小説は美味しい。とっておきの料理シーンだけ集めました。
名だたる傑作を世に残した小説家は、言葉を通じて料理を生み出すシェフでもあり、食に並々ならぬ関心を持つ美食家でもありました。そんな小説と料理にまつわるエピソードを、作中の名場面とともに紹介!
私たちの日々の生活に彩りを添える食事。
TVのグルメレポーターが食レポに様々な表現を用いるように、小説を書く作家たちにとっても美食の表現は「文字だけで料理をいかに美味しそうに描き、読者の空腹を誘うことができるか」といった実力を試されるものでもあります。味、匂い、温度など、形に残らないものをいかに文字だけで読者にイメージさせるか……そのように美食表現を追及した作家たち自身も、グルメとしてのエピソードを数多く残しているのです。
今回は、読むだけで食欲を刺激される作品について、作者が持つ〈食〉にまつわるエピソードとともに紹介します!
芥川龍之介はお気に入りのお店にアイデアを売り込むほどのスイーツ男子だった
私生活を題材にした随筆「現代十作家の生活振り」で、少食であることを明かしている芥川龍之介。そのためか、芥川の作品に美味しそうな料理の描写はあまり見られません。
そんな芥川ですが、かつて映画化もされた短編小説「南京の基督」において、中華料理を主人公の夢の中という幻想的な場面で描いています。
金花は紫檀の椅子に坐つて、卓の上に並んでゐる、さまざまな料理に箸はしをつけてゐた。燕の巣、鮫の鰭、蒸した卵、燻した鯉、豚の丸煮、海参の羹――料理はいくら数へても、到底数へ尽されなかつた。
[中略]
それにも関らず卓の上には、食器が一つからになると、忽ち何処からか新しい料理が、暖な香気を漲らせて、彼女の眼の前へ運ばれて来た。と思ふと又箸をつけない内に、丸焼きの雉なぞが羽搏きをして紹興酒の瓶を倒しながら、部屋の天井へばたばたと、舞ひ上つてしまふ事もあつた。「南京の基督」より
皿が空になっても料理が次から次に運ばれ、丸焼きの鶏が羽ばたいていく……これら数え切れないほどの料理を目の前にした主人公の金花は、キリストをほうふつとさせる男から「それを食べると病気がよくなる」と教えられます。
ずらりと並んだ豪華絢爛な料理から湯気が立っている描写は、まさに「美食の殿堂」とでもいうべき壮麗さ。さらにこの美食の夢の中に宗教的なモチーフが加わることにより、ただの「食」の場面にとどまらない、深遠な印象を読者に与えています。
さて、プライベートの食生活では目立った好き嫌いもなく、基本的に酒もあまり飲まない芥川でしたが、そんな彼が唯一強いこだわりを見せたのは、なんと「甘いもの」でした。お気に入りのくず餅やおしるこを紹介する雑誌連載まで持っていた芥川は、まさに現在でいう「スイーツ男子」だったのです。
お気に入りのお店は数多くあったようですが、今も上野広小路に店を構える和菓子店「うさぎや」の最中は特に好んでいたのか、書簡にも度々店名を出すほどでした。さらに芥川が「うさぎや」の2代目店主で俳人でもあった谷口喜作に新作和菓子のアイデアを図入りで送った書簡も見つかっています。
ただ好んで食べるのにとどまらず、理想のお菓子のアイデアを贔屓にしていた店に送るほど、芥川は甘いものに目がなかったのです。
こだわりの食材で手早く料理。村上春樹作品の主人公が見せる「料理男子」の本懐
小説中に料理に関する描写が多く登場することでも知られる村上春樹。暮らしの要領に長けた語り手の「僕」が、ちゃっちゃと料理の腕をふるう場面が多いことが大きな特徴です。
「ぱりっとした調教済みのレタスとスモーク・サーモンと剃刀の刃のように薄く切って氷水でさらした玉葱とホースラディッシュ・マスタードを使ってサンドイッチを作る。紀ノ国屋のバター・フレンチがスモーク・サーモンのサンドイッチにはよくあうんだ。うまくいくと神戸のデリカデッセン・サンドイッチ・スタンドのスモーク・サーモン・サンドイッチに近い味になる。」
『ダンス・ダンス・ダンス』より
