連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第21話 小田実さんの署名本
名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間には、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない、作家の素顔が垣間見える裏話などをお伝えする連載の第21回目です。今回は、著者にとって思い出深い仕事を共にした作家・小田実さんについての、とっておきの秘話を紹介します。ベストセラーを生み出すに至ったエピソードを追ってみましょう。
作家と編集者の担当は、一冊だけだとしても、不思議な縁で結ばれることがある。
私の書棚に、1996年月発行の、『玄』というタイトルの本がある。著者は小田実さんで、私への為書があって、「いい本にして下さってありがとう。いろんなことの記念に。」と添え書きがしてある。
とてもありがたいことである。
そして、小田実さんの名前の脇に、そっと韓国語が添えてある。私には韓国語は読めないのだが、この本のカバーの、墨絵の装画と本文の中に添えられた挿絵の作者は玄順恵が書いたものだ。玄さんは、小田さんが妻と呼ばないで、終生、「人生の同行者」と言ってやまなかった人である。
つまり、この本は小田さんと玄さんの合作だと言っていいのである。
小説の「玄」というタイトルは、七章立ての終章の小見出しの「玄」から来ている。
そもそも、「玄」という字は黒という意味で、さらに幽に亠(なべぶた)でふたをすると、さらに幽が暗くなる。これを天の色となし、転じて、心、真理、幽遠、清深という意味になるとされる。
たとえば、玄義と書くと、深くて静謐な奥義を表す。この場合、「玄」と「奥」とは、同じ意味だと言っていい。
なぜ小説の「玄」というタイトルにしたのかということについては、小説の中には書かれていないが、この「異装異者」で「女王」のことを書いた異色の小説のタイトルと、「人生の同行者」の姓が、同じ文字というのも面白いことだ。
ひと回り年上の小田さんと私はずっとすれ違ってきた。
小田さんは、早熟な才能の持ち主で、17歳、高校2年生のとき、『明後日の手記』という300数枚の小説を書き上げ、文芸評論家の中村真一郎氏に持ち込んだ。その才能を認めた中村真一郎氏は、河出書房の編集者・坂本一亀さんのところに持って行って、出版されることになった。
坂本一亀さんは、坂本龍一さんの父親だが、野間宏の『真空地帯』、三島由紀夫の『仮面の告白』、高橋和巳の『悲の器』などを手がけ、純文学の編集者として、名を馳せた人だ。
その坂本さんが出そうとしたのだから、面白い作品だったのだろう。私は不勉強でいまだ未読のままだが、講談社の電子版の「小田実全集」の第一巻に収録されているので読むことができる。
小田さんは東京大学を卒業後、1958年にフルブライト基金によりアメリカの大学で学び、帰国の旅をバックパッカーとして世界中を回って、いろいろな人たちの話を聞いた。そして、坂本一亀さんの勧めで、その体験を本にした。『何でも見てやろう』である。その本はまたたく間にベストセラーになった。『何でも見てやろう』は、海外を巡ってそこで出会った人と文化のことを書いた紀行本で、沢木耕太郎さんの『深夜特急』を思ってくれるといい。
まだ高校三年生だった私は、1961年、小田さんの講義を受けた。つまり、ここで初めて私は小田実さんと巡り合うことになる。ベストセラー作家であったが、小田さんは代々木ゼミナールという予備校で教鞭をとっていて、夏休みに、英語の長文解釈の集中講座を開いた。受験勉強に身が入らない私は、自分に喝を入れるべく、その講座を受けることにした。
自宅の近くにあった大学の講堂を借りて、その講座は行われた。
ジーンズと半袖のシャツをラフに着た背の高い青年が、一段高い演壇の中央に設けられた重厚な趣のテーブルの前に出てきた。そのまま、そこに腰をかけて、マイクも使わず、大きな声で講義をはじめたのである。英語の発音は見事で、長文を鷲掴みするような解釈の仕方も見事だったと思う。
私の目には、小田さんが、とてもカッコよく映った。その態度は、石原裕次郎がバンカラな先生役を演じているような感じがしたのだ。
そんなことに気を取られていて、結局、私はこの夏季集中講座で、英語長文解釈のことはほとんど学べなかったと思う。
ただ、そのとき読んだ『何でも見てやろう』には打ちのめされた。たったひと回りしか違わない若者が世界中を旅して、それこそ何でも見たり聞いたりしたことを自分の血肉にしたことに打ちのめされた。そして、大学に入ったら、こんなこともできるんだと思った。その後、大学に入った私が実際に送った学生生活は、そのとき受けた衝撃とはずいぶん違ったものになったが、それはまた、別の話としよう。
このしばらくあと、小田さんは1973年「群像」10月号に『ガ島』を、1974年「群像」2月号に『テンノウヘイカよ、走れ』を一挙掲載し、講談社との関係が続いていく。
