島田雅彦が語る“世界各地に「路地」を探し旅した“中上健次
中上健次と島田雅彦氏は、1980年代の”空気”を共有した作家同士でした。早世した中上健次が、もし今の時代にいて語りたかったことがあるとしたら…? “同時代の空気”を共有した島田氏の作品の中に、それを垣間見ることができるのかも知れません。島田雅彦氏が熱く語ります。
芥川賞選考委員を務め、芥川賞ノミネート6回という最多タイ記録も持つ、現代を代表する作家・島田雅彦。
彼の文壇デビュー作『優しいサヨクのための嬉遊曲』を、文芸誌「海燕」に載せた名物編集者・寺田博氏が、かつて文芸誌「文藝」の編集者時代に、中上健次を文壇に送り出す役割もしていました。
同じ編集者によって、文壇へのデビューを果たした、不思議な縁を持つ中上健次と島田雅彦。『優しいサヨクの…』の出版前に、偶然、中上が島田雅彦の原稿に目を通すこととなり、それ以後、文壇の先輩・後輩として、中上と島田の濃密な関係が築かれていきました。
この辺りの事情は、2016年6月に開催された「中上健次生誕70周年トークショー」で、島田氏自ら、詳細に語っているので、是非一読ください。
https://shosetsu-maru.com/essay/nakagami-event-report/
今回は、中上文学の根底に流れる「路地」の存在と、宅地造成等で消滅した故郷新宮の「路地」から、その「路地」に替わりゆく場所を求めて世界中を放浪した“中上健次の旅”について、島田氏が熱く語ります。
ニューヨークでの中上(撮影日不明)
中上文学の神髄を語る(4)
中上健次の旅
島田 雅彦
中上健次、津島佑子、村上龍の順番で戦後生まれの世代が続々、文壇にデビューした七十年代にはまだ戦後派、第三の新人、内向の世代といった世代ごとの文学潮流があった。それは純文学を中心とした文学市場が資本の原理とは一線を画す形で機能し、文芸批評が影響力を持っていた時代の特徴だった。高度成長は円熟期に入っていて、大量消費社会が到来し、メード・イン・ジャパンがブランド化しつつあった。ソ連軍のアフガニスタン侵攻があった1979年、団塊の世代の村上春樹が登場し、一世代下の当時の学生たちに熱狂的に受け入れられたが、それは大学進学率が上がり、学生運動が衰退し、学生のビヘイビアが根本的に変わる潮目に当たっていた。男女交際は、デモの後のフォークダンスから、スキー場やビーチでのナンパに変わる。この時点で日本近代文学は終焉を迎え、あらゆる表現領域で資本の原理が幅を利かせることになる。
中上健次は文学史的な括りとしては、遅れて来た内向の世代といっていいかもしれない。古井由吉や後藤明生は一世代上なのだが、彼ら戦中生まれと文学的系譜を同じくする。もっとも、「内向」というコトバは中上の立ち居振る舞いにはふさわしくないし、彼よりもやや年少のW村上のスタンスとも全く相容れない。中上は近代文学の枠組みの中から現れ、資本の原理によってではなく、破壊の神に導かれるように近代文学を自壊させた存在であり、特定の文学潮流には組み込めない孤児的な存在、カテゴリーを逸脱してしまう異端としかいいようがない。
何処か、遠い世界の幻想譚とも思える独特の物語世界と読者の記憶に絡み付いてくる語り口は、中上自身が生まれ育った新宮の「路地」に根ざしたものだった。「路地」出身のあらくれ男たちの話をする語り部は産婆として彼らを取り上げたオリュウノオバである。この語り部なしに中上文学は成立しない。
芥川賞受賞作の『岬』以降、中上は「紀州サーガ」と総称される「路地」に根ざした骨太の物語群を書き上げてゆくのだが、83年に「地の果て至上の時」を上梓し、「紀州サーガ」を完結させ、おのが文学的拠りどころたる「路地」を消滅させてしまった。
その後は「路地」に替わりうる場所を求めて、彼なりのフィールドワークを熱心に行っていた。ある時はニューヨークに、ある時はソウルに、またマニラやペシャワールに。『千年の愉楽』を読めばわかるように、紀州は多くの移民を送り出す土地だった。おそらく、世界には中上を育んだ「路地」とよく似た場所がたくさんあるに違いない。その当てがあったとは思えないが、彼はオイディプス的な父殺しを文学的に行った後に、やはりオイディプスのように長い放浪の旅に出たのである。
彼のペシャワール体験を講演録で読んだが、その印象は私に深く刻まれている。中上は「語り部通り」という物語作者が泣いて喜ぶような通りを訪れたのだそうだ。そこでは行商人たちが集まり、情報交換がさかんに行われている。たとえば、誰かの消息を知りたい、誰かに伝言を残したいという時、通りを行き交う人に手当り次第に訊ねるのである。百パーセント口コミの情報伝達である。いつしかその通りは「こんなことがあった」、「こんな話を聞いた」と物語を語り出す語り部たちが集うようになり、人々はその物語をヒントに世界が今どうなっているかを知るのである。
