【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の20回目。金本位制を確立し国際経済社会へ参入した「松方正義」について解説します。
第20回
第4・6代内閣総理大臣
松方正義
1835(天保6)~1924年(大正13)
Data 松方正義
生没年 1835年(天保6)2月25日~1924年(大正13)7月2日
総理任期 1891年(明治24)5月6日~92年(明治25)8月8日/1896年(明治29)9月18日~98年(明治31)1月12日
通算日数 943日
出生地 鹿児島市下荒田(旧薩摩国鹿児島城下下荒田)
出身校 造士館
歴任大臣 大蔵大臣
墓 所 東京都港区の青山霊園
松方正義はどんな政治家か
1. 「松方財政」と呼ばれた経済手腕
明治新政府創立早々から、松方正義は財政業務に従事し続けました。1871年(明治4)大蔵省に入省し、10年後には大蔵卿になっています。
1885年(明治18)、第1次伊藤博文内閣で初代の大蔵大臣に就任すると、続く黒田内閣、第1次山縣有朋内閣でも蔵相を務めます。第4代総理大臣になった際にも、みずから蔵相を兼務しています。こうして松方は通算7期も蔵相を務めたのです。金本位制確立に代表される彼の経済政策は「松方財政」と呼ばれ、その経済手腕には定評がありました。
2. 指導力には不安も
先に総理になった黒田清隆に比べ、5歳年上にもかかわらず松方は格下に見られていました。人の意見に動かされやすいことから、「後入斎」と呼ばれています。
このため松方政権は迷走することが多く、明治天皇は松方の指導力を不安視していました。第2次松方内閣は混迷が深刻化し、異例の天皇の辞任勧告で退陣しています。
3. 金本位制を確立
金本位制の確立は西欧諸国と同じ土俵で貿易を行なうために、ぜひとも必要なことでした。このままでは国の財政が破綻するという、強い危機感が松方にはあったのです。
当時は政界・財界をはじめ福沢諭吉など学者たちも金本位制に反対を唱えていました。松方はこうした反対論者をねばり強く説得して、ついに実現しています。松方が単なる経済通ではない、骨太い政治家であったことがわかります。
松方正義の名言
我に奇策あるにあらず、我はむしろ奇策を忌む。
ただ正直あるのみ、正直にこれを行えば
人民必ずこれを信ぜん。
――インフレ抑制を掲げた松方が、緊縮財政を実行する際、奇策を取らず正直に政策を遂行すると明言
松方正義の人間力
♦着実な政策実行力
諸事堅実な松方正義は、政策遂行にあたってもその性格を示した。経済官僚、大蔵大臣時代から経済政策に大きな自信を持っていたが、実施する際には、大局を見すえつつ着実に実行した。松方の基本的な方針は、緊縮政策による財政の健全化だったが、政策実行の過程では対立政党や政治家に妥協(だ きょう)することもあった。「政治的利害における調整力に劣る」との評価も受けたが、財政家の立場を優先したためである。
一方、日清戦争・日露戦争の有事の際には主戦論を唱え、戦時財政を主導するなど、単に堅実なだけではない骨太さも見せている。天皇の信頼を背景に、つねに財政政策面で政府に方向を示し続け、「松方財政」の評価を不動のものにした。
(「池上彰と学ぶ日本の総理15」より)
初出:P+D MAGAZINE(2017/11/24)