芥川賞作家モブ・ノリオを文学に導いた「熊野大学」と中上健次

『介護入門』で第131回芥川賞を受賞したモブ・ノリオが、多大な影響を受けた小説家・中上健次。「熊野大学」の中上没後三回忌セミナーに参加したことから始まったそのきっかけを、モブ氏が熱く語ります。

『介護入門』で第131回芥川賞を受賞したモブ・ノリオに強烈な影響を与えた小説家・中上健次。そのきっかけは、今も続く中上が新宮の地で開講した文学講座「熊野大学」の中上没後三回忌セミナーに参加したことから始まりました。

モブ氏の運命を決めることとなった、「熊野大学」での出来事、出会い、そして中上文学について、「中上文学の神髄を語る」(7)――「《熊野》で学ぶ」ことの意味を考えるの中で、モブ氏が独白します。

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2-27熊野大学開校のあいさつ_01
1990年6月、新宮市西村記念館での熊野大学開校式で挨拶する中上健次(新宮市立図書館蔵)

中上文学の神髄を語る(7)

「《熊野》で学ぶ」ことの意味を考える

モブ・ノリオ

熊野本宮の、明治の大水で社殿が流されるまで、そこがもともとの社地だった川の中洲の大斎原には、今、草と木しか生えていない。かつて、熊野大学で知り合った仲間に連れられて、私が初めて訪れた時もそうだった。土と草と木々以外、何もない。それでも、依然、聖地である。人間が築いた社など、神にとっては、なくてもよいのだ。大斎原は、そのことを我々に忘れさせずにいてくれる、神秘的な場所である。
『岩波日本史辞典』で【神】の項目を引くと、「人間以上の能力をもった存在でかつ超自然的領域に関わる霊的なものをさす。カミの語は〈隠れたもの〉すなわちクマという古語から派生したという説が有力。」とある。つまり《熊野》とは、《クマ》=《超自然的・霊的な、人間以上の力が隠る》、《ノ》=《野》、まさに大斎原そのものかと合点がいく。

『千年の愉楽』の「カンナカムイの翼」には、「自然・神」と書いたところへわざわざアイヌ語で「神」(あるいは「熊」)を意味する「カムイ」とルビを振った語が頻出する。さらには、中上作品では本来被差別部落を指してきた「路地」を「コタン」、「人間」を「アイヌ」と読ませる作中で、路地に生まれた達男が、北海道で出会った「人間(アイヌ)出身の若い衆」を路地へと連れ帰り、生まれてくるあらゆる命を肯定する路地の産婆・オリュウノオバに引き合わせる。オリュウノオバは、「路地と同じような条件で生きている未知の人間(アイヌ)を識っていい知れぬ衝撃を受け」、被差別部落民とアイヌ民族との連帯による「戦争」を過激に夢想し、想像の中で路地の子、コタンの子に「今こそ武器を取れ」と呼びかける。しかも、オバの夫、半俗の僧侶である礼如さんの来歴が、「浄泉寺の和尚の高木顕明が大石毒取(ドクトル)らの仲間として天子様暗殺謀議で逮捕され処刑された」かわりに、仏の供養に路地をまわった、と舞台の新宮の地を震撼させた大逆事件の歴史に織り込まれて明かされるのだ。
ここでは、《自然=神》という自然崇拝に根ざした現実を無理なく生きてきた《まつろわぬ人々》が、国家による政治体制と一体化して絶対的な権力を振るう一神教的宗教支配(天皇制や国家神道)によって、もとからの暮らしぶりとして必然的にそのようにある固有の価値観や霊的伝統を抑圧され、破壊された果てに、最終的には彼らの存在自体が均質化され、無化されるという《霊》や《魂》、《神》にかかわる問題が、同時に、政治的な問題、差別の問題、ある集団の根源的な意味での生き死にに関わる問題でもあり、それゆえ、「今こそ武器を取れ」というオリュウノオバの呼びかけを、私などは、霊的なレベルでの生存上の抵抗、謂わば《スピリチュアル・レジスタンス》への煽動として読み替えたくなる。「じゃあ、武器って何だよ?」と問われれば、最早、《自然=神》以外にあるだろうか?