私は1968年に、講談社に入社して、すぐ「小説現代」編集部に配属された。そして、小田さんが『テンノウヘイカよ、走れ』を「群像」に掲載した1974年に「群像」編集部に配属になったが、もちろん、ほかの編集者が担当していて、私は小田さんの謦咳に接することはなかった。
小田さんは1980年8月号から1989年9月号まで、10年近くも「群像」に、3巻に及ぶ長篇小説『ベトナムから遠く離れて』を連載するのだが、この時期、私はと言えば、文庫出版部に異動して、「イン☆ポケット」を創刊したり、「小説現代」編集部に戻ったりと小田さんとはすれ違ってばかりいて、担当になることもなかった。
ベストセラーを出したとは言え、まだ本物の作家とは言えない小田さんの、受験のための講義を受けてから、35年も経って、私は、その小田さんの神戸のお宅で、異色の小説『玄』の見開きにペン書きの献辞をしてもらうことになったのである。
この小説は、「群像」の1994年3月号から翌年の95年10月号まで連載された。連載が始まった1994年には、私は文芸第一出版部に部長として異動していて、単行本として出版した1996年にも、第一出版部に籍を置いていた。
文芸誌の編集長や文芸出版部の部長は、ひとりひとりの作家を担当することはなくて、全体を見る立場に徹することが普通である。
だから、私が、小田さんの神戸の自宅に足を運んで、サインをしてもらったのは、この本の出版の責任者としてであっただろう。私が出かけた時の神戸は、1995年1月17日に死者6434名を出した阪神・淡路大震災に見舞われて、壊滅的な被害を受けた、その余燼が残っている時だった。
言ってみれば、小説「玄」の連載が始まった年と単行本として発行された年の間に、大震災が起こったのである。私は、地震の余燼を目の当たりにしながら自然の脅威に慄きを覚えたが、小田さんも酷く打ちのめされていた。小田さんが事細かく説明してくれた地震の惨状は想像を絶するものだった。
LGBTの問題でいまだきちんとした答えが出せないままの日本の指針となりうる先見性を持った小説『玄』のあらましを紹介した方がいいだろう。
第一章の小見出しは「異装異者」となっていて、日本人の女性であるミネが、何十年振りかで、ニューヨークに出かけて、ジョンと出会うところから物語ははじまる。ジョンは、ドラッグクイーン(女装する男性同性愛者)で、女装した時は、アンという美しい女性に変身してしまうのだ。
主人公のミネ(小説では私という語り手になる)が、彼らドラッグクイーンたちに惹かれたのは、彼らが異様に美しかったからだ。彼らは異装異者の美を輝かせるナイト・クラブ「ファンタジア」のホステスたちだった。そのボス的存在がジョンだったのだ。ミネはその美しさが、ミネ自身の精神を自由に解放したから、彼らと一緒にいたがったのだ。
ミネは、ジョンが異装して美女に変身したアンと性的関係を結んだ。そして、その結果、子供を孕むことになった。ジョンは日本に帰って堕胎するように言い、ミネもそれに従った。そしてお腹の子を堕したあと、ミネはまたニューヨークに戻るが、なぜか、ジョン達ドラッグクイーンのところに帰ることはなかった。
そして、長い年月が経ったいま、ミネは、そのジョンに会っている。むかしのジョンは30歳を越えたばかりだったから、いまは80歳間近になっているはずだ。そのジョンの前に立つミネに、ジョンはこう言うのだった。俺は、もう美しいアンになる能力を失った。老いて醜いジョンだけがここに生き残っているんだ。
ジョンはそう言ったが、ミネが持参した花束を手に変身した「アン」はやはり美しかった。ミネとアンはふたたび結ばれるが、アンのものは萎えたままで、ミネのものも奇妙に乾ききっていた。
文革のため睾丸を潰された、中国人のミスター陳は、孔子の家という倒錯者向けの家を経営している。いまは老いたジョンも、その家の子供として身を置いているらしい。ジョンに連れられて、ミネはミスター陳が催す倒錯者たちの舞踏会に行った。
ミスター陳のせいで文革のさなか父を殺され、いまはニューヨークで中華料理の「出前」をしている青年と、ミスター陳の死闘とも言えるダンス「ボーギング」を踊るのを見たミネは、子供たちのショウのところどころに、ジョンならぬ、「アン」が姿を現しているのを知る。老いたアン(=ジョン)が、この場ちがいなショウのなかでアンとして女王(クイーン)に変身することで、ジョンは相変わらず、自分のドラッグ・クイーンとしての誇りを持ちつづけようとしていることに衝撃を受けたミネは、日本に帰ることに心を決めて、家から出る。そして、さっき見たアンに、さよならと心のなかで一度大きく叫んでいたのだった。
小田さんとは、私は初めてその姿を見てから長い間、すれ違ってばかりだった。そして、このあまりに様々なことが裏表になっている異様な世界を描いたたった一冊だけの付き合いに終わってしまったが、小田さんが生涯続けた行動と、「群像」に書いた、いわゆる私小説とは趣を異にする作品とが、私の生きていく上に、大きな助けとなってくれている。
【著者プロフィール】
宮田 昭宏
Akihiro Miyata
国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。