【連載第2回】リッダ! 1972 髙山文彦

リッダ! 1972 第2回


 一九六七年二月一〇日の日記に(ゲバラの死の八カ月ほどまえ)、奥平剛士はつぎのような文章をしるし、ある覚悟について述べている。

 革命家が、その非常の手段のいっさいを免罪されるのは、ただ彼らの心中、一片の私心なき清明さをもってのみである。
 満身を挙げて、正義を行なう。しかしそれは口先では成就せぬ。すべての非常の手段権謀を駆使せねば大義は現実の世界にうちかつことはできぬ。しかしそれを用いる革命家はあくまでも、あくまでも清みわたって美しくなければならぬ。それが彼の唯一の生きがいであるはずだからだ。
 頑固な潔ぺきとはちがう。泥まみれになって暗黒の中に〔「一点の星をさがして」と書き、抹消〕のたくるのだ。だがそれは心の中の唯一の星をまもりたいからこそだ。

 正義遂行のための手段において、モラルの是非はいっさい問われないと彼は述べ、それを担う革命家の条件として「一片の私心なき清明さ」をあげている。ではその「正義」となにか、言及されていないのははなはだ残念ではあるが、ここでは革命的暴力の執行者の覚悟について自身に言い聞かせるように書くのみだ。岡山に転居するまで下関で生まれ育ったからか、どこか明治維新の志士めいた古風な考えかたをもっていたことが、ここにはしめされている。
 実際、日記には吉田松陰や高杉晋作の名が散見され、ことに安政の大獄のさいに自重を呼びかける高杉、さか玄瑞げんずいらにたいして松陰が書き送った手紙――「桂[小五郎]は僕無二の同志友なれど先夜此の談に及ぶこと能はず、今以て残念に覚え候。江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」――を引用したうえで、自分に言い聞かせるように、「諸君は功名するつもり/僕は忠義をするつもり」と現代語に書き直して、「やっぱりここだ。名前を出すためにマルクス主義を学ぶのじゃない。かっこいい論文でも書くためじゃない。/それが、日本の未来を切り開くために必要なのだ。行きづまり、破滅への道をたどるであろう情勢の中で、新たなる学問の未来を切り開くべきインテリゲンチャのつとめだ。そのために勉強しろ。じっくり勉強しろ。第一人者たれ!」と書いて、つづけて自己の内面をのぞき込むようにして、「まだ少しむりがある。こう叫ぶ言葉との間にまだ少しギャップがある。のりこえよう。徹底的に功名心を捨てよう」と、おのれを鼓舞している(一九六六年六月二二日)。
 いまでは、「インテリゲンチャ」などという言葉は死語も同然となり、そのような意識をもって学問に取り組む学生はごく少数に限られているのではなかろうか。二〇二二年度の大学進学率は五六・六パーセントと過去最高に達し、産学協同はごくあたりまえに需要されている。学生にとって「自己否定」よりも「自己実現」のほうが大事な眼目となっており、学問の自由への疎外が自然化されてきたことによって、「否定」と「実現」の両極をいかに止揚していくかという思考運動をしなくなった結果、いかに自分にとって一生安楽で有利な企業にはいれるかが自己実現であるかのように勘違いされている。
 奥平が入学した一九六四年の四年制大学への進学率は、男が二五・六パーセント、女がぐっと下がって五・一パーセント、平均すると一五・五パーセント(文部省統計要覧)にすぎなかったことを考えたとき、最高学府に進む若者たちの意識は、いまとはまったく違っていることを想像できるのではないだろうか。高校への進学率も、ようやく七割に達するかどうかだったのだ。