イスラム世界では、こうしたコミュニケーションの方法は今も生きていて、レバノン出身の劇作家ワジディ・ムアワッド原作の『灼熱の魂』という映画では、行方不明の親族を探し出すために、意図的にゲリラに拉致され、事情を話して、彼らのネットワークを通じ、親族が今何処で何をしているかを突き止めるという独特な人探しの方法が紹介されていた。
「路地」の崩壊後、中上は「路地」の男たちと同様、国境を越え、権力に囲い込まれることのない人的ネットワークを作り上げようとしていた。日本の外におのが朋輩を求めたのである。
その頃からロンドン、パリの郊外には大きな移民コミュニティが形成され、イスラム系や北アフリカ系の移民たちが持ち込んだ文化と現地の文化の混淆が起きた。伝統と世代交代を縦糸に、ドラッグや同性愛、排他主義、移民のイスラム信仰などが緯糸に絡む多文化共生社会独特のカオスは二十世紀末に実に多彩なポップカルチャーを生み出した。
欧米社会が排他主義を強化すればするほど、それを鏡に映したようにイスラム原理主義が広がった。欧米の教育を受けた移民三世のあいだにもイスラム過激派に身を投じる人が出てきたが、中上はまさにそういう世界が到来することを想定しながら、『讃歌』や『異族』を書いたのではないかと思われる。
ソビエト連邦崩壊と冷戦の終焉、そして湾岸戦争によって、世界は一変したが、日本は日米安保体制を頑に守り、もはや思考停止状態を続けているかに見える。日本人が精神的自立を唱えても、アメリカの抑圧からは抜け出せないとの思い込みが政治、経済、文化のあらゆる領域を規定している。対米従属と日本の自立は大いに矛盾するのだが、その矛盾を一気に解消するためには、対米戦争をしていた戦前に回帰するか、憲法を変えるしかないと思い詰める。それは極めて内向きな集団ヒステリーに過ぎない。中上は二十一世紀を知らないまま、この世を去ったが、八十年代の終わりから九十年代にかけて、新たな文化的父殺しの可能性を模索していたに違いない。それは「ヤンキー・ゴー・ホーム」を叫ぶ反米ではなく、むしろ、ISのような超国家的連帯によるテロに近いものになったかもしれない。
島田 雅彦
Masahiko Shimada
1961年、東京生まれ。作家。東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。
大学在学中の1983年、「海燕」掲載の『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー、芥川賞の候補となる。1984年、『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞受賞。1998年に近畿大学文芸学部助教授に就任、2003年からは法政大学国際文化学部教授。2000年から2007年まで三島由紀夫賞選考委員を務める。2006年、『退廃姉妹』で伊藤整文学賞を受賞、2008年、『カオスの娘』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2010年下半期より芥川賞選考委員となる。
おわりに
島田雅彦氏が語る中上健次”文学の旅”はいかがでしたか?
中上健次と島田氏は、1980年代の”空気”を共有した作家同士でした。
早世した中上が、もし今の時代にいて語りたかったことがあるとしたら、“同時代の空気”を共有した島田氏の作品の中に垣間見ることができるのかも知れません。
1980年代に中上が呟き、発言したエッセイの数々が、中上健次電子全集第8回巻に収録されています。
中上健次 電子全集8 『エッセイ集 1970年代~80年代』
30代から40代にさしかかり、脂ののりきった中上渾身のエッセイを完全網羅。
ビートたけし、坂本龍一との対談も収録!
韓国の民族芸能の発見から語り起こされる『風景の向こうへ』の見どころは、五人の作家論を配した「物語の系譜」の部分である。
ここでは、初版の単行本には収録されていなかった「折口信夫」論全編と、 “日本近代文学界に現れた唯一の女性物語作者”、「円地文子」論も、初めて全編収められている。
他に、同じ新宮出身の「佐藤春夫」、「谷崎潤一郎」、「上田秋成」を論じたエッセイも興味深い。
熊野の風土のそこかしこで、物語が発情させられていると語る作家たちは、その「物語」に存分に染まり、しかしまた敢然として「物語批判」に立ち向かう紛れもない「小説家」ととらえられており、あえて谷崎潤一郎を、「物語信奉を餌に肥え太ったブタ」と語ったのも、「モノガタリへの畏れ」を人一倍自らに掻き立てた作家ならではの挑発的な回答であろう。
『アメリカ・アメリカ』で中上は、アイオワを起点に米国中南部を旅する。ここではボルヘス、ボブ・マーリーというおよそかけ離れた存在が、インタビュアー中上によって、何故かキャラクター的に何らの違和感もなく共鳴を開始する。
『オン・ザ・ボーダー』では、まさにボーダーに立つ作家から「ただ、東アジア、日本からしか生まれえなかった文学が、さながら難破船からの救助信号のように世界に向って発信されるのである」と、魂の叫びが発せられる。
初出:P+D MAGAZINE(2016/12/01)