【連載第2回】リッダ! 1972 髙山文彦

リッダ! 1972 第2回


 一九七〇年の奥平剛士には、ここまで見てきたように大きく分けるとふたつの「場所」がある。ひとつは京都パルチザン、ひとつは東九条というスラムである。このふたつは、ある部分ではいくらかリンクし、ほとんどの部分ではまったく無関係に独立していた。そしてどちらからとも遠くあったはずの重信房子が、新しい場所に彼を導いていったという構図になる。
 彼と近しい関係にあった人びとには口を閉ざす者が多く、ともに行動し、ベイルートへ渡ってからも在郷連絡役として重要な役割を果たした人物に私は会うことができなかった。なんとか話を聞かせてほしいと願って、手紙と自著を二、三冊、住所に送ってみたのだけれど、「受取拒否」でつき返されてきた。あいだにはいってくれた人もいたのだが、どうしても会いたくないとの返事。
 また、ある人は、やはり彼を知るためになくてはならぬ人物のひとりだったが、京都駅まえから電話をすると丁重に断わられた。重要なポストに就いているその人は、いまの社会的立場をわかってほしいと言う。
 その人は後日私に、自分の文章が載った本のページをコピーして送ってくださり、それには奥平の指導のもとで土方に励んだこと、学生運動に打ち込み二度逮捕されたことなどが書かれていた。添えられた手紙には、「三十年以上前に奥平氏と文字通り手作業で土台作りをした建物」がいまも変わらず立っているのを誇らしい思いで最近見てきたこと、チェーホフの『六号室』が面白いと言って語りあったことなどがしるされていた。
 彼を知る人物に会うことはできても、やはりその人たちも、彼の人物像とリッダ作戦へのかかわりについて語ることを頑なに拒み、それとは直接関係のない外形的な事実関係についてなら話そうと言ってきた。私はそれに従った。
 彼らは奥平が参加していた京都パルチザンの元メンバーであって、のちに赤軍派となった者もいればそのシンパもいたが、一九七〇年の時点ではノンセクトの者が大半であった。数人単位で思いおもいに動いていた彼らは、アジトそのものは公然化していながら、機密が公安に漏れることを極度に恐れ、別のグループとはよけいな話をしなかったし、彼らが借りていた純和風木造二階建ての銀閣寺アジトに奥平は意識的にほとんど寄りつかなかった。赤軍派の大量逮捕で自供があいつぎ、その自供がさらに大量逮捕を招いて、破滅へと追い込まれてきたのを知っていたからである。
 ベイルートへ奥平が旅立つ前後からテルアビブ空港で命果てるまで、なんらかの指示や情報のやりとりをしていた人はごく少数に限られていた。「受取拒否」の人は、それを担っていたのだ。
 この人たちがそうするのは(私に話してくれないのは)どうしてなのか、私にはわかるようでわからなかった。
 ところが、京都パルチザンのメンバーであった元赤軍派活動家からある日、大量の資料が送られてきた。そのなかにハッとするようなメールのやりとりの記録を見つけて、なるほどこういうことだったのかと腑に落ちたのである。
 奥平剛士がその死によって彼らの肌身に残していった傷口は、あれから数十年を経ても瘡蓋かさぶたにすらならず、薄くひらいてときどき血を流しているのだった。そのメールの差出人もまた私の取材を断わった人であり、受取人は私の話をその人につないでくれた人であった。
 奥平剛士という存在について、重信房子の理解とはまた別の異質な理解があることをそれで知ることができた。彼らは革命家としての実存をあの空港襲撃作戦以来喉首につきつけられて、おのれの実存をはげしく揺さぶられ、革命の外にはじき出された者として、空を撃つような日々を重ねてきたのである。
 全文を引かせてもらう。

