【連載第2回】リッダ! 1972 髙山文彦

リッダ! 1972 第2回


 ここでゲバラについて少し書いておきたい。あの小屋で重信房子が彼の存在を認める過程で話題となった人物だからである。彼女もまたゲバラに深く共鳴していたし、奥平の思考にも少なからぬ影響を与えていた。
 一九六七年一〇月、ボリビアの高原地帯の寒村でエルネスト・チェ・ゲバラは処刑された。その死の報は同年の終わりごろになって、霧に包まれた幽谷の神話のように日本にも伝えられた。すでに同年の夏以降、『ゲリラ戦争』『革命戦争の旅』『ゲバラ 革命の回想』といった本人の手記があいついで翻訳出版され、ベストセラーとなった。死の直前まで書き継がれた日記も『ゲバラ日記』として四社から、また同日記をふくむ全四巻からなる『ゲバラ選集』も出版され、ふたりが出会った一九七〇年時点でもなおブームと言ってよい現象がつづいていた。
 すべての戦争を内乱へ、内乱から革命へ、という彼の「国際主義」とその思想や行動は、彼の死によってある限定的な人びとのあいだに確信としてひろがっていった。それは信仰に近い対象にまで彼を押しあげて、京大では時計塔に遺影が高く掲げられた。シルクスクリーンにした肖像写真をリーフレットにして、学内や街頭で配る学生たちがいた。
 わずか八二名のゲリラ部隊を同志カストロと率い、一艘のヨットに難民のように折り重なってメキシコからキューバへ上陸し、アメリカ支配の支柱として独裁政治を敷いてきたバティスタ大統領の軍隊と闘い、一時は十数名にまで部隊を減らしながら、分け入った山奥の農山村でゲリラ部隊を再編成し、二万の軍勢にたいして千の部隊でキューバ革命を成就させたゲバラは、新政府で国立銀行総裁、工業大臣などの要職に就き、国民の幸福実現のために精力的に働いた。アメリカによる経済制裁が予測されるなかで、革命から半年後には通商使節団を率いて世界各国を歴訪し、一九五九年七月には日本を訪れ、池田隼人通産相とも会談して翌年には通商協定を結んでいる。
 彼の日本での行動はあまり報道されなかったが、長い巻き髪と黒々と豊かな髭、ベレー帽に戦闘服といったいでたちは、いまなお革命の途上に身をおく者としての矜持を世界中の人びとに伝え、ジョン・レノンは「世界でいちばんかっこいいのがエルネスト・チェ・ゲバラだ」と言い、本人と対面したジャン・ポール・サルトルは「二〇世紀でもっとも完璧な人間」と称賛した。来日時、彼はみずから望んで広島を訪れ、原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館の展示を見てまわった。原爆病院では被爆者を慰問して、そのあまりの被害の惨状に涙を流した。
 しかしゲバラは、ある日忽然と、キューバからも、彼の行動を注視してきた世界中の人びとの視野からも消えたのだ。それは一九六五年のことで、二月にアルジェでおこなわれたアジア・アフリカ経済会議でソ連を「帝国主義的搾取の共犯者」であると痛烈に批判し、盟友カストロに訣別の手紙を送った。政権からの離脱は、物資輸送を停止されたくなければゲバラを切れと迫ってきたソ連にたいして、カストロの心中をおもんぱかったゲバラがみずから下した結論であり、一〇月のキューバ共産党大会において、カストロが彼から届いた訣別の手紙を読みあげることによって明らかにされた。
 その後、ゆくえはようとして知れなかったが、アフリカのコンゴ革命で挫折を味わわされ、ボリビア革命の途上で包囲、生け捕りにされ、銃殺されたのだ。
 切り落とされた両手首の伝説――一九九七年七月、ボリビアのバジェングランデ空港滑走路脇の地中から発掘された七体の遺体のうち一体がゲバラのそれと判定され、両手首がその死後切断されたことが判明した――とともに、他国の人民解放のために闘い、そして他国の地で果てた彼の死とその行動や思想は、奥平にとってもかねて鮮烈に受けとめられていたらしく、重信房子にもその思いの深さが伝わってきた。
 山やジャングルや渓谷に潜み、五人一組程度の少数部隊をあちこちに配置して、都市にある敵を突発的に襲い、混乱させ、また襲い……と、このような波状攻撃は巨大な敵にたいして大きな成果をあげてきた。奥平は翻訳出版されていたゲバラの本をすべて読んでおり、思想や行動についてはともかくとして、そうしたゲリラ戦術の詳細と悲劇的でみじめな死の必然についてよく理解していた。たんに撃ち殺されて死ぬのではない。彼の最期がいかにみじめで苦痛に満ちていたかということも。
 ボリビア軍に生け捕りにされる直前まで書かれた『ゲバラ日記』の冒頭には、フィデル・カストロが「必要欠くべからざる序文」を寄せており、盟友の銃殺のありさまをしるしているが、これを奥平は読んでいるのである。カストロはこの情報をだれからどんなルートで入手したのか明示していないので、ここでは綿密な現地取材と一次資料から再現されたその場面を、国際ジャーナリスト惠谷治の著作『1967年10月8日 チェ・ゲバラ 死の残照』(毎日新聞社)から引いておこう。

