【連載第3回】リッダ! 1972 髙山文彦


 Mの薫陶をうけて育った彼には、スラムの人びとの意識変革と自分たちの意識変革がぜひとも同時に必要だと、充分すぎるくらいわかっていた。そうだとわかっていても、蔦のようにからまりあい、よじれあい、反発しあう行政、解放同盟、未組織スラム、「物取りと同じじゃないか」と批判される町内互助会グループ、その互助会グループの青年組織でありながら武闘も辞さぬかまえのM率いる前進会、そして自分のいるセツルメント兄弟会。これらがそれぞれの立場から批判をしあい、あるときはセツルメントを追い出しにかかり、そうしたいざこざが絶えないなかで肝腎のスラム改善は放置されたままという、泣くに泣けない惨状の累積。そうしてまたしても迎えた、この火事騒動なのであった。
 彼はさらに書き継ぐ。

 意識は変革されねばならない。だが我々は地域の人々を、一歩たりとも「向上」させようと思ってはならない。彼らが地上に輝く現体制の太陽を、あきらめつつもみれんがましくふり仰いでいる限り、彼らは全く前進することはできぬ。
 どちらをむいた意識変革かが問題なのだ。下から上へ、体制に順応した形で、彼らの意識に衝撃を与えるのか。それとも、上から下へ、逆むきにたたきのめすのか。
 これが慈善事業と革命的セツルメント運動との分岐である。向上か、堕落か。真に社会を変革せんとする我々は後者を選ぶ。(中略)
 だから、地域を変えていく運動が、地域の人々の意識の一面に強烈に存在する体制へのあこがれ、――ここから(東九条から)なんとかして抜け出したいという願望にのっかっているかぎり、それは真に強力なものとなり得ぬのではないか。(中略)
 地域の人々の意識変革を分析するためには、まず、俺自身の内部において、この問題をのりこえねばならぬのであろう。

「下から上へ」か「上から下へ」か、「慈善事業」か「革命的セツルメント運動」か、「向上」か「堕落か」と、くり返し彼は運動の向かうべき方向性について問いかけ、「真に社会を変革せんとする我々は後者を選ぶ」と、ここでもゲバラ革命の原則を彷彿とさせる呼びかけをしているが、さて、彼がここで問題にしているのは、そうした下層へと身ぐるみおりていったところで、自分たちの革命への意志を阻みかねないのが、ほかならぬ革命の核となり得るはずの最下層に位置する「地域の人々」であり、では彼らのなにがそうさせるのかというと、それは「意識の一面に強烈に存在する体制へのあこがれ」であり、「ここから(東九条から)なんとかして抜け出したいという願望」だと断じている。
 しかしそれでも彼は「地域の人々を、一歩たりとも『向上』させようと思ってはならない」という前提に立っているわけだから、まさに君は、あのおぞましいスターリズムの地平に立っているではないかと批判されかねない。「堕落」という言葉を使ったことも、「地域の人々はすばらしい」とする慈善事業派にたいして、君は差別主義者ではないかとのいらぬ誤解と偏見を与えかねないではないか。
 おそらく彼がこのように諧謔的な書きぶりをしたり、つよい言葉を使ったりしたのは、漫然と慈善事業に取り組もうとしながら、スラムに暮らすひとりひとりの名前すらろくにも知らず、火事が起きたことでさえ自分たちの出番がいよいよ来たと思ってしまうような偽善性に我慢ならなかったからだろう。
 戦後復興が朝鮮戦争やベトナム戦争の特需景気に支えられ、それを足掛かりに所得倍増と高度経済成長が終わりを知らぬ濁流のように日本政府と日本人を狂喜させている。賃金は毎月のように跳ねあがり、拡大しつづける公共事業の最底辺の歯車のひとつとして、また壮大な欲望のゴミ捨て場として東九条は存在しているのだが、すでに書いたように住民のなかには高速道路や新幹線の工事で稼ぐ者も多くいて、金をつかんだ者たちは憂いひとつ残さず晴れやかな顔でスラムを捨て、別の土地に移り住んでいった。日本各地の農村で起きていることと同様、東九条でも少子高齢化がすすんでいたのだ。「ここから抜け出したい」という現代史の奈落に住む人びとの切なるその思い。それがむしろ資本家や彼らと結託する権力者たちの抜け目のなさを大いに満足させているのであり、二十歳はたちの青年はそうした資本主義体制の本質を実感として見抜きながら、慈善と偽善、物取り根性、暴力、諦念などが渦巻くスラムのなかで、革命家であろうとする自分はどうすればよいのかと地団太を踏む思いなのである。
 彼が投げ込まれているのは、まさしく政治的闘争の渦中なのであって、政治的人間どものカオスなのであった。
 私はここで埴谷はにやたかを引くことにしよう。政治というものの本質を三つに分けて端的に説明し、かつまたそれがいかに無意味で児戯にひとしいものであるかを指摘するこの文章を、当時の学生ならたいてい読んでいるだろう。

