こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「犬」

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 そいつが公園で漏らしたってうわさは、それから数日も経たないうちに学年中に出回った。プライドの高い奴だったから、こういう形で自分の弱みを知られるだなんて、悪夢以外の何物でもなかっただろう。気がつけば、そいつは学校に来なくなっていた。自業自得だ、と言ってしまえばその通りで、同情の余地もないと思う。あいつが豚だのデブだの、ひどいあだ名をつけて「弄って」いたクラスメイトの一人は、ずっと前から学校に通えなくなって、今も保健室登校を続けている。あいつはその報いを受けたけど、じゃあ俺は? 黙ってそれを見ていた俺達は? 少なくとも、あいつが喜ばせようとした〝周り〟の中に、俺は確実に含まれている。本当はこうなる前に、もっとできることがあったんじゃないか? というか、俺がそれを言うべきだったんじゃないか。そういうの、やめろよって。全然そんなの、面白くないって。なんで、それを面倒くさがったりしたんだろう。

 俺は、犬が苦手だ。犬は怖い。でも、犬が怖い本当の理由は、あいつらを見ると、昔の自分を思い出してしまうからだ。ああいう場面で動けなかった、いや違う、動こうともしなかった、ずるくて卑怯ひきょうな自分が怖いんだ。

「なあ、健斗」

 健斗の耳の辺りが、ぴくりと動いた。しばらくして、健斗がゆっくりと顔を上げる。なんだか気恥ずかしくて、俺は健斗の方を見れなかった。

「ずっと、健斗に言いたいことがあったんだけど。なんつーか、その。……あん時俺に、投票してくれただろ」

 あれ、一応ありがとな。前を向いたままそう言うと、健斗は俺の横顔をじっと見つめて、

「別に、お前のためじゃねーよ」

 きっぱりと、そう言った。そしてすぐに、ぷい、と顔を背ける。

「単純に、モトの方が向いてるんじゃねーかなって。そう思っただけ」

 クラスの応援団長を決める時、健斗は密かに俺の名前を投票してくれていた。俺はいちばん前の席だったから、広げた投票用紙の文字を見て、すぐにわかった。あれは健斗が書いた字だって。開票中は、あいつ自分で自分の名前書いたんじゃねーの、なんて野次が飛んだりしたものの、それもすぐに教室の喧騒にかき消されてしまった。投票多数で応援団長は健斗に決定。女子の濱中はまなかもなかなかいい線いってたと思うけど、組織票が足りなかったみたいだ。もちろん、俺に票なんて入るはずがない。あの時は、わざわざ恥かかすなよってそう思った。でも今思えば、健斗はただ昔みたいに、俺と一緒に何かやりたかっただけなのかもしれない。

「……あいつらほんと、見る目ねーよ」

 そんなことないと思うけど、とつぶやく。

「健斗だって、十分――」

 その時だった。

「ケンケンって今、どこ行ってんだよ」

 どこからかクラスメイト達の声が聞こえて、ほら、と声の方向に顎をしゃくる。

「今の。健斗のこと、探してんじゃないの?」

 健斗はそれに、答えない。

「わかんない。トイレとかじゃねーの?」

「え〜? マジかよ。応援歌の順番とか把握してんの、あいつだけじゃん」

「誰か代わりやる?」

「いや無理無理。ちょっと待って、おれ探してくるわ」

「え、オレも行く」

「じゃあ俺も」

 どうぞどうぞどうぞ。テントの向こうで往年のギャグを披露する友人達の声に、健斗の表情がわずかに緩むのがわかった。健斗が微妙に孤立するようになってからも、最後まで健斗のそばを離れなかった奴らだ。授業中にうるさいとか、無駄に声がデカいとかで俺の友達からは評判が悪いけど、多分いい奴らなんだと思う。

「……知らねーよ」

 そう言いながらも、健斗が揺れているのがわかった。少し前までメガホンが投げ捨てられていたその場所を、じっと見つめている。ったく、しょーがねーな。俺は、よいしょ、と言いながら、健斗のすぐ横に腰を下ろした。胡坐あぐらをかいた後ろから、容赦なく西日が照りつける。あーあ、なんだよ。暑くない、とかやっぱり噓じゃんか。

「お前、何やってんだよ」

「別に」

 健斗がサボるなら、俺もサボろうかなって。そう言うと、健斗は呆れたみたいに、勝手にすれば、とつぶやいた。

「おーい。いたよ、いたいた」

 そうこうしているうちに、健斗のグループの奴らが俺らを見つけて、おいー、何やってんだよ、と小走りで近づいてきた。何でもねーよ、と健斗が大声でそれに返す。

「ちょっと休んでただけ」

「こんな大事な時に? さっさと戻れよ、もう」

 友達に腕を引かれて嫌々そうに、でもちょっと嬉しそうに、健斗が立ち上がる。やれやれ、手のかかる奴。すると、グループの一人が俺の姿に目を止めて、健斗と俺を交互に見比べた。そして、「何、お前達って仲良かったの?」と首を傾げる。その言葉に、俺達は思わず顔を見合わせ、ほとんど同時に、

「全っ然、仲良くねーよ」

 とつぶやいた。



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『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ


こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。

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