これサービスです、と続けた。
「僕はね、もともとパン屋ではなくて大学でイッカクの研究をしていたんです。店は兄が昔からやっていて、最初は商店街に倣って漢字で一角屋って書いていたんだけどね」
イッカクというのがどんな生き物だったか想像しようとすると、どうしても先にユニコーンが頭に浮かんでしまう。
「ちょっと家の事情があって僕がここに戻ってくることになった時、心機一転だ! って二人で今の名前に変えたんですよ」
なかなか洒落てるでしょう、と言いながら弟さんはレジの奥の壁に貼ってある小さな写真を指差した。
「あれ、兄と僕です」
目をこらして写真を見ると、なるほどよく似た二人がお揃いのコックコートを着て腕組みをして店の前の路地に立っている。雄士は思わず、
「そっくりですね」
と思った通りの感想を述べた。
「一卵性の双子だからね」
いくら一卵性の双子といっても大人になってからもこんなに似ているものだろうか。ひげをはやした顔はもちろんのこと、身長も髪型も体型も瓜二つだ。もしかしたら体重までまったく同じなのかもしれない。
「ところでイッカクの角って何でできているんですか」
イッカクについてもう少し知りたくなった。
「いい質問だなあ。あれは実は牙なんですよ」
「牙?」
「そう。もっと言うと、あの牙は左巻きにぐるぐる捻じれて伸びているんです」
にこにこ嬉しそうに話す弟さんにもっと話を聞いてみたかったけれど、ちょうどドアベルが鳴って男性客が三人、店内へ入ってきた。何度か鶴亀湯【つるかめゆ】で見かけたことがあるおじいさんたちだ。
その中の一人がよお、と親しげに弟さんに話しかける。
「今日は一人なの?」
「はい。兄がちょっと怪我をしてしまいまして、今日は僕一人なんです。ご不便をおかけします」
弟さんの言葉に、客たちは、
「ありゃ、それはいけないね」
「腰やっちゃったかい?」
などと口々に言いながらも手には素早くトレイとトングを持ち、カウンター上のパンをじっくり見ている。
「だから今日はいつもよりパンの種類も少なめです」
弟さんがそう言うと、ついいましがた心配そうに眉を寄せていた客たちが手のひらをかえすように一斉に「そりゃあダメだろ!」「豆パンはあるんだろうな!」と口々に言うので、雄士は思わず吹き出してしまった。なんて正直な人たちなんだ。
「じゃあ、お兄さんにお大事にとお伝えください」
「ありがとう。またお待ちしております」
トレイにいくつもパンを載せてレジ前で楽しそうになにごとか話し続ける客たちの向こうで、弟さんが軽く手を振ってくれたので、雄士もつい片手をあげてしまった。馴れ馴れしすぎたかな。照れくさくなって、そそくさと店を出る。
それにしてもこの商店街の店ときたら、おにぎり徳ちゃんといいイッカクベーカリーといい、ひっそりとわかりにくい入口が多すぎる。
「商売っ気がない人たちなのかな」
振り向いてあらためて眺めても、やっぱりただの家にしか見えない。そういえばここには表札がないけれど、イッカク兄弟はこの家に住んでいるわけではないのだろうか。
「不思議なお店だなあ」
両手に持った紙袋から食パンの良い香りがたちのぼって、鼻をくすぐった。ほんの数分前までは夏の明け方特有の涼しくてどこか甘い空気があちこちに残っていたけれど、今はもう昼間と変わらないくらい日差しが強くなっている。こういう日は、人気メニューのナポリタンや海老グラタンよりも冷たいポテトサラダやタマゴサラダのサンドイッチの注文が俄然多くなる。早く喫茶ネムノキに食パンを持っていかなくては。雄士は、深呼吸をして歩き出した。
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