『ダンス・ダンス・ダンス』では、主人公の「僕」が東京まで送っていくことになった少女、ユキとの電話でスモーク・サーモンのサンドイッチの作り方を語っています。手作りサンドイッチでもデリカデッセン・サンドイッチ・スタンドに近い味になると自信たっぷりに話す「僕」のことを、ユキは「馬鹿みたい」と一蹴します。
そんなユキが「ケンタッキー・フライドチキンやらマクドナルドやら」ジャンク・フード中心の食生活を送っていると知った「僕」は、「食生活としてはあまりにひどすぎる」と呆れています。「僕」は自分が料理をするぶん、食事を適当に済ませようとするユキに思うところがあったのでしょう。
それにしても、村上作品では、なぜ料理の描写がここまでリアルなのでしょうか。それは、春樹自身がジャズ喫茶の厨房に立っていたという経歴を持っていたからに他なりません。お酒に合うおつまみを手早く作ることを求められていた作家自身の経験が、こだわりの食材で美味しい料理をサッと作るという主人公のキャラクター造形にも生かされているのかもしれません。
このような村上作品に登場する料理描写が読者からの支持を集めた結果、作中の料理を再現したレシピ集もシリーズで出版されています。それもまた、手軽に作れる魅力的な料理が数々登場する村上作品だからこそのことですね。
向田邦子がステーキに込めた「食」と「官能」
料理を食べることも作ることも好きだった向田邦子。向田が脚本を担当したドラマ作品には、家族で食卓を囲むシーンが度々登場しています。「食べているもので登場人物たちのキャラクターが分かる」と考えていた向田は、その献立も全て自分で考えていたほどでした。
そんな向田による短編小説、「三枚肉」では2度ある食事シーンが重要な意味を持って綴られています。それは主人公の半沢が部下の波津子と夕食を食べるシーン、そして物語終盤で半沢が妻の幹子、共通の友人である多門と共に三枚肉を食べるシーンです。
「もういいんです。済んだことですから」
と笑って、ステーキの焼き具合をたずねたボーイに
「レア」
と注文した。
「一番生みたいなの、レアって言うんですよね」
「そうだよ。血の滴るようなやつを食べて、明日から元気出さなくちゃ」「三枚肉」より
仕事のミスが続いた波津子から事情を聞こうと食事に誘った半沢は、仕事のミスが失恋のショックによるものだと知ります。この食事の場面の後、2人は魔が差したように関係を持ってしまうのでした。半沢の「血の滴るようなやつを食べて」という台詞は、2人のこの後の関係を暗喩しているようにも読み取れます。
それから再度波津子から誘いを受けた半沢は過ちを悔い、部署を異動させることで関係を終わりにします。
一方で半沢は、妻の幹子と友人の多門との間にかつて関係があったことを疑います。そして多門が半沢の自宅を訪れた夜、夕食を食べながら半沢は「なにもないおだやかな、黙々と草を食むような毎日の暮らしが、したたかな肉と脂の層になってゆく」と、隠し事と穏やかな暮らしが重なり合う様子を三枚肉にたとえるのでした。
幹子が湯気の立つ深鉢を持って入ってきた。
大振りに切った肉と大根の煮つけである。
(中略)
安いところだというが、時間をかけて煮込んだせいかやわらかく味もいい。「三枚肉」より
男女の性愛の絡みあいを描いたこの「三枚肉」というタイトルにも、「半沢・波津子・幹子」と「半沢・幹子・多門」という作中の2つの三角関係が重ねあわされています。このように食べ物を印象的なアイテムとして巧みに使用できたのも、登場人物と食事の関係にこだわりを持っていた向田だったからこそでしょう。
「季節感を出す」ための料理描写。食通で知られる池波正太郎の巧みな表現とは。
『鬼平犯科帳』や『剣客商売』が度々映像化され、時代を超えて愛され続けている歴史小説の大家である池波正太郎は、美食家としても有名です。
