◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 前編
勘定奉行の松本秀持の目を引いたものは──。
「蝦夷大王」の異称が庶民にまで広まったのは、参勤交代の折、吉原の妓楼(ぎろう)に上がったついで気に入った遊女を金千両で身請けして松前に連れ帰った一件だった。蝦夷島は日本ではないと言わんばかりの「蝦夷大王」なる危険な自称と、およそ幕藩体制の藩主らしからぬ奔放さが庶民の度肝を抜き、大いに喝采を浴びた。
松前の重臣も、武士というより商人と呼んだほうが早いような輩ばかりだった。元家老職にあった蠣崎(かきざき)三弥は、問屋の大黒屋に同居して海産物商売をやっていた。長崎俵物会所(たわらものかいしょ)が直接買い上げる制度に改められる天明五年二月まで、大黒屋は長崎俵物の請負商人が定宿としていた問屋で、長崎に送るはずの昆布や干しアワビなど高価な海産物加工品を片っ端から諸国へ横流しして大儲けしていたに違いなかった。厚谷(あつや)新下という重臣も、浜屋庄右衛門という問屋の名義を借り、実質自分が商売をやっていた。また、現在家老職にある松前監物(けんもつ)は、問屋商売にこそ手を染めていないものの、自分の知行場所でニシン漁が最盛期を迎えると自ら出かけて行き、漁師や商人と混じって売りさばきの指揮を取っている始末だった。元用人で町奉行だった工藤平左衛門は、藩主に隠居を願い出て認められるや吉岡村に移り住み、嬉々として漁場(いさば)商売を始めた。
松前藩は、表向きは他国者を入国させないことにしてあるが、実状は他国者が城下で軒を競っているようなものだった。藩の重職にある者がその便宜を図っていることは明らかで、当然その見返りがあったはずである。用人と町奉行を兼務している下国舎人(しもぐにとねり)は、近江商人三名が松前に店を構える許可の便宜を図った噂があり、それとなく皆川沖右衛門が話を向けると、悪びれる様子もなくその経緯を話した。重臣どもはおよそ藩政など眼中になく、与えられた知行商場の境界も満足に知らず、いかにして多くの金銭を自らの懐中に入れるかばかりに狂奔していた。
松前の高札場には次の条項が掲げられていた。
『一、諸国から松前に渡る輩は、蝦夷人に対して直に商売することは禁止する。
一、子細なくして松前に渡り、商売する者がいた場合には、必ず注進すること。
付、蝦夷人がどこを往来していても、意のままにさせておくべきこと。
一、蝦夷人に不条理なことを申しつけることも禁ずる。
右の条々はきっと守るよう。もし違反する者あれば松前家代々の掟により、厳しい裁きに処する。
寛文四年(一六六四)』
高札場に掲げた条項を「御朱印」などと称しながら、掟も何もあったものではなく、藩の重臣自ら率先して法を破っているようなものだった。先住民に対する法令も全く守られず、飛驒屋ら商場(あきないば)を請け負った本土商人に丸投げし、商人らは水増しした酒や破格の安値で彼らから海産物を騙し取り、一方的な搾取を続けていた。松前藩と請け負い商人どもは悪行が露顕することを恐れ、先住民が和語を話したり、漁労がおろそかになるのを防ぐため耕作したりした場合には、「ツグナイ」と称して罰金を課していた。津軽海峡を渡った先は、あいた口がふさがらないような話ばかりが出てきた。