【著者インタビュー】内藤啓子『枕詞はサッちゃん 照れやな詩人、父・阪田寛夫の人生』
誰もが知っている童謡「サッちゃん」の作者、阪田寛夫の人生を娘の視点で綴るユーモラスなエッセイ。その著者にインタビューしました!
【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】
誰もが知る童謡の作者は家ではハチャメチャだった!娘が綴る「変父」エッセイ
『枕詞はサッちゃん 照れやな詩人、父・阪田寛夫の人生』
新潮社 1600円+税
装丁/新潮社装幀室
装画/100%ORANGE
内藤啓子
●ないとう・けいこ 1952年大阪市生まれ。東京女子大学文理学部日本文学科卒業後、米国留学や父の秘書を経て、03年より元宝塚トップスター・大浦みずきこと妹・なつめの個人事務所取締役に。著書は他に09年に肺癌で早世した妹の評伝『赤毛のなっちゅん』。163㌢、B型。「うちでは私が一番小さく、大正生まれの母も164㌢あった。男性陣も背が高く、妹の色白と赤毛は母方の祖父に、父は隠居後は俳句を嗜んだ曽祖父に、山っ気まで似たみたいです」。
父の詩は弱い自分を解放できているのかどこか淋しげで夕暮れの匂いがします
父は芥川賞作家で詩人の阪田寛夫。妹は元「宝塚のアステア」こと大浦みずき。父方の大叔父・大中寅二や従伯父・大中恩は共に作曲家で、同じ団地で育った阿川佐和子氏や、庄野潤三、三浦朱門といった父の旧友も含め、著者・内藤啓子氏の周辺は実に多士済々だ。
それは見合いの席で父の職業を問われた時のこと。代表作『土の器』を『砂の器』と混同され、やむなく♪サッちゃんはね〜と歌いだすと、相手は大抵〈ああ、あの〉と納得してくれた。
よってタイトルも『枕詞はサッちゃん』 。作家の傍ら、『おなかのへるうた』『ねこふんじゃった』等、数々の童謡を手がけた父の死から12年、内藤氏はその生涯を叙情より叙事に徹し、ユーモラスに描きながら、改めて思う。〈家族の恥部も全て創作のネタにするひねくれ者に、なぜあんなに優しい詩が書けたのだろう〉と。
*
あとがきに〈阪田寛夫とその作品に興味をお持ちくだされば幸いです〉とあるので、いくつか読んでみた。芥川賞受賞作『土の器』や『背教』等、肉親をモデルにした人間模様を滑稽かつ坦々と描き、その根底には常にキリスト教があった。
「本は全く売れませんでしたけどね。『オジサンは詩だけ書いていればいいのに』って、よく母や妹と話していたくらいです(笑い)」
阪田家では父をオジサン、母・
「俺が再婚した時に新しい家族に悪いから、今からそう呼ぶ練習しておけって(苦笑)。喧嘩の原因は父の浮気とか、いろいろでしたが、元々お嬢様育ちの母は父が堅気じゃないことがとにかく不満。〈今までの××年返せ!〉が口癖でした。
そういうことも全部小説に書いちゃうのが、〈屍肉にたかるハイエナ〉と伯父に呼ばれたうちのオジサン。たぶん父の数少ない読者は我が家の家系や内情に相当お詳しいはずです(笑い)」
元々阪田家は広島で海運業を営んでいたが、曽祖父恒四郎が大阪で現在のサカタインクスを創業。祖父・素夫は隣人愛を社是とするほど熱心なクリスチャンで、同志社出身のオルガニスト大中京と結婚。音楽とキリスト教と祖母の焼くアップルパイが香る〈万事西洋式〉な環境で、寛夫は育つ。
その後は帝塚山学院小学部、旧制住吉中学、高知高校へと進み、昭和19年応召。復員後は東京帝大国史学科に学び、第十五次『新思潮』の同人・三浦朱門は高校の寮で同室、後に朝日放送で上司となる庄野潤三は小中学校の先輩でもあった。
一方吉田家も戦前は絹織業で財を成し、祖父は自ら日曜学校を開くほど熱心な信者だったが、3男2女を戦死や結核で失い、両家の明暗は分かれた。軍に徴収された工場も結局戻らず、戦後は新興宗教に走った舅のことを、寛夫は何度となく作品に書いている。
「自罰傾向が強く、〈おれはダメだ〉が口癖だった父は、ずっと自分が生き残ったことに罪悪感があったのだと思う。特に母が倒れてからは介護を頑張り過ぎて鬱病になり、母より先に亡くなるのですが、その父が母に言うんです。〈オバサンがいなくなったら、戦争で死んだ兄さんたちのことを思い出してくれるもんがなくなる〉と。自称不良信者の父が晩年母と教会に通い始めたのは浮気の罪滅ぼしもあったと思う。ただ父は吉田家のことも、母を通じて背負っていた気がして」
スターだった妹は父を尊敬していた
〈感激もなしに着せられたキリスト教という肉のシャツ〉と終生対峙した寛夫は、朝日放送のプロデューサーとして活躍する傍ら創作を続け、従兄・大中恩作曲の『サッちゃん』の詩や短篇小説、ドラマ『ケンチとすみれ』や『あひるの学校』の脚本など、特に退社後は家族のために何でも書いた。そんな父の仕事をふり返り、その根底に宿る物悲しさや優しさを、〈啓はいつも楽しいことおかしいことを見つけるのがうまい〉と評された娘は笑い話を交えつつ、丁寧に汲みとろうとする。
「父の作品はどこか淋しげで夕暮れの匂いがするんです。特に詩では弱い自分を解放できているというか。
妹は私と違って、父と仲が良いほうで、父を尊敬もしていたようです。父が妹の話を書く度、〈今度書いたらぶっ殺す〉と言いつつ、〈人に感動を与えるには、これくらい血を流さなきゃ、いや流してみたい〉と彼女もエッセイで書いていた。妹が宝塚に入ったのも小学生の時からの宝塚ファンだった父の影響ですし、後年〈娘の七光〉で宝塚絡みの仕事を父が頂戴したときも、父は照れながらも喜んでいたように思います」
一家は寛夫の東京転勤後、
「特に執筆中の弘之さんは怖くて、阿川さんちの前は静かに通らないと怒られるというのが団地の申し送り事項でした。佐和子ちゃんはよく一緒にうちでご飯を食べていた仲です」
♪バナナを半分しか〜食べられず、『びりの きもち』もよくわかる寛夫の作家性に言及した三浦氏の弔事がとてもいい。〈君は臆病な、それでも無視することができなくて、遠くからキリストを眺めている人だった〉〈そのような中で、君は文学という視点を発見した。そこからは美しい自然と、そこの中で生きる健気で、愛すべき人の姿をかいま見ることができた。君が文学を天職と選んだのは、そのためであろう〉……。
「父は本当に人に恵まれていて、三浦さんは父が晩年『自分は単にボケただけなのに娘に鉄格子に入れられた』と周囲に吹聴した時も、『あいつは想像力が旺盛だから』と慰めて下さって。そんな〈変父〉や母や妹も今では亡くなり、大変だけど面白かった、面白いけれど大変だったというのが、私の率直な感想なんです」
枕詞はそれこそ、「大変だけど」。だからこそかけがえのない昭和の家族に、今、私たちが感じることは少なくない。
□●構成/橋本紀子
●撮影/国府田利光
(週刊ポスト 2018年1.26号より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/07/11)