 夜中にご免。しかし、夜中の話題だろう。
 桜が満開に咲いたり、散り初めたり、散ってしまうと、それなりにふさわしい歌(和歌ですよ!)や詩があるが、これから咲こうかと言う時に思いつく言葉がない。ましてや、もうそんな齢でも、とうになくなった。それでも、この季節はそれだから辛いよね。
 久しぶりに、I君やK君と痛飲した。春まだ浅い3月半ば過ぎ。と言えば何となくロマンチシズムが溢れそうだが、そうは問屋が許してくれない。ノスタルジアも何処かへ消えて行く。
 飲むと、死んだ人たちがあれこれと浮かんで来るだろう。それは極く普通の話だが、何十年も経って、消え去りそうな記憶を刺激する、見ず知らずの人たちが居たとなると話しが混乱・混迷するみたいだ。奥平剛士、その人。
 Kは、彼をモラリストと言う。それは、ボキャブラリーが間違っていて、飲んで居る中で、何度もストイシズムだと訂正したのだが、ダメだった。確かに、今では説明が誰にも、信じられないような二十代の青年の純粋さと猛々しさを合わせ持っていた人だった。だから、Iにとっては、Kもそうなのだが、60歳を過ぎた今も、常に辿り着けない自己批判の基準として、現に生きているのだ。だから、作家であれ、ノンフィクションライターであれ、第三者が自己の記憶と感性に踏み込んで来ることが、許せる筈がないのだ。
 彼らは言う。ぼくらは結局何も為せず、何も残しは出来ないだろうけれど、奥平さんは、奥平剛士として、誰にも何も言わせることの無い存在として残った、と。
 Iにとっては、彼は今も生きている。圧倒的な存在として。彼は、言う。あの人の前では嘘や言い訳が言えなかった、と。Kは、言う。一緒に仕事をして、そして、飲みに行って、君の話は詰まらないから帰れと、言われたと。そんな自己中心的な言い方に、荘厳かつ冷徹な判断を突きつけられた気がして、圧倒されたと。
 ああ、この二人にとっては、それは確かに貴重な思い出だろう。ぼくも、彼のストイシズムはよく知っている。ネチャーエフだったか、サビンコフは反動だったか、それはどうでも良いけれど、とにかく、その純粋主義的なまでの革命家の在り方。世俗を絶って屹立することを目指すことを、観念的でなく、日常において平然と実行する姿勢。それでいて、母親への愛情と、「家」と言う意識を併存させ、気遣う優しさを持っていた。
 いや、はっきり言おう。今だから、言える。それを僕は拒否した覚えがある。そんな「立派な革命家」は困るんだよ。君は良いだろう。しかし、君が、多分僕の息の根を止めてしまうよ。ぼくらは何もそんな立派な社会には多分生きて行けないような気がすると。だから、僕は、彼の紹介で一緒に行った土方を3日で止めた。だから、今、辛うじてぼくは生きても居られるのだろう。自分にすら妥協出来ないと 言う強い意志をストイシズムと言うのかも知れない。
 KやIが、言葉にし切れないことが、彼についてはある、と言う。そうかも知れない。ぼくも、KやIに、説明し切れないことは当然ある筈だ。それは、誰にでもあるとすれば、奥平剛士が本当は何を考えていたのかは、もう誰にも分からないのだ。彼の行為だけが、歴史に残り、それは絶対的に希有のことではあるが、その行為の解釈は何とでも出来たとしても、最早絶対的にその真意を知ることは出来ない。その事実を、ぼくは受け入れている。