 一九六九年にはGDP世界第二位となり、敗戦後四半世紀にして世界有数の先進国になったとはいえ、多くの少年少女たちは中学を卒業して大都市の工場や港湾、炭鉱、土建現場などへ集団就職し、低賃金に重労働、粗末で不衛生な住環境での暮らしを送りながら、地べたや鉄筋コンクリートの上、そして地底から高度経済成長をささえ、彼らを地引網で引きさらうように大量に雇い込む企業からは「金の卵」などと、本音もあけすけに呼ばれていた。
 全国各地の農村からはこうしてつぎつぎと未成年がとられ、大阪で一九七〇年に開催される万国博覧会の会場建設やそれに関連する道路・上下水道・電気・ガス・電話・宿泊施設などのインフラ整備が国をあげて急ピッチで進むなか、親の世代も競って出稼ぎに出て、国の審議会で一九六六年にはじめて提出された「過疎」という言葉が、過疎化いちじるしい当の農村においてさえすっかり浸透していた。
 高度経済成長がもたらした問題は、それだけにとどまらなかった。水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病などに代表されるさん海空かいくうの化学物質汚染による深刻で猛烈な人体と生態系へのダメージ、またその被害者への国家国民あげての手ひどい差別と仕打ち、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』ではじめて世界に告発したように、化学物質まみれの残留農薬による食糧汚染も広範囲におよんでいた。過疎の村の田んぼからはタニシやゲンゴロウ、タガメ、川からはカワニナやホタルが消えた。太平洋ベルト地帯の大小の川と海はヘドロで埋まり、東京の隅田川を渡るとき、人びとは悪臭を避けるために電車の窓をいっせいに閉めた。公害被害者をささえ国と加害企業の責任を追及する民衆闘争が法廷内外ではげしく火を噴くいっぽう、石炭から石油へのエネルギー転換に端を発する炭鉱労働者の解雇問題をめぐって、九州や北海道では労働争議が激化していた。
 海外ではアメリカ合衆国とソビエト社会主義共和国連邦とのあいだで核実験合戦がつづき、キューバ危機によって両国は開戦寸前まで行った。ベトナムではベトナム解放軍と米軍とのあいだではげしい戦闘が終わるところを知らず、アメリカの一方的な横暴にたいして日本では「ベトナムに平和を! 市民連合」が結成され、セクト主義の陥穽にはまり込まず市民レベルでの連帯行動が長くつづいていた。
 戦後日本の経済成長の背景には、まず朝鮮戦争特需があり、つづいてベトナム戦争特需がある。故郷の村には蚕を養い糸車をまわす母や老いた祖母がいて、骨身を削って親が貯めた学費を彼らはうけて大学へ進学した。彼らには、そうしたおびただしい戦争の犠牲者、自分のために家業を継いでくれた兄や弟、国や大企業の「労働力商品」として工場で汗を流す幼なじみの姿が目にすがり、うしろめたさが消えなかったのだ。初期マルクスの『経済学・哲学草稿』に彼らはいまの資本主義のありかたをただす原理を見出し、「人間疎外」「労働力商品」といったキーワードをさらに推し進めて、「自己否定」という原理的思考運動をそれぞれがもちあわせるようになった。
 こうした世界情勢や各国でわきあがる革命への行動、それへの弾圧、そして環境破壊にまっしぐらにつきすすんでいく人類への危機的な観測が、「行きづまり、破滅への道をたどるであろう情勢」と奥平剛士に言わせていただろう。
 東大と肩をならべる西の最高学府に進んだ彼のような学生たちは、いずれ国の将来を導いていかなければならぬインテリゲンチャとして、集団就職の少年少女や草深い故郷の田畑で汗を流す年寄や兄弟たちから見れば、とうていそこへはたどり着けようもない選ばれた者たちなのであって、彼ら自身、そのように思われていることを自覚していたし、罪の痛みのような優越の思いもあるのだった。社会的矛盾のあらわれのひとつとして自分たちと大学はあるのではないかという自意識を彼らの多くはもっていたし、自己と社会、自己と世界の関係を真剣に見つめ、古今東西の書に学び、ありあまる時間を教師や友人との議論に費やして、自省を怠らぬ学生もごくあたりまえにいたのである。