「季節感を出すため」という理由から、池波は時代小説に料理を登場させていました。今のように1年を通して食材を手にいれられなかった江戸時代、人々は旬の素材をその時期にしか口にできませんでした。そこで料理を登場させることにより、読者に作中の季節をイメージさせることを実現させていたのです。
池波の代表作の1つ、『鬼平犯科帳』は江戸時代に実在した人物である長谷川平蔵が世にはびこる悪を取り締まる物語です。この作品では平蔵がひいきにしている軍鶏鍋屋、五鉄が重要な舞台として登場しています。
そんな『鬼平犯科帳』の「明神の次郎吉」というエピソードには、その五鉄で暑い夏に軍鶏鍋を食べる場面があります。
つぎに、軍鶏の臓物の鍋が出た。
新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった。『鬼平犯科帳』 「明神の次郎吉」より
夏に鍋を食べることは一見ミスマッチにも思えますが、新鮮な軍鶏の臓物を初夏に出回る牛蒡と煮込んだ鍋は、新鮮な食材を季節感と共に味わうことを可能にしています。その様子を「ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べる」と表現することで、暑いさなかに汗をかきながら美味しいものを食べる熱が伝わってくるのです。
料理そのものはもちろん、食べる人の様子を併せて表現する池波の筆力は、まさしく「読むだけで料理が食べたくなる」といえますね。
思い出のホットケーキを作品にも登場させた三島由紀夫
文学界と政治運動に大きな影響を起こした三島由紀夫は、自らの食の記憶を作品に加えています。
それが表れているのは、遺作にもなった『豊饒の海』第四巻の「天人五衰」。この作品は輪廻転生と夢がテーマであるため、20歳で死ぬ主人公が次の巻の主人公に転生していく構成をとっています。全編にわたって主人公の行く末を傍観してきたキャラクター、本多の思い出の料理がこの巻では幼少時の美しい思い出のなかで描かれています。
「一寸お待ち。おいしいものを製って上げるから」
そして母は、小ぶりのフライパンを火鉢にかけ、新聞紙に浸した油で隅々まで潤した末、彼の帰宅を待って作っていたらしいホット・ケーキの白い粒立った乳液を、はや煮立っている油の上へ、巧みな丸を描いて注いだ。
本多が夢にたびたび想起するのは、そのときのホット・ケーキの忘れられぬ旨さである。雪の中をかえってきて、炬燵にあたたまりながら喰べたその蜜とバターが融け込んだ美味である。生涯本多はあんな美味しいものを喰べた記憶がない。「豊饒の海」より
マルセル・プルーストの小説、『失われた時を求めて』でも主人公が紅茶に浸したマドレーヌの香りで幼少時の思い出が蘇るという有名な場面がありますが、三島は「忘れられないホットケーキ」を描くことによって過去の記憶を小説の中に蘇らせています。年老いて楽しみも見失ってしまった本多の心を癒すことができるのは、夢の中に現れる、かつて母親がホットケーキを焼いてくれた思い出だけなのです。
さらに興味深いのは、三島自身にとってもホットケーキが思い出の一品である点です。三島は誕生日に母親の作ったホットケーキを食べたことについて、「御心づくしのホット・ケーキの美味しさ、忘れがたく候」と両親に宛てた書簡で書いています。
文学の才能を見出してくれた母親に三島は生涯にわたる感謝を捧げており、いつも三島が書き上げた原稿の最初の読者となっていたのはその母親でした。それほどまで特別な存在だった母親が、戦時中にもかかわらず贅沢品だったホットケーキを作ってくれた出来事は三島には大きな感動を与えたのです。
まとめ
文章の上で再現された料理が、読者の味覚に訴えてくる要素を持つだけでなく、小説の物語を展開させる重要な「仕掛け」にもなる……作家は時として、一流のシェフにもなるのです。だからこそ、作中の料理を再現して登場人物が口にした料理を食べて追体験しようとするような読者まで現れるのでしょう。
あなたもぜひ、小説に見られる豊かな料理描写を「味わって」みてはいかがでしょうか。
初出:P+D MAGAZINE(2016/08/26)