 このメールは二〇〇九年三月二二日に書かれたものだ。檜森孝雄が焼身自殺をとげて七年が経過しようとしている。もうじき命日だから、IとKふたりと久しぶりに酒を酌み交わしたのに、彼の思い出よりも彼ら三人のテーマはおのずと奥平剛士に収斂していかざるを得ないのだ。ここには檜森の心にも去来していたはずの苦い思いまで語られているようだ。
 差出人の暉峻てるおかあたるは一九六七年、立命館大学法学部に入学。法学部闘争委員会を経て京都パルチザンのメンバーとなった。ここに出てくる「I君」とは「受取拒否」をした人であり、「K君」とは本のページのコピーとともに手紙を送ってくれた人である。文中に「作家」とか「ノンフィクションライター」とあるのは、きっと私のことであろう。
 奥平という青年は、「今では説明が誰にも、信じられないような二十代の青年の純粋さと猛々しさを合わせ持っていた人」であり、そして自分たちにとっては「常に辿り着けない自己批判の基準として、現に生きている」のだから、私のような「第三者が自己の記憶と感性に踏み込んで来ることが、許せる筈がない」と、暉峻中は胸のうちを吐露している。いま自分と彼らの立場を置き換えてみたら、自分も疑いなくそうしただろうと思う。
 送信時刻は午前零時を少しまわったころ。ふたりと別れて数日経ってもなお心から奥平をめぐる議論のざわめきが去らず、だれかに打ち明けたくて、離れた町で暮らす友人にこのようなメールを書き送ったのだ。彼への思いには、たいへん複雑な感情が入り混じっていることがよくわかる。
「とにかく、その純粋主義的なまでの革命家の在り方。世俗を絶って屹立することを目指すことを、観念的でなく、日常において平然と実行する姿勢。それでいて、母親への愛情と、『家』と言う意識を併存させ、気遣う優しさを持っていた」奥平にたいして、暉峻中は「拒否した覚えがある」と言い、その理由を「そんな『立派な革命家』は困るんだよ。君は良いだろう。しかし、君が、多分僕の息の根を止めてしまうよ。ぼくらは何もそんな立派な社会には多分生きて行けないような気がする」と言っている。
 これは土方をともにするなかで交わされた会話であったのではなかろうか。そして彼は三日で現場から離脱するとき、このように言ったのではなかったか。非常に緊張感の漂う会話である。離脱したことによって、「だから、今、辛うじてぼくは生きても居られるのだろう」と言っているのは、まさにいまベイルート行きを決めている奥平が資金づくりのために土を掘り起こしているなかで、この人物に「一緒に行かないか」ともちかけていたことを生々しく想像させてくれる。
 おれは行く、ただ母親のことが心配だ、奥平家にも迷惑をかけてしまうだろうと、そのようなことを彼はこの友人に語ったのだろう。しかし、「純粋主義的なまでの革命家」として「世俗を絶って屹立すること」をおのれに課し、そして「観念的でなく、日常において平然と実行する姿勢」をもって彼は、離脱した者たちを京都に残し、ひとりで旅立つことを選んだのだ。
 戦死の知らせを聞いた彼らは、宙ぶらりんにされたような気持ちになった。檜森孝雄も同様であったろう。そしてそれから三〇年後、檜森は苛烈な自死を選び、そして檜森の死から七年後、彼らは革命などから遠いところで生きている。あの奥平、安田安之、岡本公三おかもとこうぞうの地平まで、もう行けはしない。「常に辿り着けない自己批判の基準として」一九七二年五月三〇日のあの日から数十年後のこんにちまで、絶えずおのれの実存を揺さぶる光源として奥平はありつづけてきたのである。
 メールをうけとった友人は、翌日の夜になって返信を送った。これも全文引かせてもらう。

 親愛なる先輩へ
 I君やK君は、学年が近かったせいもあって時々は本音で語り合ったこともあった と記憶しています。みんな若々しい活動家でした。もちろん私もですが(笑)
 ここのところ、東大安田講堂や日大の諸君の「物語」が、立て続けにTVなどで放映されたりしていますが、あれは決して「全共闘ルネッサンス」などというものではありません。むしろ私たちは、まさに今、徹底的に「右からの総括」をされているのであり、またそれらの動きに対して、こちら側からのちゃんとした反論をするかどうかが試されているような気がしてなりません。
 それで、結果はどうかというと、やっぱり圧倒的に負けているような感じ……。 このことがとても不快ではあるのですが、そのこと自体は無理もないような気がするのです。私たちが歳を重ねて来た結果としての成熟が問題になっていると思います。
 檜森にしても、奥平さんにしても生きていたなら、もっと違う展開があったろうと思うのですが、彼らは死を厭わないどころか、死によって自らの思想を完結させてしまったのです。一度完結してしまったものは他者の介在を許さないので、もう私たちは彼らとの対話ができない、それゆえに余りにもやるせない気持ちで過ごしてきました。
 ≫モラリストとストイシズム
 そこには大きな違いがあると思います。
 モラリストは別段、左翼だけの専売特許ではありませんが、ストイシズムは左翼一般に通底する独特の思想として、60年~70年代の暗い青春を彩ってきたものでした。
 奥浩平おくこうへい岸上大作きしがみだいさくかんば美智子みちこたかえつ……それらの死人列伝が意味するものは、やっぱりストイシズムです。
 かつて寺山修司が「身を捨つるほどの祖国があるのか?」(マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや=引用者注)と問うたこの国に生まれて、案の定この国がそれほどの価値もないと、ある時点で納得していた私たちと、それでは合点が行かないと思って、あるかないかの仮想の「祖国」に殉じていった人たちが居ると思うと、暗澹たる気持ちになります。
 I君やK君の、一見して外部への頑な過去への態度は、檜森が日比谷で自死した以降の私などとは対照的ですが、それはそれで判るような気がしています。でも、僕らはいつか、今も迫り来る「右からの総括」に対して、誰かがはっきりと対抗しなければならないと思っています。

