ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第八回 山谷最大の名物食堂
大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、東京三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた労働者たちが住み着いていたかつての山谷には、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。
ヤマ王は当時、山谷で最大規模の食堂「あさひ食堂」を経営していた。毎朝現場へ向かう日雇い労働者たちがそこに集まり、店は繁盛していた。東京オリンピックが2年後に迫った時には改築され、新たなスタートを切ることになったのだが……。
1日で7000食
今でこそ山谷に「食堂」と呼ばれる飲食店はほとんどみられないが、東京オリンピックが開催された昭和30年代後半には、現場へ向かう日雇い労働者たちの胃袋を満たす食堂がいくつも建ち並んでいた。
山谷の朝は早い。
労働者たちは午前5時には起床し、簡易宿泊施設から街にどっと溢れる。食堂へ、立ち売りのおにぎり屋へ、そして城北労働・福祉センターや公共職業安定所上野玉姫労働出張所へとぞろぞろ歩いていく。午前6時半から職業紹介が始まるためだ。あるいは、「手配師」と呼ばれる職業斡旋業者を介してそれぞれの建設現場へ分散していった。朝の賑わいとは打って変わって、昼の山谷は人気もなく閑散としている。仕事が終わる夕方になると、現場から戻ってきた労働者たちの一杯で、街はまた賑わいを取り戻す。
そんな労働者たちに溢れた山谷の街で、「あさひ食堂」と呼ばれる食堂は山谷で最大規模を誇っていた。正式名称は「株式会社浅草宿泊所会館 食堂部あさひ食堂」で、経営者は「ヤマ王」こと帰山仁之助だ。泪橋交差点に近く、吉野通り(旧都電通り)沿いに建っていた。東京オリンピックの頃までは朝晩それぞれ3500食、1日に計7000食も出ていたという。
現在にたとえて言うならば、マンモス大学として知られる中央大学多摩キャンパスの食堂に匹敵する量である。同大には「ヒルトップ」と呼ばれる4階建ての建物があり、10店舗の飲食店が入居している。総席数は3243席で、1日の利用者数は約8500人。しかし、あさひ食堂の席数はわずか125席だから、その回転率がどれほど速いかがお分かり頂けるだろうか。
営業時間は午前5時〜8時までの3時間、夕方が午後4時半から8時までの3時間半の計6時間半だ。食券売り場は2カ所あったので、朝夕を合わせた営業時間のうちに7000食を売りさばくとすれば、食券売り場1カ所につき、1分当たり平均9人に売っている計算になる。代金を受け取り、食券と釣り銭を渡すのにかかる時間は平均7秒である。
仁之助の息子、哲男さん(68)は、あさひ食堂で支配人を務めていた当時をこう振り返る。
「忙しさがピークの時は1分間に食券を10人以上に売りさばいていました。お釣りを素早く渡さないといけないから、腱鞘炎になっていましたね。一方の日雇い労働者たちは皆、現場へ行くために急いでいるから、『早く食べろ!』と後ろからせっついていました」