 スラムに通い土方に汗を流す奥平剛士もそのひとりであり、スラムそのものの化身であるかのような「大杉」という人物を彼は師と仰いだ。それはしかしなにごとも黙って従うようなおとなしいものではなく、ともに土を掘り、同じ飯を食い、同じ酒を飲み、はげしい議論のすえに「大杉」の腕時計が吹き飛んでしまうほどの殴りあいをする関係なのであった。ふたりは言葉に羽をつけてその場をまるくおさめようとはしなかった。そうした肉体のぶつかりあいは、全身全霊をかけた対話であったろう。スラムあるいは被差別部落の解放というテーマを拳と拳の真ん中に置いて、世界の奈落であるかもしれぬそこに生きるということがどういうことであるのか、その世界観の諒解をたがいの身にしみ込ませるために必要な痛みの確認であったろう。
 明治の日本に輸入された近代ヨーロッパの「理性」は、彼の言う「思想的な健全さ」を個人や家族やその集合体である社会生活に求め、そのいっぽうにおいて人間本来の「自然性」を抑え込みながら、近代国家の下層構成者として民衆ひとりひとりを富国強兵のための「徴兵要員」、殖産興業のための「労働力商品」として組み込んでいったわけだけれども、彼はそうした近代史の源流をナポレオンから熱心に学び、現状認識と未来のあるべき世界観をマルクスから学んでいった。
 前者では、王政廃止、国民国家の建設、それにより王政下では徴兵されなかった農民をも「国民」として徴兵可能にし、その勢いをもって侵略戦争、領地拡大へと向かったナポレオンの近代主義を批判的に学んでいた。後者では『マルクス・エンゲルス全集』を読んで、資本主義とはやがて帝国主義に行き着かざるを得ないシステムであって、新種の奴隷制度に組み込まれた労働者たちから時間と金銭と体力と思考と生活などいっさいを搾取する構造の打破において、インテリゲンチャである自分たち自身が革命の核となり共産主義社会の実現に向けて闘うことは歴史の必然であるのかもしれないと考えていた。
 彼は高校時代に読んだ阿部次郎の『三太郎の日記』に出てくる、「自覚とは因果の連鎖の中にある一つの環が自ら第幾番目の環にあたるかを悟ることである」という一節を、自身への警句として記憶にとどめていたはずである。アジア太平洋戦争で日本が亡びようとするころにこの日本という国に生まれ落ちた一個の卑小な存在として、彼は成長するにつれて、自分はいったい第幾番目の環にあたるのだろうかと、自己の歴史的位置を正確にとらえようとする宿命論者の孤影があるようだった。
「何故、われわれはここでこんなことをしなきゃならないんだ」
 と、セツルメントの友人に尋ねられたとき、
「歴史がそう流れているからだ」
 と、それだけを言って、あとはひとことも付け足さない男だった。
 いかなる悲惨な運命が待ちうけていようとも、なにごとも宿命として受け容れて生きる、これこそがほんとうの自由の意味だと思い至っていた気配が彼にはあり、二十歳前後の若い肉体にはそうした老成した精神が宿っていたものと思われる。だからであろう、恋心を抱いていた女子学生にたいしても、彼女がアパートまでせっかく来てくれたのに、ドアのまえに出て、帰ってくれと追い返すようなストイックな一面があった。自分のほうが好きなのに、そんなへそ曲がりな行動をとってしまうほど、彼はなにごとかのために自己を殉じさせようとする気持ちをつよくもちつづけていた。
 その恋心を抱いていた相手が卒業していく。彼はこのような長い詩を仲間たちの文集に書いて(一九六六年一月三〇日)、彼女への別れとした。