 この返信を送った早川義輝に、私は何度も会ってもらった。いまは別の人が住んでいる銀閣寺アジトの跡へも案内してもらったが、奥平剛士については直接には知らない。一九六九年に立命館大学に入学した彼は、学年的にも年齢的にもいちばん若く、いま奥平さんが来ていると聞いても、仰ぎみるような存在として近寄りがたかったという。
 立命館で暉峻中の後輩にあたる彼は、「檜森」と呼び捨てにするほど檜森孝雄とは親しい間柄であった。全共闘の一員としてともに過ごし、京大教養部校舎に「亡命」していたのは彼らである。日記集『二十歳の原点』を遺して鉄道自殺した同大学の高野悦子もここに寝泊まりし、投石用の石を彼らに渡していたのである。
 早川義輝は、空港襲撃作戦に参加せず生き残り日本で逮捕された丸岡まるおかおさむが獄中死をとげたあと、彼の妹や仲間とともに分骨された遺灰をベイルートへ運び、墓碑を建てて供養した。妹への遺言にそう書いてあったからである。奥平、安田、檜森の墓碑に丸岡の墓碑が加わり、献花を終えたとき、彼は額ずいたまましばらく立ちあがれず号泣した。重信房子の出獄時も獄舎のまえで仲間たちと彼女を出迎え、彼女の体調が回復するのを待って関西にある丸岡修の墓に案内した。 
 ここで早川義輝が整理しているのは、「モラリスト」であるのか「ストイシズム」であるのか、ということだ。六〇年代の学生運動にたずさわってきた奥浩平から高野悦子まで四人の死者の名前をあげて、彼らの手記を何度も読んできた経験から、いずれも彼らは「ストイシズム」であったと彼は結論し、奥平もその系譜にあるのではないかと言っていることに注目したい。これについては、儒教の影響、わけても陽明学の影響を指摘する奥平の後輩で日本教育史の専門家もいて、私から見ればどちらにもあてはまるように見えるのだけれども、モラルリストもストイシズムも言葉こそ洋の東西に分かれはするが、儒教の精神に包含され得るものなのではあるまいか。
 奥平の家系をたどれば、福沢諭吉が出た豊前国中津藩の城主にいたる。たとえ貧しくともおのれを律し、お家のためなら命をもさしだす武家の頂点に君臨した家系であるから、儒教の教えは彼の家のなかにも流れ込んでいたのではないかと思われる。
 ところで重信房子には、彼らに見られるような、奥平剛士に関する屈託のようなものはあまり感じられない。それまで一緒に生きてきた時間が、彼らのようには「歴史」となっていないからだろうか。彼らのなかには、奥平をあんな中東のゲリラ組織につれて行って死なせてしまった、その原因をつくったのが重信房子だとの思いを抜き去りがたくもつ人も多くいて、そうした彼らの屈折は、彼女が二〇年の刑に服し癌に苦しみながら出獄してきたところで解消しうるものではなかった。
 彼らはこう信じて疑わなかったのだ。リッダ作戦を担ったのは赤軍派などではない。ましてや、あの事件直後、一方的に重信が発した「赤軍声明」の影響から、リッダ作戦は「日本赤軍」が決行したものと誤ってジャーナリズムに喧伝されることになった。作戦を担ったのはそうではなく、京都パルチザンなのだと檜森孝雄が主張していたように、彼らもそう確信していた。現実としては、そうではあったのだ。
 彼らが私に話をしてくれないのは、自己の内面の問題なのである。「常に辿り着けない自己批判の基準として」奥平剛士はいまだに彼らのまえに厳然として存在し、「誰にも何も言わせることの無い存在として」圧倒的な姿で立ちはだかり、「嘘や言い訳」を許さず、「荘厳かつ冷徹な判断を突きつけられ」る存在として、彼らにもまたストイシズムの美徳を強いているのである。
 奥平の呪縛と言ったら、言い過ぎだろうか。


「リッダ! 1972」アーカイヴ

髙山文彦(たかやま・ふみひこ)

1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。

採れたて本!【デビュー#08】
こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』