 そして、チェはラモス(キューバ人。ゲバラを知っていた。CIA諜報員・引用者注)に家族たちへの伝言を頼んだ。
――アレイダに言ってほしい。私のことは忘れて、再婚して幸せになるように努めるように。子供たちには勉強するように、と。
 妻のアレイダ・マルチは三十歳だった。チェには先妻イルダ・ガデアとの間に長女イルディータ(当時十一歳)、そしてアレイダとの子供である次女のアレイディータ(六歳)、長男のカミーロ(五歳)、三女のセリア(四歳)、次男エルネスティコ(二歳)の五人の子供がいた。末っ子のエルネスティコは、キューバを離れるときには一歳八カ月で、父親の顔を覚えている年齢ではなく、チェは不憫に思っていたことだろう。
 チェからカストロと家族への遺言を聞いたラモスは教室を出た。外にはチェの最期を見届けようと、大勢のレインジャー兵や村人たちが集まっていた。
 ラモスと入れ代わりに教室に入ったテラン軍曹は、手首を縛られ長椅子に坐って、壁にもたれかけているチェと目が合った。
――私を殺しに来たんだろう。
 チェは静かに言った。手が震え発砲できないでいるテラン軍曹は、躊躇して口ごもった。
 ――何をぐずぐずしてるんだ。落ち着いて、一人の男を殺すことだけを考えろ。
 戦闘で数多くの敵を倒してきたチェは、敗者である自分を殺そうとする兵士に対して寛容だった。処刑執行人を見つめるチェの眼光は鋭く、テラン軍曹の眼はかすみ、チェがとてつもなく巨大に見えた。チェが向かって来るのではないかと、一瞬、恐怖を覚えた。
――撃たんか! コバルデ(臆病者め)! ひと一人も殺せんのか!
 その言葉を聞いた瞬間、一歩引き下がった軍曹は両眼を閉じて、無我夢中で引き金を引いた。
 狭い教室に銃声が響き、硝煙が立ち昇った。チェは椅子から崩れ落ち、左足の付け根あたりから大量の血が土間に流れ出した。テラン軍曹は気を取り直すと、倒れているチェに向かって、今度は引き金を長く引き続けた。二度目の連射は肩や胸に命中したが、それでも解剖結果によれば完全な即死ではなかったという。

 同書には、処刑の決定をラモスから告げられたときのゲバラのようすも書き写されている。それによると、「最高司令部からの命令が届きました」とラモスは言ったまま、「処刑」という言葉を告げられず口ごもっていると、ゲバラはこのように言った。
「分かってたんだ。それでいい。絶対に生きて捕まるべきではなかったんだ。それが間違いだった」
 惠谷治は「ラモス手記」を引用して、「私を凝視する澄んだ目は涼やかで、表情は決然として落ち着いていた」と書いている。
 同書が出たのは二〇〇〇年五月のことなので、むろん奥平は読むことはできなかった。けれどもカストロの序文によって、ゲバラが渓谷での銃撃戦で生きたまま捕まり村に引きずりおろされて銃殺されたことは知っていた。生け捕りにされたことを、彼は自分のことのように苦しく思っただろう。
「チェの死は国際共産主義運動の終焉であり、マルクス・レーニン主義、および、イデオロギーの無力化を決定づけたといっても過言ではない」と、処刑のもようをしるしたあとで恵谷は結論しているが、ゲバラの革命戦争は、殉教のようなその死によって日本の若者に広く知れわたり、赤軍派はゲバラの国際主義に触発されて日航機「よど号」をハイジャックし、北朝鮮に渡った。そして一九七〇年八月、重信房子は奥平剛士のまえにあらわれた。
「フィデルに伝えてくれ。今回の失敗は革命の終焉を意味するのではなく、どこか別の場所で勝利するだろう、と」(同書)
 このラモスに託されたというフィデル・カストロへのゲバラの遺言を、わがこととしてうけとめた者たちが日本にいたのである。


「リッダ! 1972」アーカイヴ

髙山文彦(たかやま・ふみひこ)

1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。

採れたて本!【デビュー#08】
こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』