【連載第2回】リッダ! 1972 髙山文彦
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重信房子は、カンパの要請なんてどうでもよくなった。それを察したのか友人が、話題をチェ・ゲバラに変えた。奥平剛士は終始うつむき加減にしながら、ほとんどひとりでしゃべりつづける友人にときどき目を向けたり、笑みを投げたりした。
口数が少ないうえに目つきも鋭いので、怖い人かと思っていたが、じっと目を見ていると奥のほうにやさしい光がたまっているのがわかる。彼女が知っている活動家たちは、「大きなことを言ったり、外見はまじめそうに見えて実際はズボラだったり、仲間と革命を論じることをたんに楽しむだけといった人たち」も多く、そうしたなかで、このような物静かな、それでいてなにか推し量りがたい熱い核のようなものを感じさせる青年ははじめてだった。
たばこを喫わない男であることも珍しかった。
寡黙ながら彼はよく笑った。大声をあげたのは、さっきの「ワッハッハ」くらい。あとは少し厚ぼったい唇の隙間から「クックック」と抑えぎみに声を漏らし、楽しそうに肩を揺するのだ。
「それが嫌味に感じられないのは、彼のまじめな性格もあるでしょう」
まだ獄中にあったころ、彼女は私へ宛てた手紙のなかでそのように伝えてきたが、いま私の目のまえにいる彼女は、なにかを思い出したように笑みをひろげて、
「不潔……、不潔に慣れること、と言うんです。これはレバノンに行ってからの話なんですが、ゲリラは不潔に耐えられなきゃいけない。きっとゲバラから学んでいたのだと思います。彼はゲバラの本を全部読んだと言っていましたので」
獄中からの手紙では奥平について、「純粋な自己犠牲の精神につらぬかれた人」であったと評し、このように綴っていた。
「彼は誠実な人柄だと話をしていてわかります。服装や態度からも。当時は京大の闘いもバリケードが解かれて、多くの人が就職するか、闘うか、考えていた時代です。彼は闘いに思いを持っている人だったし、当面の生きるすべを『土方』に費やしていました。私はリッダ闘争のあとに、彼がノートの最後に書き残していたという詩、『天よ、我に仕事を与えよ』を読んで、あっ! と衝撃をうけました。まさに出会った時の彼自身を、私はそのように見たからです」
それは、こんな詩だ。
奥平剛士
これが俺の名だ
まだ何もしていない
何もせずに 生きるために
多くの代価を支払った
思想的な健全さのために
別な健全さを浪費しつつあるのだ
時間との競争にきわどい差をつけつつ
生にしがみついている
天よ 我に仕事を与えよ
これまで歩いてきた道に別れを告げ、これからの前途に黄金の核心を求めて生き急ごうとするかのような、いかにも若者らしい切迫した真情が吐露されている。この詩は、残された日記のいちばん最後(一九六七年二月二四~二六日。奥平剛士遺稿編集委員会編『天よ、我に仕事を与えよ』所収。田畑書店)に配置されており、以後、日記は書かれなかったか、廃棄されたか、どちらにせよ彼の肉声を直接伝える文章は、彼の死後、彼女のもとに届いたあの遺書以外には見出すことができない。
たいていの人間は世界や世間と折り合いをつけながら生きていこうとするものなのに、彼は二一歳のこのときをもってそうした妥協的な生きかたを捨て、なにか一大事が起こりそれに対処することが天命と確信できたら、いつでも命をさしだそうという覚悟を述べている。
この詩のように彼は、これから短い生涯をまっとうしていくことになるのだが、京大闘争もまだはじまっていない教養課程三回生の終わりのこの時期に、心の準備も怠っていなかったのである。
ところで、重信房子はカンパのみを求めて来訪したのではなかったのではないか。私はそう思い、彼女にこの質問を投げてみると、
「いいえ、ほんとうにカンパのお願いだけでした。彼と会ったあと、パレスチナの専門家とめぐりあって、そしていちばん最初に彼に話をしたのです」
と、とても爽やかに否定された。
ただし、このとき、彼女はすでにパレスチナに関心を向けており、さまざまな資料にもあたっていたのは事実である。赤軍派内でも、パレスチナに国際根拠地をつくろうという提案を彼女のほうから出して、承認されていたのだ。大阪や京都でしていたのは、どうしたらパレスチナの虐げられた人びとのために役に立てるかという、その具体化に向けての情報収集がおもな目的だった。
彼女を奥平に会わせた人物は、そうしたプラン――まだ〝思い〟ばかりで、ぼんやりとしたものにすぎなかったとしても――について知っていたのではないだろうか。この人物がだれなのか彼女は教えてくれないので、私は推測するしかないのだが、彼にとって奥平へのカンパ要請はむしろどうでもよいことだった。国際根拠地論の実践にふさわしい人物かどうか見てほしいと考えて、ゲバラを話題に出すことによって彼の気質を知ってもらおうとしたのではあるまいか。彼はのちに奥平が死んだとき、
「自分が重信に会わせなければ、奥平はあんなことにならなかったのに……」
と、嘆いた人である。
どちらにしても、彼女は私にこのように言うのだった。
「はじめて奥平さんに会ったとき、彼のことが深く心に残ったのはたしかです。だから私は、パレスチナの話が具体的に見えてきたとき、真っ先に彼の顔を思い浮かべたんですから。たった一回しか会っていないのに、彼に話してみようと」
赤軍派の機密事項なのである。奥平は赤軍派でもなく、どこの党派にも所属していなかった。ただし党派や所属をこえた革命家の集まりである「京都パルチザン」というグループに参加していたが、彼女はこの時点で、そのことは知らなかった。
合法的な海外渡航計画であるとはいえ、もし断わられたらどうするのか。外に漏れてしまったらどうなるのか。それでも彼女には、彼ならきっとこたえてくれるだろうという、はなはだ直感的で向こう見ずな確信があったのだ。
1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。