 卒業するなつかしい仲間へ
君はあの瞳を見たことがあるか
眠られぬ夜の漆黒の闇のように
雪のふりつんだしんしんたる星空のように
すべてを包み込みすべてを吸いこんでいく
 あせりたった若き小心者は
 その瞳の深さにおびえた

俺は彼女と東九条の道を歩いた
すべての粘液が音をたててひからび
貧血した目が白いまぶしさに渦巻いた夏
雑炊とドブネズミの臭いを運ぶ霧雨の夕べ
裸電球の下 細いすすり泣きが凍りついたアスファルトの道を
俺はいつも黙ってうつむいた君と歩いた

浅井のおやじが君にくってかかり
何人もの子供が君の肩にすがり
何枚もの皿が子供の頭で割られ
いくつもの偶像が
苦い泥水をとばして砕けちった時
俺のろうそくが ぢりぢりと
 脂汗をはぜて燃え尽き
小さな彗星となって青い光芒を
 西の空に飛びちらせた夜
うつむいた君の瞳は
 だまってすべてを吸いこんだ

俺は一度だけ君をオルグした
俺の目は切りきざむのが得意なはずだった
 東九条を おばさん達を 子供らを 本のことばを
そして俺の舌はこねまわすのが得意なはずだった
 矛盾を 階級を 教育の反動化を ルンペン・プロレタリアを
だが君の瞳の深さと静けさに
 俺はだらしなくうろたえた
あの日あんなに口べたになったのは
 寝不足のせいではなかった
そうだ、俺は君の瞳に
たけりたつ言葉ではなく、静かな「人間」を感じたのだ

君は故郷へ帰る 帰って保母さんになる
さようなら また会おう
そして今度はしみじみと話をしよう
その時は俺も自分の生活をもって
昔の思い出を
そして君の子供達のことを
静かに話そう
その日までさようなら

