武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」5. イッカクベーカリー
「おはようございます」
五分ほどで喫茶ネムノキにつくと、すでに店の前には看板が出され、ドアの横に並んだ植木鉢への水やりも済んでいる。ということは、雄士が開店前にやるべきことは窓拭きとトイレ掃除。それが終わったら各テーブルのセッティングと、紙ナプキンでフォークとナイフ、スプーンなどをくるんで補充しておく作業だ。
「おはよう。イッカクさん行ってきてくれてありがとうね」
「どうだった? イッカク兄の具合」
雄士が厨房に入ると、葉子さんとマスターが同時に顔を上げ、同時に喋った。
「お兄さんは店頭にはいらっしゃらなかったので具合まではちょっとわからないですけど、弟さんお一人だから今日はパンの種類が少なめらしいです」
「やっぱりね」
「ね」
二人がまた同時に頷く。
「さっき、ちょうど田森書店のチコさんから後でタマゴサンドをテイクアウトしたいって電話があったの。食パン、ありがとね」
雄士は、葉子さんが作るタマゴサラダのサンドイッチが好きだ。味はもちろんだが、作る工程が鮮やかなのだ。まな板の上に二枚並べた食パンに、常温に戻して柔らかくなったバターを塗る。その上にたっぷりと載せていくタマゴサラダは、実はちょっと凝っていて、ゆで卵を作る時に殻を剝いてから一度わざわざ黄身と白身にわけるのだ。そして白身はみじん切り。黄身はボウルに入れてマヨネーズ、砂糖、塩、胡椒と一緒に丁寧にスプーンでつぶしてペースト状にする。
「ここで、柚子胡椒を少しだけいれるのがうちのタマゴサラダのポイント」
それから白身を加えて軽く混ぜ合わせる。そうしてできたタマゴサラダを食パンの真ん中にぼんぼんぼんと気前よくのせ、スプーンの背でパンの四隅に向かってのばしていくのだが、
「最初に真ん中を高くして、そこからなだらかな山みたいに全方向にはじっこまでしっかりのばすこと」
というのが葉子さん流らしい。どこから食べ始めても食べ終わるまでずっとしっかり具が入っているっていうのがいいでしょ、と言うので、なるほどと思い、雄士はエプロンのポケットからノートを取りだして「ずっとしっかり具」と書き込む。
「メモするのそこ?」
笑いながら、葉子さんは手早く二枚の食パンを重ねて形を整え、サンドイッチ用のワックスペーパーでくるむ。その上から包丁ですぱっとふたつに切れば、喫茶ネムノキのタマゴサラダサンドイッチの完成だ。
「はい、一丁上がり」
雄士は、受け取ったサンドイッチを、ラップにくるんでテイクアウト用の紙袋に入れた。
準備完了。そういえば中島の具無しパスタってもしかして柚子胡椒も合うんじゃないか? ひらめいたので、それもノートにメモしておいた。ろろろんとドアベルが鳴り、顔をあげる。
「いらっしゃいませ!」
今日一番乗りのお客様は誰だろう。
夕方、バイトが終わるとお腹がぺこぺこになっていた。賄いに大盛りのカレーライスを食べたのに。
「あ、そうだ」
朝、イッカクベーカリーでもらったメロンパンのことを思い出し、リュックサックから取りだして食べながらアパートに向かっていると、突然何かが後ろから雄士の膝にどんと飛びついた。
「こら、クルミ!」
胡桃? ぎょっとした雄士が振り返ると、息を切らせた桜が抜けてしまったらしいリードを片手に走ってくる。足下にはきりっとした顔で雄士を、正確には雄士が右手に持った食べかけのメロンパンをじっと見つめる坂本家の柴犬がいた。
「ごめんなさい。急にリードがはずれちゃって! ああ、でも飛びついたのが雄士くんでほんと良かった。子供とかおじいちゃんおばあちゃんに怪我なんてさせたら大変」
俺は怪我してもいいの? 苦笑しながら、雄士は恐る恐る桜に訊いた。
「あのさ、この子の名前ってもしかして……」
「あれ? 教えたことありませんでしたっけ? クルミです」
あはは、と笑って雄士はポケットからスマートフォンを取りだした。
「クルミちゃんの写真、撮ってもいい? 実家の妹に送りたいんだ」
きょとんとする桜の隣で、柴犬のクルミが利口そうにお座りをし、ふふんと鼻を高くあげてみせた。
(次回は3月31日に公開予定です)
1980年神奈川県生まれ。『諸般の事情』『驟雨とビール』などのZINEを発表後、2024年『酒場の君』(書肆侃侃房)で商業出版デビュー。
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