椹野道流の英国つれづれ 第16回
特に、年長者が、初対面で名前を知らない相手に対して、あるいは顔見知りではあるけれど、互いに名前を把握するほどの間柄ではない相手を呼ぶとき、〝Love〟あるいは〝My dear〟と呼びかけることが多かったように思います。
特にそこに恋愛感情などはなく、ただ、「ねえ、あなた」くらいの軽い意味合いの、でもちょっとした親しみを込めた呼びかけなのです。
でも、日本から来て初めてそんな風に呼ばれたら、ドキッとしちゃいますよね。
私もおめでたくドギマギしてしまいつつ、はじめましての挨拶をしました。
ジャックのほうは、私を見てチラと悪い顔で笑い、こんなことを言います。
「オリエンタル・ビューティーっていうより、オリエンタル・キューティーだろ。あるいは〝Oriental beauty to-be〟」
「東洋美人というより、東洋のかわいこちゃん、あるいは東洋美人予備軍」と訳せばいいでしょうか。
んもう、おっさんが失礼なのは、洋の東西を問いませんね!
でも、悪い印象はありませんでした。何しろ、可愛いとか美人とか言われるチャンスが日本では皆無だったので! お世辞でも社交辞令でも、褒められりゃ嬉しいもんよ!
ジョージも真顔で「なるほど、確かにまだキュートの段階かな。でも、ナイスガールなのは、見りゃわかりますよ」と言ってくれました。
「それで、ジャック。あのスウェーデンからの酒豪の女の子は、もう帰っちゃったんですか?」
「いや、まだいるよ。この子は、ブライトンで一人暮らしをしているジャパニーズガールで、ええと……チャーリー」
「チャズ!」
またかい!
今思うと、ジャックは私をチャーリーと呼びたかったのかもしれません。
チャズという名前にあまり良い印象がなかったのか、単純に呼びにくい、あるいは覚えにくかったのか。チャーリーという名前に愛着があったのか。
この後も、彼はちょいちょい私をチャーリー呼びし続けたのですが、私のほうも諦め半分で慣れてしまって、途中からは普通に返事をしていたものです。
「へえ、チャズ。よろしく。ジョージ。この店を経営してます」
ジョージはカウンターからニュッと手を伸ばして私と握手すると、ジャックに問いかけました。
「あなたはいつもの?」
「そう、1パイント」
テンポ良く答えて、ジャックは私を見ました。
「何飲む、チャー……チャズ? エール? ジャパニーズは、冷えたラガーが好きなんだっけか?」
私は申し訳ない気持ちで、首を横に振ります。
「いえ、お酒、飲めないんです」
「ああ、ティーンエイジャー……」
「では、なくてですね! アルコール分解酵素が遺伝的に欠損していて」
酵素、英語にすると〝enzyme〟という言葉を口にした私に、ジャックもジョージも目を丸くしました。
そりゃそうですよね、子供なみにたどたどしいアメリカ英語を喋るジャパニーズの小娘が、急に「アルコール分解酵素」の話をし始めたら、誰だって驚きます。
「アルコール分解酵素が欠損」
じゅげむじゅげむみたいな口調で復唱したジョージは、短い口笛を吹いて、少し恭しく私に訊ねてくれました。
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。