 このようにして彼は、その人が故郷へ帰るそのときまで、指一本触れず見送ったのである。
 この詩を読めば、意外なほど豊かな文学的精神が彼のなかに領土をひろげていたことがわかる。ランボーや宮澤賢治以外にどんな詩人の詩を読んできたのか定かではないが、ここにリズムよく紡がれた言葉の数々は鮮烈な印象を与え、詩人として出発の準備を整えようとしている二〇歳の青年の習作とうけとめられてもおかしくはない。スラムの脂くさくて荒々しい喧騒やおびえる子どもたちの顔が浮きあがってくるし、恋する相手の、よろこびも悲惨もすべて受け容れようとする慈母のごときまなざし、そのまなざしへと傾斜する心のゆらぎをみずから裁断し、放心したようにペンを置く若い彼の背中が見えてくる。
 漢籍にも通じていた彼の日記には、自作の漢詩やその他の現代詩が幾篇かしるされているが、引用の詩をふくめて身辺に生起するさまざまな出来事を自己の精神の問題として彼は内面化し、そのたびに詩を書きしるすのだった。そうすることによって、ある段階を踏み越えていこうと彼はしている。そうして書くごとにおのれの文学的精神を自己を蝕む弱い精神として葬り去っていこうとしているように見える。
 読書ノートをふくむ日記や友人たちへのインタビューを読んでいくと、大学入学から一年近くはセツルメント活動に関連する教育論や部落問題の研究書を集中的に読み、東九条での活動に熱心に取り組んでいる。つぎの第二期を遺稿集編者は一九六五年五月頃から六七年二月頃(二回生から三回生の終わり。セツルメント活動への懐疑と訣別の時期)としているが、それは「大杉」のもとで土木作業に本腰をいれた時期でもあって、革命思想の研究に没頭している。ノートに見えるだけでもシュテファン・ツヴァイク『ジョセフ・フーシェ』、エンゲルス『フォイエルバッハ論』、シェイエス『第三階級とは何か 他三篇』、スターリン『スターリン著作集 党内闘争論』、上田耕一郎『戦後革命論争史』、クロポトキン『革命家の思い出』、マルクス『経済学批判』、ソプール『フランス革命』、岡本隆三『長征――中国革命試練の記録』、ドイッチャー『スターリン』などなど、国ごとに生起した革命に関連する書物を書き手の立場がどうであれかまわず読んでいき、つぎの第三期(六七年春、四回生以降)にいたって集中的に読まれるのが『わが生涯』をはじめとするトロツキー自身の著作と彼に関する書物である。
 表紙の裏やページの余白にメモが書きつけられており、それを順に見ていくと――、
「一九六五・九・二九、試験中。/自己の思想をつくりあげるために、まず混沌のどろ沼をこねまわそう。あらゆる金属をその中に投げこみ、とかし、まぜ、そしてその巨大なる混沌の中から美しいものをこねあげる努力をしよう」(シェイエス『第三階級とは何か』)
「我に力を与えよ、神よ!」(上田耕一郎『戦後革命論争史』)
「これが真の科学者の態度だ! 彼の科学的洞察は「支配者」のカベをやぶっている。そんな心の内側からの衝動が、おれにあるか?」(クロポトキン『革命家の思い出』)
「真にマルクスは天才だ!/すごい!/俺は心からの脱帽をおくる/満腔の歓喜と謝意をこめて」(マルクス『経済学批判』 ※「三三頁~五頁。商品で表示された労働の二重性に関する分析の部分に」書かれていると編者の注)
「この本を読む者は現実の苛酷さをすべて抱擁する情熱を必要とする。/この本の冷たい一言に凝結しているロシアの民衆の、革命家の、無数の涙と歓喜をよみとる熱い情熱を必要とする。/お行儀のいい読書人よ。/貴様には読んでおしゃべりする資格はない!/最も苛酷な、しかし最も美しい現実たる革命を批判する資格はない!/貴様の革命を理想の世界から現実の世界に引きずりおろせ!/一九六六・五・一八 T.Okudaira」(ドイッチャー『スターリン』)
 以上は第二期の読書ノートに見出せるものであるが、「お行儀のいい読書人よ」以下のたたみかけるような激情の吐露は、他者にたいしてではなく自分自身に向けられている。スターリンの功罪を問うのではない。この冷酷で自己中心的なサディストのなかに非情な現実を見出し、革命とはいかなるものかに目覚め、みずからも革命家として自立していこうとする意識の流れが見えるようだ。
