◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第5回 前編
十五
天明四年(一七八四)十月初め、田沼政権下における勘定奉行の松本伊豆守秀持(いずのかみひでもち)は、幕府廻船御用商の苫屋久兵衛(とまやきゅうべえ)を役宅に呼び出し、蝦夷地(えぞち)をはじめ北方航路の探索方派遣計画を告げ、費用の見積もりを出すよう命じた。
北海の荒海を乗り切るには新たに船を建造する必要があり、寒気の厳しい蝦夷地で探索調査できるのはせいぜい三月から七月いっぱい(新暦四月~八月)までの五ヶ月間となる。勘定方の普請役(ふしんやく)五人とその下役五人に測量役の竿取(さおとり)や雑役夫までを乗せ、八百石積み級の弁財船(べざいぶね)二隻を航行させるには、それぞれ船頭一人と水主(かこ)十五人を乗り組ませなくてはならない。船の建造費、人件費、食費をあわせ、金千三百五十二両、それに加えて米六十石が必要となる。苫屋久兵衛は総経費として金千四百二十二両を算出した。
このたびの蝦夷地調査船派遣の目的は、表向きには松前藩から放任されているオロシャとの交易実態、あいまいな蝦夷地の地理と物産、そして輸出用海産物「俵物(たわらもの)」の産出状況を調べ上げることとされていた。しかし、松本秀持の真の狙いが、本土商人任せとなっている海産物とニシン粕(かす)などの莫大な収益、そして広大といわれる蝦夷島の耕作可能な土地をいずれ松前藩から取り上げ、幕府が一手支配するための調査にほかならないことを苫屋久兵衛は読み取っていた。
蝦夷地派遣船の船頭として苫屋の元手代、堺屋市左衛門(さかいやいちざえもん)を推挙したのは、普請役として蝦夷地に赴くことになった佐藤玄六郎(げんろくろう)だった。
玄六郎は、天明元年(一七八一)にも松本秀持の命を受け、小笠原諸島の探索調査に遣わされていた。幕府御用船に伊豆代官江川家手代の吉川儀右衛門と二十人の水主を同乗させ、八丈島を出帆してから東南へ十四日間太平洋を航行し、ようやく鳥島という無人島に到った。玄六郎の任務は伊豆七島のはるか南にあるという小笠原八十余島の探索調査であり、再び東南の海域を目指して鳥島を出帆したものの、折からの逆風に遭い、四国土佐まで吹き流されることになった。結局、玄六郎は小笠原諸島に到達できず、江戸へ帰還するしかなかった。
その天明元年、幕府は八丈島の困窮によって金百五十両を島役所に貸し出していた。松本秀持による計画は、何よりも慢性的な食糧不足に悩む八丈島などの島民に島の特産物をもって米穀の買い入れ資金を作らせ、幕府の出費をおさえることにあった。松本は、江戸に幕府専売の荷物会所を開設し、八丈島特産の絹織物「黄八丈(きはちじょう)」をそこに集荷させ、越後屋や大丸などの呉服商を集めて入札で売り渡す、また、八丈島に自生する黄楊(つげ)を櫛材の問屋に下げ渡すなど、幕府勘定方が島の特産物を一手におさめ専売することによって島の食糧資金をとどこおりなく調達しようと考えた。
幕府財政が行き詰まり、それを打開するために新たな手を打つしかない窮地に松本秀持は追い込まれていた。蝦夷地の豊富な物産と広大な土地は、苦境を脱する可能性を秘めていた。苫屋久兵衛としては、幕府勘定方の負担を少しでも軽くし、充分な成果をもたらすよう尽力しなくてはならなかった。久兵衛は思案をめぐらせ、見積書を出す時に次の方策を松本秀持へ提案することにした。