【連載第2回】リッダ! 1972 髙山文彦

リッダ! 1972 第2回


 専門課程に進んでからの二度の留年は、学生運動に身を投じたのが原因である。順当なら教養部時代の留年期間をふくめても一九六九年には卒業できるはずだったが、京大で彼と全共闘(全学共闘会議)運動をともにした友人によれば、「卒業は、しようと思えばすぐにできたはずだ。単位はほとんどとっていた」そうで、「ただ、あの時は、卒業とか就職とかいうことはまったく考えていなかったんじゃないか。入試粉砕闘争も含めて、あの頃の一連の闘争は常に先頭に立ってやっていた」(同書)という。
 彼が全共闘の一員として紛争の現場に登場したのは、一九六九年一月二一日のことだった。学生部の建物を占拠する寮闘争委員会の学生六〇名を支援するために、他大学をふくむ全共闘支持派学生が正門まえに終結していた。彼らは寮闘争委員会と合流して全国学園闘争勝利全関西総決起集会を本部構内でひらこうとしていたが、これを阻止するために大学当局と一般学生、そして五者連絡会議(学生自治会の同学会、大学院生協議会、職員組合、生協、生協労働組合で構成)が正門にバリケードを築いて押しとどめようとしていた。
 大学側は突入をはかる全共闘に放水するなどしてついに突入を防いだのだが、じつはこのとき彼は全共闘側に向かって放水をあびせていたのだ。
 大学の自治連合組織である「五者」の実権を握っているのは、日本共産党とその青年組織・日本民主青年同盟(民青)であった。彼はこのとき民青に所属する学生のひとりとして防衛にあたっていたのだ。ところがどういうわけか前出の友人によれば、彼は突如ホースの向きをかえ、味方に向かって放水をはじめ、相手がおどろいて身を引いたところでバリケードをよじのぼり、正門の外に跳びおりたのである。このときから彼は全共闘の一員となり、工学部共闘会議の中心メンバーになっていった。
 このままでは機動隊が導入され東大安田講堂事件の二の舞になりかねないと恐れた「五者」と一般学生たちは、ついに実力による封鎖解除を求めて学生部に突入し、一〇時間にわたる攻防を経て寮闘争委員会の学生たちを追い出したのだが、二月一四日午前二時半には、逆に全共闘五〇〇名が、教養部代議員大会にそなえて時計台内の法経第一教室につめていた「五者」八〇〇名にたいして火炎ビンと投石、ゲバ棒で攻撃をかけ、冷たい小雨のなか午前七時までつづいたこの衝突で二五〇名の負傷者を出した。そのなかに彼もいたのである。
 このときの攻防に巻き込まれた経験を、歌人のなが和宏かずひろが『あの胸が岬のように遠かった』(新潮社)のなかで詳しく書き残している。永田は理学部の学生で年齢は奥平より二歳下であったが、「私自身は、大学のあり方を問い、『大学解体』や『自己否定』といったキーワードのもとでラディカルな行動を取る全共闘に、心情的には共感を覚えつつも、彼らの視野と要求の範囲が大学そのものに留まり、一般社会との連携の意識の乏しいのを不満に感じていた。これでは大きな政治権力を動かす力とはならないだろうと思っていた」のだそうで、「結局、どちらの運動、派閥にも加わらない、いわゆるノンポリ学生と言われる類の学生であった」としるしている。
 永田和宏がどうして攻防に巻き込まれたのかというと、法経第一教室に籠城している「五者」の同級生山田の陣中見舞いに別の同級生とつれだって行ったからである。午前一時過ぎのことだ。

 私と丹羽が山田を見つけ、しばらくのんびりしゃべっていた時だった。やって来たぞという声が聞こえ、いっせいに電気が消された。明るいと攻撃目標になるからだろう。しまったと思ったがもう遅い。逃げ出す術がない。取り敢えず、ヘルメットと角材(ゲバ棒)が渡された。こうなったら仕方がない。なんとか一緒に戦う以外に道はない。
 しかし、机や椅子が完全に取り払われ、傾斜のついた床だけとなった大教室に隠れるところはどこにもない。しかも、扇状の大教室の後ろは、すべて窓。ガラスはすべて割れていたと思うが、そこからどんどん火炎瓶が飛んでくる。真っ暗な室内に飛んでくる火炎瓶は、床に落ちて燃えながら転がって来る。こんなとき、火炎瓶は怖くないのである。見えるのがありがたい。けられる。 
 ところが怖いのは石であった。拳大以上の大きさの石がどんどん投げこまれてくる。闇の中を飛んでくる石は、当たるまでわからない。これは怖かった。できるだけ窓から遠ざかって、ひたすら火炎瓶を避け、石が直撃しないよう祈るばかりで、とても戦うなんてものではなかった。
 誰かが、ここは広すぎて守り切れないから、今から法経四番教室へ移動する、と号令を発した。退却である。続けっ、ということで、みんないっせいに飛び出し、取り囲んでいた全共闘のゲバ棒とわたりあいながら、とにかく法経四番教室へ駆けこんだ。入り口の扉の内側に、たぶん机の天板だったのだろうが、長い大きな板片を幾重にも重ねて立てかけ、釘などないから、内側から十数人が集まって押さえていた。にわかバリケードである。
 火炎瓶もどんどん投げ込まれるし、私の背中にも石が当たった。顔に当たらなかったのが幸いだった。窓から入ってこようとする奴めがけて、火炎瓶が投げ返され、火だるまになって向こうへころがり落ちた奴もいた。しかし、取り囲んでいる人数がどんどん多くなっているのが、こちらにいてもわかる。こちらには何しろ飛び道具がなく圧倒的に不利。
 どのくらい持ちこたえたのだろう。このままではやられる。みんないっせいに飛び出そうということになった。ドアを開いて、とにかく突っ走れというのである。外では角棒を持った連中が取り囲み、集中攻撃にあうのは目に見えているが、籠って死を待つよりは、といった心境だった。不思議に恐怖は感じなかった。負けるのがわかっていても、総攻撃だと命令されて、死地へ駆け出す兵士の気持ち、その幾分かはわかったような気がしたと言っては傲慢だろうか。