 大別すれば、政治における《真実》には三つの場合がある。その一は、真実でなければならぬ重要事なため、全党派の協力によって、それが真偽不明であれまた虚偽であれ、あちこちから支えられ、はやしたてられて真実へまで強められてしまうもの。その二は、本来どうでもよいこと、例えば、歩きだすのに左足からはじめるべきか、右足からはじめるべきかといったことが、或る党派の支配確立のため、どちらかのみが真実とされてしまうこと。その三は、反対派であるがために、つねに真実の影を追うことによって、架空の真実をついに標的のように、眼前の小さな円い空間に認めてしまうこと。つまり、反対のための真実である。


「政治のなかの死」『幻視のなかの政治』未来社(一九六三年四月三〇日)

 あまたのオルガナイザーが直視を避けたくなるようなこの「三つの真実」をめぐり、各団体やグループはヘゲモニー争いをほんとうの真実からは程遠い架空の「一」と「二」と「三」でぶつけあい、東九条の火事の現場は収集のつかないありさまだったのではなかろうか。中身のつまっていない空虚で醜悪な見せかけの果実をぶつけあっているにすぎないのに、ところがそれこそが人間集団をつき動かす動力の源泉になっており、悲憤ひふん慷慨こうがい、大声で激論したのち、ふと窓ガラスに映る自分の顔が目も鼻も口もないのっぺらぼうであることに気づき驚愕する者は、そう多くはいない。そうした者は、孤独を知り、それに耐えられる人間に限られるからである。
 いま、まさに彼は「三つの真実」の幻影に追いかけられて、だれもいない部室に駆け込み、盗賊のようにノートをもち帰ってきた。もうそこは、部室でもなければ下宿でもない。彼は焼け跡のまんなかに机と椅子を置き、焦げ腐った悪臭にとりまかれ、悲鳴や怒号、女や子どもたちの泣き声を全身にあびながら、燃え尽きて水浸しになった壮大な暗黒の空白地帯から、言葉のつぶてを書きつづける。そうして彼は、若さゆえにあふれてくる生き急ぐような情熱と不安にかられたように、
「幻想をふりすてる決心をした。一つのあきらめである。大人になるとはしょせん、このあきらめのつみあげだ。一つ大人になるたびに一つずつ可能性がへり、一つずつ俺はおとなしくなるのだ」
 と書いて、自分の決心をこのように告げる。

 ヘヘヘッ、何も言うな。可能性の何たるかぐらい俺にもわかる。でも、俺には今の所、こうしか言えぬのだ。かくして俺は九月以来の未練がましい逡巡のあとで、ついにロマンティックな「革命的セツル」から足を洗う決心をした。
 いよいよ本当に一人になって、俺にとって何が価値なのか、何をやりたいのかを考えてみる。そのあと、もし首尾よく俺が革命家になれそうなら、またセツルに帰ってくるかもしれぬ。もし不幸にして、完全に堕落したら、また女の子の顔を見に帰ってくるかもしれぬ。

 これを読む関根委員長以下仲間たちにとっては、閃光が走るようなショッキングな離脱宣言であったろうし、これにつづく以下の文章は、彼らの「善意の雷同」に深い衝撃をもたらしたに違いない。

 意識変革、と、知る、ということは別なのだ。俺は初めて理性の限界を知った。知ってみると、俺という人間は、極めて非理性的であることに気づいた。だが俺はそのギャップを「根性」という言葉でうめようとは思わぬ。
 既に意志を信頼することができなくなったのだ。(傍線本人)

