辻堂ゆめ「辻堂ホームズ子育て事件簿」第10回「1歳9か月児の試練」

辻堂ホームズ子育て事件簿
第2子出産から1ヶ月。
裏では、1歳9か月の娘が
がんばっていた。

 その認識を改め始めたのは、自宅に戻った翌日以降だ。

 幼い弟には慈愛に満ちた態度で接していた娘だったけれど、なんだかやっぱり、様子がいつもと違った。私がそばにいるのに、夜寝る前には布団に入ろうとしないで泣いてしまう。一緒にお風呂に入るときも、何か嫌なことを思い出したかのように、一瞬顔を歪めて泣きそうになる。家の中で私の姿が少しでも見えなくなると、弾かれたように廊下に駆け出して、一生懸命探し始める。家事をしている私の服の裾をつかみ、ずっと後をついてこようとする。もちろん、もう1歳9か月なのだから、後追いをする時期はとっくに卒業している。

 そういえば、退院日当日に感動の再会を果たした後も、私の姿が車のドアの陰やベビーカーの後ろなどに一瞬でも隠れると、火がついたように泣いていた。明らかに情緒不安定だったけれど、帰ってきた母親を歓迎する気持ちの裏返しであり、ごく一時的なものだろうと高を括っていた。

 しかし、安息の地であるはずの自宅に戻ってからも、精神的に落ち着く気配のない娘の姿を見て、思い直した。

 娘はまだ言葉が分からない。妊娠や出産という現象そのものも、そのために母親が入院する必要があることも、まったく理解していない。今までと変わらない日常が続くものと信じて過ごしていたさなか、ある日突然母親が姿を消す恐怖は、どれだけのものだっただろう。父親や祖父母がそばについていてくれたとはいえ、1歳の娘にしてみれば、母親が生きているのか、死んでいるのか、どれくらい待てば戻ってくるのか、もしくはもう二度と会えないのか、それすらも判断がつかないのだ。何日、何週間、何か月という時間の概念だってない。私たち大人が、何の事前情報もなしに、時計のない部屋に監禁されるようなものだ。何かが足りない、居心地の悪い非日常が、いつまで続くか分からない──。

 聞くと、夫の実家に滞在している間、娘はおじいちゃんやおばあちゃんにほとんどわがままを言わなかったのだという。1歳児なりに、両親以外の人に気を使いながら過ごしていたのだ。まだ言葉も話せない子どもに、そんな社会性が備わっているとは思いもしなかった。

 ずっと、我慢していたんだね。本当は甘えたいのに、弟のことを思いやって、無理して「いい子」な「お姉ちゃん」になろうとしていたんだね。ありがとう。そしてごめんね。コロナ禍じゃなければ、毎日面会できたのにね。つらい思いをさせてしまったね。

 それからは、長かった5日間の埋め合わせのため、慌ただしい新生児育児の合間を縫って、娘をひたすらぎゅっと抱きしめるようにした。大人でも30秒のハグでストレスの3分の1が軽減するという言説があるから、きっと効果はあるだろう──という判断が正しかったのか、あるいは時が解決してくれたのか、娘の情緒不安定は、なんとか4日ほどで落ち着いた。

 そんな試練を乗り切った娘には、いつかこのときのことを聞かせてあげようと思う。娘自身の頑張りはもちろん、実は陣痛の痛みが最高潮に達したとき、『おべんとうばこのうた』を歌ってあやすとケラケラ笑ってくれる娘の姿を必死に思い出しながら耐え切ったことなんかも、ついでに。

(つづく)


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辻堂ゆめ(つじどう・ゆめ)

1992年神奈川県生まれ。東京大学卒。第13回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞し『いなくなった私へ』でデビュー。2021年『十の輪をくぐる』が第42回吉川英治文学新人賞候補となる。他の著作に『コーイチは、高く飛んだ』『悪女の品格』『僕と彼女の左手』『卒業タイムリミット』『あの日の交換日記』『トリカゴ』など多数。

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