 こうした臨場感のある記録にはめったに出会うことがない。脱出を図って飛び出した永田和弘は、ほかのメンバーとともに両側から角材で滅多打ちにされながら、一目散に走って逃げおおせることができた。この文章につづけて、「この時はまだ角棒であり、鉄パイプでなかったのが幸いした」と述べているのを見ると、一九六九年冬の京都はまだいくらかは殺伐としていなかったようだ。
 引用部に出てくる「大学解体」と「自己否定」は、全共闘運動の核心をなすテーマであった。彼らの時代には、中央教育審議会答申(一九六六年一〇月)が各人の個性、能力、進路、環境に適合する教育の多様化を提唱し、それはそれなりに評価できない内容ではないと私には思われるところもあるのだが、学生たちのあいだ(とりわけ党派に属する学生たち)では見せかけにすぎないものとしてうけとめられていた。大学の現場では相変わらず学問の専門化や細分化がすすみ、教員たちの大半は保身のために大学改革にいっこうに取り組もうとしなかった。京大教員で全共闘支持を表明して有名だったのが作家の高橋和巳(文学部助教授)である。「苦悩教の教祖」などと呼ばれ、全共闘世代からも圧倒的支持を集めていた彼の家は、奥平剛士の小屋からも近い同じ北白川にあった。
 中教審答申が彼らに受け容れがたかったのは、そうした大学現場の意欲のなさに加え、愛国心教育を強調する「期待される人間像」という「別記」が添えられていたからだ。そこでは「自主的な個人の尊厳から出発して民主主義を考えようとするものと階級闘争的な立場から出発して民主主義を考えようとするものとの対立がある」との指摘がなされたうえで、「民主主義の本質は、個人の自由と責任を重んじ、法的秩序を守りつつ漸進的に大衆の幸福を樹立することにあって、法的手続きを無視し一挙に理想境を実現しようとする革命主義でもなく、それと関連する全体主義でもない。性急に後者の方向にかたよるならば、個人の自由と責任、法の尊重から出発したはずの民主主義の本質は破壊されるにいたるであろう」(「第1部 当面する日本人の課題/3 日本のあり方と第3の要請」)などと、マルクス・レーニン主義によって階級闘争と革命を目指そうとする新左翼各派を否定し、彼らが革命成就の最大の象徴としてとらえている天皇について、つぎのように述べられていた。
「象徴としての天皇の実体をなすものは、日本国および日本国民の統合ということである。しかも象徴するものは象徴されるものを表現する。もしそうであるならば、日本国を愛するものが、日本国の象徴を愛するということは、論理上当然である。/天皇への敬愛の念をつきつめていけば、それは日本国への敬愛の念に通ずる。けだし日本国の象徴たる天皇を敬愛することは、その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである」(「第2部 日本人にとくに期待されるもの/第4章 国民として/2 象徴に敬愛の念をもつこと」)
 天皇崇拝を前提とした愛国心教育の実践を呼びかけるこのような答申にたいして、正面切って自己の存在を否定されたうえに、これは学問の自由をいちじるしく侵害する権力の策謀であると新左翼勢力をふくむ全共闘学生はとらえており、同答申は学問の細分化からの脱却を主体性や多様性重視の観点からとなえてはいるものの、その本心は、国内の産業振興と国力増強のためであり、大学は高度な産業社会の発展に寄与しうる愛国的テクノクラートの養成機関であるべきだとする産学協同推進のアピールなのだと考えた。
 それゆえ全共闘に参集した学生たちは、自分たちの立場を、産業社会と学問の自由とのあいだにあらわれた矛盾としてとらえた。そして彼らは「自己否定」という実存主義的な思考にたどり着き、そうしてそれを「大学解体」という、みずからの存在基盤を物理的に解体しようというスローガンにまで昇華させていったのだ。東大の入試粉砕闘争とそれによる入試見送りという日本の大学史はじまって以来の出来事は、こうした思考運動から生まれたものであったのだが、学生の反乱にほとほと手を焼いた国はついに大学の自治を無視して力で押さえ込もうとする「大学の運営に関する臨時措置法」(大学管理法)を国会に提出しようとしていた(同法案は一九六九年八月に成立し、二〇〇一年廃止されるまでつづいた)。
 京大全共闘は東大闘争に呼応するように、五月二一日、機関紙『STRUGGLE』の一面トップで「5・23大学バリケード占拠へ!」と大きく見出しを掲げ、このように訴えている。
