◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第6回 後編
先住民は和語を解せずまた話すこともできないというのは、松前藩の虚偽であることは庵原弥六にもすぐわかった。松前藩は先住民に和語を話すことを固く禁じていた。もし日本人と和語で会話したことが発覚すれば、藩吏に厳しく罰せられた。松前藩の関係者がその場にいると彼らはけして和語を話さないが、彼らは庵原の話すことに対して聞き耳をたて、通辞が正しく伝えていない時には表情を強張らせた。松前藩の案内人も二人の通辞もいない時を見計らって、庵原は渡海する先住民と話しておく必要を感じた。
シラヌシへ渡海する先住民が、出航に備え交替で海岸に出ては日和見や潮見をしているのを庵原は知っていた。ソウヤ出航の日も、この地の天候や風向き、潮の流れに精通している先住民にまかせるしかなかった。庵原は、夜明けに散策を装い、宗谷湾のサンナイ海岸で潮見をしているアイヌに近寄った。
三十歳前後の男は一瞬驚いた様子だったが、素早く周囲を見回して庵原一人であることを確かめると、向き直って丁重な礼をした。庵原弥六ら江戸から到来した幕府役人は、松前藩士のように先住民を威圧してかかるところがなかった。
「これまでシラヌシに渡ったことはあるか」と庵原が問うと、男は庵原の目を見て小さくうなずき返した。
「貴殿らは何人でシラヌシへ渡るのか」という問いに、その男はいきなりしゃがみ込んで地面に舟を描き、左右に四人、最後尾の艫(とも)の位置に一人、丸を描いて示した。庵原もしゃがみこんで艫の一人を指さし、「この者が舵取(かじと)り役か」ときくと、またも小さくうなずいて答えた。
「この八人は櫂(かい)をあやつるのか」と漕ぐ動作を交えて問うと、そのとおりだと二度小さくうなずいて答えた。
「もっぱら櫂で漕ぎ渡るのか」という庵原の問いには、舟の中央へ二本の棒を引き、四角い図を描いた。
「櫂と帆と両方使うのだな」ときいたのに対して、またも目を見て小さくうなずいた。
「シラヌシまでは、いく日を要するのか」と問いを向けると、男は右の人差し指を一本立てて示した。
「よくわかった。礼を言う。どうかよろしく頼む」と庵原が頭を下げたのに対し、男はしゃがんだまま膝に両手をそえ、またも丁重な礼を返した。
松前藩案内人の柴田は、「通辞も付けず蝦夷人とカラフトへ渡ることなど無理だ」としきりに止めたが、何の心配もなかった。あえて問わずとも、松前藩の人間さえいない場所ならば、恐らく和語を話すはずだと感じた。
七月の初め、庵原弥六と下役の引佐新兵衛と鈴木清七の三名は、先住民の操作する舟でソウヤを発した。
舟は、先住民が交易に用いる大型の板つづり舟だった。大型といっても全長が二十丈七尺(約六十三メートル)ほどで、大木をくり抜いた丸木舟を基にして、頑丈な厚板を精巧に組み合わせ、容積を大きくしたものである。庵原が海岸で聞いたとおり、櫂の漕手が左右に四人ずつ、舵取りが艫に一人配された。ほとんどがカラフト渡海の経験を持つ者たちで、彼らの腕だけが頼りだった。
庵原は、「渡海の間、みどもへの気遣いは一切無用だ。いないものとして、いつものようにふるまってくれて構わない」と伝えた。
沖に出ると左右の舷側中央に帆柱を二本立て、莚(むしろ)帆を渡して帆走に入った。彼らは、しきりに太陽の位置を確かめ、目印となる陸地や島は見えなくとも、声を掛け合いながら確信に満ちて一面の大海原を航行した。
松前藩から聞いていたのとはまるで異なり、彼らは礼儀正しく、我欲少なく、しかも優れた航海術を備えているとわかった。庵原が予想したとおり、彼らのほとんどが和語を話せた。
早朝にソウヤを出発して、日が沈みかけたころやっと前方に陸地が見えた。「水行七里」というのは明らかに誤りで、ソウヤからカラフト南端シラヌシの港湾まで、ゆうに十五里(約六十キロ)はあるように思われた。陸地に近づいてシラヌシの湾に迫ると帆を下ろし、彼らは再び漕走に切り換えた。
海岸から離れた針葉樹の森近くに、切り妻の屋根を持つ家々と高床の倉庫、魚や肉の物干し台がわかった。蝦夷島も北の果てのソウヤから十五里余海を越え、またその先にも陸地と集落があり、見知らぬ先住の民が日々の暮らしを営んでいた。夕陽を浴びてたたずむ家々も、そこから立ちのぼる煙も、小舟からこの日の漁果を運んでいく人々の影や、見慣れぬ舟に吠えかかってくる犬でさえも、庵原弥六には何もかもがいとおしいものに感じられた。