 しかし、彼はそうした革命にまつわる本ばかりに読書の時間を費やしていたのではない。ドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリ、チェーホフ、ロマン・ロラン、アルチュール・ランボーなどの小説や詩を熱心に読み、そして彼が高校三年のときに邦訳出版されたソ連共産党=スターリンの暗黒時代を活写したソルジェニーツィンの『イワン・デニーソビチの一日』も読んでいるので、フルシチョフのスターリン批判以来さまざまに暴かれてきたスターリンによる大粛清や強制労働などについて充分な知識をもっていた。そして、なにもそれはスターリン固有の特殊な性質によるものではなく、ロマノフ王朝以来、農奴制を基礎に据えたツァーリズムの独裁者的精神風土が革命を経てもなお指導者層に引き継がれたものではないかと考えることができた。また、いかに共産主義が優れたイデオロギーであったとしても、いまはまだそこへ至ろうとするためのごく初期のプロセスなのであって、権力者によってかくも真実を捻じ曲げられ、むしろ官僚的独裁国家というもっとも醜い暗部へと指導者たちが墜落してきた歴史の逆説をおおよそは理解していた。
 すなわち彼は、共産主義社会に向かおうとする人類の成熟は歴史の必然であるとみなしながら、そこへ至るまでの道のりの困難さについて、まだまだ多くの犠牲がともなうことに思いをめぐらすことができていたと思われる。
 日本の創作も夏目漱石や宮沢賢治を中心に読んでいる。とりわけ宮沢賢治にはつよいあこがれを抱いており、友人には「ケンつぁん」などと賢治の名前を呼びながら、童話や詩をそらんじてみせることがあった。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)という賢治の言葉や、『グスコーブドリの伝記』に描かれる、冷害と凶作に苦しむイーハトーブを助けるために火山にわが身を滅するグスコーブドリの自己犠牲の姿に、彼は自分自身を重ねてみることがあったろう。「革命家はあくまでも、あくまでも清みわたって美しくなければならぬ」という日記の一節などに、そうした思いがあらわれている。
 世界への理性的盲従を彼は拒否するとともに、革命の「大義」のために「すべての非常の手段権謀を駆使」しようとするならば自己の生命の滅却は必然なのだと、早くから自分に言い聞かせるようになっていたようだが、東九条のスラムで彼ともにセツルメント活動をしてきた京大の友人によれば、「セツルをやめる時期には、『もう、日本では何も起らへんのやから、俺が日本でやることは何もない』なんて、しきりに言ってたことがあった。ヒマラヤに行ってシェルパをやるんだとか、中近東の砂漠で発掘をやるんだとか、確かに地質なんかに詳しかったからね。でも、それはできなかったんだろうね。やはり、『革命家』ということが頭から離れなかったんだと思う」(『天よ――』)。心は定まったわけではなく、なお揺らめいていたのである。
 彼はセツルメント活動に限界を感じるようになったころから、トロツキーを集中的に読むようになっている。これが第三期にあたる。日本共産党のみならず戦後左翼運動家たちは口をそろえて、「くさったトマトか、キャベツのように激論の敵手に憎悪の塊として」トロツキストという言葉を唾でも吐くように投げつけ、「この不思議な魔力のある言葉を、どちらが先に相手に投げつけるキッカケを見出すかで勝負は決まった」というくらい「狡猾で野心的な陰謀家」「小ブルジョワ的極左主義の個人主義的分派主義者」(栗田勇『トロツキーわが生涯』解説、現代思潮社)としてトロツキーを蛇蝎のごとく蔑んでいたが、そうした一方的なコミンテルンによる感情の刷り込みを乗り越えていこうとする思いがあったのではないか、彼は『永続革命論』『トロツキー わが生涯』『裏切られた革命』ほかトロツキーのほぼ全著作を読み、アイザック・ドイッチャーのトロツキー伝三部作『追放された予言者』『武装せる予言者』『武力なき予言者』(新潮社)を理解を深めるための伴侶として、ロシア革命の真実と歴史的誤謬にたいする正確な把握に努めながら、ソ連崩壊を予言したトロツキーの著作さえも批判的に読んでいこうと心掛けていた。
「あまりに粗暴」なるがゆえに「書記長の職務にあってはがまんできないものになる」、したがって「この地位から更迭」し、「もっと辛抱強く、もっと誠実で、もっとていねいで、同志にたいしもっと親切で、彼ほど気まぐれでない、等々の人物をこの地位に任命する方法を熟考することを、わたしは同志諸君に提案する」(松田道雄編『ドキュメント現代史1 ロシア革命』平凡社)などと、名指しでレーニンの遺書にしるされたスターリンは、後継者として望まれていたトロツキーとそのグループを暗殺や流刑に処し、レーニンの遺書を隠したのだ(公開はスターリン批判後)。反革命の烙印を押され、同志をつぎつぎと殺され、ついに国外追放されたトロツキーは、紆余曲折を経てメキシコに亡命し、スターリンの放った刺客によって後頭部をピッケルで打ち抜かれ、悲劇的な死をとげた。
 その生涯について、奥平剛士は薄っぺらな同情を寄せることをしていない。『わが生涯Ⅱ』の表紙裏に、あの有名なトロツキーの遺書の一節をまるまる書き写している。