中上健次は、《自然=神》について、梅原猛との対談集『君は弥生人か縄文人か』の中で、「日本で神様というと山川草木だ」「神様を感じるというのは、風がどう吹いているか、木がどんなふうにそよいでいるか、耳を少し自然の音に集中するとか、そうするだけのことなんだ」「要するに、自然が神なんです」とはっきり言葉にしている。さらに、「神様というのは大問題じゃなくて」「すぐそばにあって、そのすぐそばから始まっていく」、そして、「宇宙万物に神あり」と、その一連の発言を締め括っている。どこにいようが、《自然=神》なしに我々の存在など成り立たない、ということでもある。
また、中上は、一種の霊的な事象についても、面白かったり恐ろしかったりする逸話を書き残し、語り残してくれている。たとえば、《真の人間主義》を掲げた熊野大学の開設準備段階で開かれた、中上本人による連続講義を収めた講演録『中上健次と読む「いのちとかたち」』では、近代的な教育機関では普通は口にするのがためらわれる、目に見えない神やら霊やらがはたらいているのではと結論づけずにはいられぬ体験が、臆することなく語られている。その際にも、中上らしいのは、批評性と不可分な彼独自の《ヴァイブレイション》に対する感受性をセンサーにして、不可解な現象の切迫性(リアリティ)を言葉にあらわそうとしているところだ。とりわけ十五章の「非在の熊野」を読むと、熊野の神さんがあまりにも厳めしく、言葉を失うしかない。

こんな講座が九〇年の新宮で開かれていたとも知らずに、九四年、私が二十三歳の時、中上の三回忌に重なる日程で開催された夏期セミナーに参加した。それは、生まれて初めての熊野大学、そしてまた初めての新宮、熊野への小さな、だが決定的な旅となった。
セミナーが終わって、その数年前に都はるみコンサートの設営を手伝い、また別で神倉神社の火祭りにも参加したという、関東から来ていたほぼ同い年の二人の案内で、午後に神倉山に登り、さらにテントがあるので大斎原あたりで夜を明かさないかと誘われるがまま、面白そうなので彼らの車について行った。まだ土地勘もなく、新宮を離れてどんどん暗さを増す夜の国道を不安なままひた走り、ようやく着いたのは河原の傍の、人気もないのに、何とも言えぬ闇の気配を濃く感じる広場のような場所だった。懐中電灯の明かりを頼りに、むき出した腕や顔にたかる蚊を叩きもって、熊野の地になれた、二人とも喧嘩の強そうな、生前の中上とも会って話したことがあるという富士宮のNと、木更津のTと、当時は大袈裟に聖地とも意識せず、地べたに座り込み、そのまま夜通し、素面で話し込んだ。中上本人の話や、中上に喧嘩を売るような真似をして逆に無茶苦茶に呑まされた挙げ句舎弟にされてしまった那智勝浦の危ない人の話、さらにNがその危ない人に、コンサートの手伝いの際、気がつけばいつの間にか舎弟にされていた話など、舎弟舎弟と、暴力団か、と中上の小説じみた逸話を笑いながら聞き、「今度、紹介するよ!」「いや、いらんて。舎弟にされるがな」と、大斎原の浄闇の底で、予定外の熊野大の放課後を楽しんでいた。

そうして何かの拍子に、私が、自分はどんな趣味の友達とでも、仲さえ良ければ、たとえ相手が文学に興味がなくとも、つい自分の好きなものの話題を投げかける癖があるが、文学と無関係な方面の、家が被差別部落の友達に、大江健三郎の話は少ししたことはあっても、中上健次の話はまだしておらず、中上の話をするかしないかで戸惑いそうになる自分が情けなく──しかし今思うと、文学に興味のない者には、大江でも中上でも、重苦しく読みにくい小説を一方的に薦められるのは迷惑千万だろうが──要は、中上健次のかっこよさを伝えたい時に、「被差別部落」という言葉をその友達の前で口に出すことにためらいがあり、ぎこちなく身構えそうになる、そんな自分が嫌で、と話していた時だった。不意に、胡座を掻いたNとTが同時に身を竦め、感電したような動きで背を伸ばして硬直し、凍り付いた顔で私の背後、冥い木々しかないはずの闇に向け怯えた目を瞠った。振り返る間もなく私の体に、闇の暗さのままの何か、熱く、赤いような、光か熱か、闇を凝縮してまわりがぼんやり白濁したような、確かな温度が酔いの如く一気に降った。身体全体が熱くなったと思うと目の前の、そこにいる二人とも、熱の塊か、色でないような赤さに感じられた体熱に取り巻かれている。涙が、とめどなくこぼれ出るのがわかった。あたたかい。なぜだか、ここに在ることがありがたい。何が起こったのかまるでわからず、三人ともが、闇の中で、突然の熱に取り巻かれていた。同じように涙を流しているらしいNが、うつむいたまま口にした言葉を、今は思い出せない。束の間のあれが何だったのか、わかる日は来ないだろう。