「学生部封鎖→全学バリケード封鎖は中教審答申、大学治安立法粉砕を闘う中で政府ブルジョアジーの我々闘う学生への恐怖と憎悪をさらに暴露して行くであろう。そしてこのような立法化策動が、日本帝国主義が要請するところの70年代へ向けての教育の帝国主義的再編をおし進める具体的綱領であることを暴露し、さらに大学自治、学問の自由などの幻想を打破して日帝の砦としての大学を解体し封鎖して行かねばならない」
 ここにも「中教審答申」、「大学治安立法」(「治安立法」は彼らの批判的造語)の文字が見出されるように、彼らは国家によって大学が一元的に管理されようとしている現実にたいして、自己否定としての大学解体を求めて、ついに本部構内の各門にバリケードを構築し封鎖した。以後、負傷者八〇名を出す「五者」とのぶつかりあい、火炎瓶による正門の焼失とつづき、そして街頭にまで出て今出川通りをバリケード封鎖、とうとう機動隊と正面から衝突した。
 奥平剛士にとっては、弟の純三が逮捕されたことが大きな転機となっているようだ。それは五月二三日のことである。純三は一年浪人して兄と同じ工学部に入学し、このとき二年生だった。
「彼としては、弟が先につかまったということで心苦しかったようだ。純三は三ヶ月間拘留されるんだが、その間、差し入れなどよくめんどうをみていたよ」と、「広沢」という友人は言い、別の友人「平野」は「保釈に際して家族の者が裁判官に呼ばれるのだが、おかあさんと彼が行った。その時、彼は裁判官の前で、足を机の上に投げ出して、一言もしゃべらなかったけど、えらそうな顔をしていたらしい」(『天よ――』)。
 八月に大学管理法が国会で成立すると、京大は医学部が「重症校」に指定され、全共闘は本部構内封鎖にたいする自己批判を大学当局と「五者」に要求して無期限ストに突入した。九月一七日のことだ。時計台にたてこもったのは中核派を中心とする学生一〇数名だったが、これは機動隊導入が秒読み段階にはいっていることを察知した彼らが、東大安田講堂の最終局面と同様、みずからの旗を振りながら京大を象徴する時計台の頂上で検挙され、そうしてみずからの存在を全国にアピールしようという決死隊的願望にもとづいた行動であった。当日の急な決定だったらしく、その証拠に彼らはヘルメットと鉄パイプという軽装であり、東大安田講堂の攻防戦で空中からヘリコプターで催涙ガスを大量に投下されたことも想起する余裕がなかった。
 奥平剛士は党派とは無関係にもかかわらず、土方の現場でいつも着ているねずみ色の作業服を着てセメントを持ち込み、煉瓦タイルをツルハシで剝がし、コンクリの練りかたを指導して、時計塔の頂上に砦を築いた。催涙ガスから身を守ってもらおうとしたのである。
 彼はこのとき、文学部、工学部、教育学部などの各闘争委員会と、民青に追い出されて京大に居候している立命館大学の学生たちを中心に構成された「京都パルチザン」(正式には「パルチザン遊撃集団=共産主義共同労働団」)という、党派や大学の垣根を超えた遊撃的な革命家の集まりに参加していた。彼らはみずからそう名乗るのではなく、組織的な闘争方針を打ち出すでもなく、いわばノマド的集団であり、しかしながら彼らはすでに学内問題から関心を社会革命そのものへ移しており、神出鬼没の都市ゲリラとして権力の拠点破壊や資本現場の攪乱などを通じて革命の実現を模索していた。
 いずれにしても京大当局はついに機動隊の導入に踏み切り、全共闘運動はこれを機に四分五裂していった。こうした一連の動乱のなかで、彼はリッダ作戦で行動をともにする工学部学生のやす安之やすゆき、同じくやまおさむ、そして立命館大学法学部のもりたかと出会っている。檜森は大学当局と民青、機動隊によって排除された同大学の仲間とともに、五月下旬から京大教養部校舎に寝泊まりするようになっていた。彼らはそれを「亡命」と呼んでいた。
 年が明けて一九七〇年の三月末、彼は心の整理をするためか、ひとりで一週間の山旅に出かけている。こうした流れを見てくれば、六九年にはとても卒業なんてできるはずもなかった。休講も長くつづいた。彼は安田、山田、檜森ほか工学部や京都パルチザンの後輩たちを率いて、もっぱら土木現場で汗を流すようになった。パルチザンの活動からも距離を置くようになっていた。
 もう、なにも起こらない。心を決めて研究者の道にもどろうとしていたのかもしれない。そうしたときであったのだ、重信房子があらわれたのは。


「リッダ! 1972」アーカイヴ

髙山文彦(たかやま・ふみひこ)

1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。

採れたて本!【デビュー#08】
こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』