 ここで使われている「理性」とは、単純に「感情」の対義語としての「理性」ではない。つまり「自分は理性の限界を知ったので感情優先に生きる」などと言っているのではない。これは武装闘争をとっくのむかしに放り出し、資本主義体制の枠内で民主主義革命を目指そうと路線転換した日本共産党を「理性」と言い換えているのであろう。だから、わざわざ「理性の限界」に傍線をふって留意を促している。「意志を信頼することができなくなった」の「意志」とは、「党(理性)の意志」を指しているものと私は理解する。
 このままいったら、いつか大きな火事が起きるのはわかりきっていた。なのに、生活環境や自己への意識を変えようとしないスラムの人びとへの苛立ちと悲しみ、それ以上に無力な自分と〝仲良しクラブ〟の域を出ようとしないセツルメントにたいするやるせない怒りと悲しみが、彼をそこへ向かわせている。
 火事はわれわれの「理性」運動が招いた残酷な結果なのである。それは水と砂糖でできた甘い焼き菓子のように見えて、かじりついてみればまるで味もそっけもないにおいつき消しゴムのように、空虚そのものではないか。だとすれば、われわれがこだわってきた「理性」に依拠した運動理論なんて、明らかに人を幸福にするための理論ではない。大地の暮らしの実感から離れ、机の上の宙空に浮かぶ自己満足のそらぞらしい球体だ。人を死なせ、多くの罹災者を出す。それがセツルメント活動の行き着いた過誤の連鎖であり、永久疾患であるのではないか。
「まず、俺自身の内部において、この問題をのりこえねばならぬのであろう」
 彼はそう書いたあと、ついに「完全な共産主義者」になると誓いの言葉を立て、このように文章を締めくくるのである。

 セツルメント兄弟会の内部において打ち破らねばならぬもう一つの神話は、「セツルの人はみんないい人」というやつだ。ほかのみんなはどうかしらないが、俺にはついに、この漠とした壁がやぶれなかった。Kの言う如く、俺は人を理解することができないね。だけど、ざまあみろ、俺のことだって理解できないだろう。ふふ、俺はうぬぼれ屋だ。天性のA(C)エエカッコシーだ。
 まあ、なんでもいいや。セツルのガキ共よ、お嬢さんよ、元気でやりな。
 夜があけた。一九六六年二月一〇日の朝だ。
 夜明けってやつは残酷だ、すべてをのみこんでけろりとしてやがる。


GOOD BY 関根委員長殿


T.Okudaira

 いくらか挑発めいた言葉の躍動は、「理性の限界を知った」者の証しとして彼の内側から意識して押し出されたものであろう。最後に置かれた、「夜明けってやつは残酷だ――」の一行は、この二日間の精神的高揚と葛藤の深さをしのばせて、見事な一行となっている。
 この「卒業論文」は字数にして四七〇〇字。途中まで書いて破ったのか、ノートには欠損部分が二カ所、それぞれ四〇〇字分くらいある。それをあわせれば五五〇〇字。これに冒頭の三四行の詩が加わる。短時間に全身全霊をかけて書いたことがわかる。
 Y氏が私に言いたかったのは、火事そのものよりも、どうしたらこの孤独でばらばらなスラム世界を革命の磁場へと引きずり込むことができるかということに腐心していた彼の姿を、私にもわかってほしいということであったろう。ということは、つまりこのノートに書かれてあることは、とりもなおさずY氏自身の思考するところでもあったということだ。
 なにか偉大な運動がはじまろうとし、たしかにそれは動き出し、ところが日に日に再増殖するバラックの波に瞬く間に呑み込まれて、そしてなにごとも起きなかった。彼らの足音は、見捨てられた路地の片隅を、一陣の風のようにむなしく吹き抜けていくばかり。
「火事が起こる。つぎの日にはバラックが建つ。そうやって東九条は、もとどおりになる」
 と、Y氏は言うのである。
 奥平がセツルメントを離脱してからも、火事はつづいた。行政はかかわりあおうとせず、住民のあいだにはさらに深い頽廃となれあいとあきらめが生まれ、地元グループによる改善運動や奥平が抜けたあとのセツル活動も、バラックの建て替え運動にさえ向かわず、スラムはありのままに放置され、そして、またしても火事が東九条の空を赤々と染める。そうした一連の敗北感を嚙みしめて、彼がなにを思い、なにを享受し、自分の考えとそれとがどう結びついているのか、そうしたことをY氏は私に問いかけたかったのではなかろうか。

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