熊野から戻って、Nに送ってもらった、中上健次が町の隣保館で開いた講演録の私家版冊子『開かれた豊かな文学』を全てコピーした。翌年、私もNも、モグリの贋学生をするため上京し、そこでまた熊野に来ていた連中と、行動をともにするようになった。だが、私はわずか一年で、実家へと戻った。その三年後、私は親の会社を辞め、バイトをしながら自分で音楽をやろうと決めた矢先に、祖母が倒れた。さらにまた三年後、家で世話をしていた祖母が他界してすぐの頃、熊野大の仲間の一人が留学するからと、本当に久々に、首都圏のNの家にみんなで集まった。私は、かつてNと、お互いに小説を書いて、完成させたら読ませあおう、と交わしたかつての約束を完全に忘れ、最早文学などという忌まわしい故地には一生戻らぬつもりで、祖母の他界後、穴があいたような時を、音楽制作の方も曖昧な状態で生きていた。その晩N宅に泊めてもらい、深夜まで話し込むと、最後にNは、何年も仕事の傍ら書き続けてきたが、書けない、と泣いた。責任めいたものを感じただけでなく、今こそ俺は、音楽では自分が表現できそうにない祖母との時間のことを、言葉で書くしかないのではないか、と震えるように感じ、「俺も書くから、書けたら互いに読ませ合おう」と口にしていた。それから……。
それから、また随分と色々あって、気がつけば、私は今、中上健次の齢を既に何十日か越えて、これを書いている。
中上健次という小説家のおかげで、私は、自分が大人になってから、被差別部落に生まれた友達と、被差別部落のことについて、《中上健次》を媒介にしながらしゃべることができるようになった。そのことを感謝している。

Nが舎弟にされてしまった危ない人には、真夏の熊野で、今もお世話になっています。

モブ・ノリオ顔写真_01
新宮市の書店・荒尾成文堂の中上健次コーナーにて筆者

モブ・ノリオ
Mob Norio

1970 年、大和桜井生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。同大専攻科在籍中の1994年、新宮市にて熊野大学夏期セミナーを受講。その後、約1年間、主に東京でニセ学生(モグリの聴講生)として、島田雅彦、渡部直己、金井久美子、柄谷行人、絓秀実、古井由吉らの授業を受ける。著作に、『介護入門』(第98回文學界新人賞、第131回芥川賞受賞作)、『JOHNNY TOO BAD内田裕也』(ロックンローラー内田裕也との共著)、自主制作音源に『中之島に原発を(なぜつくらない)』がある。

おわりに

モブ・ノリオ氏にとって、《熊野》、そして中上文学との出会いが、彼のその後に如何に大きな影響を与えたのか、彼の“語り“から強く伝わったのではないでしょうか。

中上健次は、単に作家という仕事の枠を超えて、故郷新宮市を中心とした文化組織を3つ、オルガナイザーとして立ち上げてきました。うち「熊野大学」は、中上没後も、彼の遺志を継ぎ夏期セミナーという形式で、毎年開催されています。
中上がオルガナイザーとして、「熊野」の地で遺した発言の数々が、中上健次電子全集12『オルガナイザー中上健次の軌跡』に収録されています。

中上健次 電子全集12『オルガナイザー中上健次の軌跡』

今も開催される「熊野大学」など中上が熊野で立ち上げた三つの文化組織。「熊野とは何か」という問いの全貌がここにある。

ここに収められたのは、全て作家が故郷・和歌山県新宮市で語り、行い、書き綴ったもの。自ら地元で立ち上げた文化組織は、1970年代末の「部落青年文化会」に始まり、「隈ノ會」、「熊野大学」と規模を拡大した。なかでも「熊野大学」は、1992年の作家の死後も現在に至るまで、合宿形式による「夏期特別セミナー」を開催している。この市民大学のモットーは、門もなく、試験もなく、卒業は死ぬ時。中上健次はその創始者にして最初の卒業者となった。『中上健次と読む「いのちとかたち」』は、熊野大学の発足当時から作家の死の直前まで、地元の市民たちを集めて速玉大社双鶴殿で行われた山本健吉『いのちとかたち-日本美の源を探る』の講読記録。
「部落青年文化会」は、「路地」の若者たちを組織、東京から石原慎太郎、瀬戸内寂聴(当時、晴美)、吉本隆明、唐十郎らを招いて連続公開講座を実施した。「開かれた豊かな文学」は、その間に行われた中上健次の講演記録である。
同窓生の田村さと子(ラテンアメリカ文学者)らを招き、新宮市民会館で発会式を行った「隈ノ会」を含めたこれら三つの文化組織で、中上は熊野とは何かという問いを終始喚起し続けた。

中上-12

初出:P+D MAGAZINE(2017/04/12)

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