 私のもの心ついてから四二年、私は常に革命家であった。その四二年はマルクス主義の旗のもとに闘った。もう一度すっかりやり直すとしたら、もちろん二、三の誤りは正すにしても、私の生涯のコースはかわらないだろう。
 私は一人のプロレタリア革命家として、マルクス主義者として、弁証法的唯物論者として、したがって妥協することのない無神論者として死ぬだろう。
 ナターシャが庭からあがってきて窓を大きく開いた。大気が何物にもさえぎられずに入ってくる。
 塀の向こうに草地が緑に輝いている。
 その上はすみきった青空だ。
 人生は美しい。未来の世代が、人生から悪と抑圧と暴力をぬぐい去ってせいいっぱい楽しむように。――トロツキー

 そして奥平は、「彼の生涯を悲劇的だと憐れむ人がいたら、それはまちがいだ。彼の言葉を読む人は逆に自分が憐れむべき存在だと感じさせられるだろう。/彼はどんな恐れ、妥協、屈服とも無縁だ。真底からの革命家として死んだ。/歴史が彼の生涯の意味を証明するであろう」と自分の感想を書き、そのあと『永続革命論』を読んだ彼は、同書の見開きにこのように書き込むのだった。

 第二次大戦へ向う全世界を覆った漆黒は、すべての光をこの一人の男に集中してしまったようにさえみえる。この瞬間、彼は、あらゆる理性の権化である。そしてその故にこそ、彼は全く無力であった。これが彼の、革命の、悲劇である。
 彼は最後の瞬間まで、ことばを、したがってその理性的な力を信じた。俺らもまた、そうするであろう(傍点・引用者)。

 彼の行く末を知る私たちにとって、この最後の言葉はじつに示唆的である。「ことば」という「理性的な力」を最後まで信じた詩人トロツキーは、それゆえに革命にたいして「全く無力であった」と述べるとき、なぜそのようにあらざるを得なかったのか、ロシア革命が世界規模の戦争に巻き込まれていこうとしている情勢を背景に据えて、彼は遠近法で絵を描くように個としての革命家の歴史的位置をとらえ返そうとしている。「ことば」や「理性」を、ここでは「良心」と置き換えてもいいのかもしれない。それを手放さないかぎりトロツキーのような「悲劇」は免れ得ないけれども、たとえそうであろうとも自分たちは彼と同じように良心に従うだろう。そう言っているのである。
 セツルメント離脱とともに半年ほど片足をかける程度に在籍した民青からも去ったのは、以上のような意識の流れを見てくればわかることだ。そもそも彼は民青になど興味なかったのではないか。重信房子は奥平剛士から、民青加盟のおりに組織名(本名以外の組織内での通称)を決めてくれと言われ、「草加次郎」とこたえたのだと聞いている。そんな悪趣味な名前はやめてくれと言われ、とりさげたようだが、島倉千代子後援会事務所を皮切りに、麻布バーホステス宅、ニュー東宝劇場、日比谷映画劇場、世田谷の公衆電話ボックス、浅草寺境内などで未遂をふくむ爆発事件をおこし、吉永小百合への脅迫、上野公園おでん屋台主銃撃、渋谷東横デパート爆発脅迫、地下鉄銀座線爆発など一九六二年一一月から翌年三月にかけてつぎつぎと不穏な事件を起こし、いまなお行方知れずの犯人名を伝えてしまうほど、はなからやる気はなかったのだ。
「京都パルチザン」を撮影した土本典昭のドキュメンタリー映画『パルチザン前史』には、彼もほんの少しだけ映っているが、パルチザンの仲間たちが借りていた銀閣寺近くの一戸建て――彼らは「銀閣寺アジト」と呼び警察にたいしても同所を隠さず公然化していた――には、せいぜい二、三度程度しか通った形跡がない。パルチザンの提唱者でカリスマ的存在であった京大経済学部助手の竹本信弘(ペンネーム・滝田修)にたいしても、ほとんど近づくことはなかった。
 銀閣寺アジトから奥平の小屋までは五分も歩けば行ける距離にあったが、全共闘運動が散り散りになってから彼が打ち込んでいたのは肉体労働であり、スラムの子どもや青年たちへの独自のかかわりかたであった。一九六六年一月二二日、最初の留年を決めたころ、マルクスの『経済学批判』の扉に、「俺は親爺に感謝しよう/そして/俺自身の道を切り拓こう/限りなき下降のために」と決意をしるしたように、青白く痩せっぽちのインテリ青年は下層世界へと下りていく段階をいまやとっくにこえて、もはやひとつの「組」の経営者となっていた。周囲の後輩たちにとっては、学生でもなければ労働者でもない、ある次元へとつき抜けた存在として畏敬の対象となっていた。東九条で彼を鍛えた「大杉」という人物が、「わしは兄貴がうちたてた旗を、わしの現実のなかでひきつぐからね」(『天よ――』)などと、空港襲撃事件を引き起こしたあとになってからでさえ、手放しで称賛するほどに。


「リッダ! 1972」アーカイヴ

髙山文彦(たかやま・ふみひこ)

1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。

採れたて本!【デビュー#08】
こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』