【新連載 第1回】公儀厠番 -うんこ侍後始末- 房州、鑓の品地武之進久尚 嘉門院彷楠・作

「同輩は武之進のことを、うんこ侍と呼ぶ。これが愛称であるのか蔑称であるのか。彼自身も自嘲をこめて、うんこ侍と自称していた。」城中に厠があれば、必ずや、これを差配するお役目があるというもの。そして、その者たちは、お庭番よりも、城内奥深くに立ち入っていたであろう……。これは、この忘れられた人々の物語。

第一部  鑓術 蹲虎片手裏無双そうじゅつ そんこかたてうらむそう

公儀厠番こうぎかわやばん、ここに在り! 城内の汚穢を差配するだけにあらず……!?

 江戸城中奥深く、寝所に続く大廊下を行灯を掲げた奥女中がいそいそと先を急ぎ、その後から大仰な身振りで、上等そうな白絹の肌着を着た、色白にして面長、妙に目鼻だちが整っている殿様然とした壮年の男性が続く。
 廊下の端の厠の引き戸を開けると、にわかに新鮮な杉の香りが鼻孔を突く。これは匂い消しのために杉の小枝を山のように切り出して、厠の中に敷きつめたものである。
 廊下に女中を残して、中に入ると、しばし放尿の音がしたと思ったら、一つ、大きく放屁した。
 そして「誰か、あるか」と、厠の外に向かって一声、押しつぶしたが、よく通る声を掛けた。
 返事はない。しかし、暗闇に敷きつめられた玉砂利を、踏みつぶすような、微かな音が聴こえる。
「何か、話はあるか」
 と、再び厠の中から声がする。中からご下問がないかぎり、外の影は声を出さないのがしきたりだ。
「はッ」と今度は、はっきりと返事があった。「小楯藩御城下おだてはんごじょうかで数日前に大火あり、数百戸焼失、人命の被災も数えきれず。折からの北風に煽られて燃え広がったものと思われます。幸いの風向きで、火は海岸に至り、鎮火したとのこと」
「うむ。さようか。小楯藩城主、麹谷は在府中だろう。見舞いの一つも送るべきか」
「いや、それは」と声は言いよどんだ。大火の報告が日ならずして江戸表に知れたと分かったら、城下に知らせを送った者がいることが、露顕してしまう。
 長年、身分を隠し、草として藩に暮らしいる者の命が危うくなる。草とは公儀から要請されて各藩に潜入し、世代を超えて見聞きしたことを江戸表に知らせる隠密の別名だ。もしも、彼らの存在が明るみに出たら、命が危うくなり、せっかく長年に渡り潜伏した意味がなくなってしまう。
 そこまで言わなくても、上様に置かれては、お察しのご様子。
「そうだな。まあ、聞かなかったことにしておくか。他に何か」
「はっ。恐れながら、おみなえしさまにおかれましてはご懐妊かと」
 大奥のお局衆が名前で呼ばれることはない。それぞれに与えられた居住の部屋に掲げられている、いわば屋号で呼ばれるのであって、多くは季節季節の花の名前からとられている。
「ほう、おみなえしがのう。あれの父御は五月蠅そうだのう」
 これには、暗がりの影は答えない。役目柄、日毎、厠の傍らに侍り、城内のお側女衆の月の触りを知る立場にある。大奥の誰それに懐妊の兆しが、ということも、本人よりも早く知ることになる。
 城内深く、深夜の厠の傍らに控える彼は、公儀厠番。城内の汚穢を差配する。
 俗に金肥とも呼ばれる排泄物は農家に引き取られて肥料となる。そのときに多少の値がつく。
 上等なものを摂取している武家の汚穢は高級品で、それなりに高価なものだ。まして江戸城内の厠から収穫したとしたら。全国を支配し、年貢を取り立て消費しているのみの幕府が唯一、生産して稼ぎをだしているのが、この金肥中の金肥となる。
 この商いの差配全般を一手に引き受けるが、公儀厠番。
 通常、日中は城内の各厠から金肥をくみ取る、少なくはない人数の職人たちを城内、奥深くに案内し、くみ取りの面倒をみる。それから、最も重要な仕事である、肥え桶の数を数えて帳面に記載していく。職人が天秤棒の前後に肥え桶を下げて屋敷内をあとに、内堀の端から用意の伝馬船に肥え桶を移し、外堀を通って、江戸府内に張りめぐらされた運河により房総方面、および近隣の田畑に金肥を輸送する。これが表向きの仕事だ。
 その一方、今も見てきたように、深夜になると、大奥の厠の傍ら、暗闇に侍る。大奥周辺の地理に詳しいことから、このお役目がある。
 俗に公儀御庭番と呼ばれる忍び衆が、表向きは文字通り庭園の植生を管理し、その性格上、裏木戸から庭先に入り、城内の役職につく侍衆と直に話せる立場にあるのに比べ、厠番はさらに城内奥深く、直接密接に内々の話ができる立場を利用して、歴代の将軍職にも全国の出来事を語り伝える役目も担っていた。
 厠番は御庭番と大奥との取り次ぎが、その役目だ。
 この夜の話題は、いささか深刻なものだった。ご政道に著しく影響がでるのがお局衆の懐妊だ。すぐさまお世継ぎは、誰それとかまびすしいことになる。場合によっては、月が満たぬうちに弑奉ることも。
「まあ、よい。おみなえしのことは、いずれ沙汰いたすやも知れぬ」
 と、言い置いて、厠を後にする気配があった。

 暗がりの影は、すっと立ち上がり、一つ二つ裁っ着け袴をはたいて、踵を返した。小袖姿に、六尺棒を携えている。この樫の杖は六尺とはいえ、各々の伸長に合わせて切断してあり、柿渋を塗って補強してある。城内にあっては身に寸鉄も帯びずが決まり。杖はせめてもの防具だ。
 満天に星がきらめき、天の川が盛大に流れている。暗い森の奥深くで鳴いているのはコノハズクか。吹き上げの坂を下り、右の折れると半蔵門。その傍らに、小屋というには立派な番所があり、高張提灯が二つ。公儀御庭番の詰め所である。
 その番所の明かりの中に一人、これも小袖姿に裁っ着け袴の初老の男が立っている。
「品地氏。お役目ご苦労」
 と声をかける。
 言われたほうは、歩み寄り、「村井さん。ご苦労さまは、お互いさま」
 と、気軽に返答する。
「何か、奥に変わりは」
「なに、大したことはないが、おみなえしのお局様にはご懐妊かと」
「ほう。左様か、はて、面倒なことにならねばよいが」
「なに、我々の知るところではないのは、何時もの通り。別命があれば、これも何時もの通り」と品地と言われた壮年の男は、これも気軽に答える。
 これが、公儀厠番勘定方、品地武之進久尚、裏の仕事姿であった。譜代大名家の家臣として江戸詰を申し渡され、さらに代々、受け継がれた仕事である城内の厠番を仰せつかっている。
 最前の小楯藩御城下大火の知らせは、この御庭番、村井浩平から伝えられたものだ。小楯藩に潜伏している隠密は村井配下のものということになる。
 木戸御免の御庭番は庭先まで、そこから先の寝所近くまでは厠番の役目。御庭番と大奥の取り次ぎ役である。武之進は、大奥の話を彼に伝える。いわば持ちつ持たれつだ。
 同輩は武之進のことを、うんこ侍と呼ぶ。これが愛称であるのか蔑称であるのか。彼自身も自嘲をこめて、うんこ侍と自称していた。

<続く>

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