◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 前編

佐藤玄六郎は蝦夷地から江戸に戻る。
勘定奉行の松本秀持の目を引いたものは──。

 

     二十五
 

 天明五年(一七八五)十一月半ば、蝦夷地(えぞち)探索方の指揮役佐藤玄六郎(げんろくろう)は、これまでの検分結果を勘定奉行の松本秀持(ひでもち)に報告するため、江戸に一旦戻ることにした。西蝦夷地ソウヤ(宗谷)での交易が不振だったのに対し、東蝦夷地アツケシ(厚岸)での交易は順調だった。神通丸(じんづうまる)と雇い船の自在丸に先住民との交易で得た塩引き鮭や魚油を満載し、佐藤はそれに便乗して品川へ向かうことを決めた。

 普請役(ふしんやく)の皆川沖右衛門(おきえもん)は、蝦夷島における連絡本部の形で松前城下にずっととどまり、東西蝦夷地の探索隊への連絡と物資輸送などに当たった。そのかたわら工藤平助が『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』で述べていた金銀山開発の可能性を探ろうとした。

 松前城下の北東にそびえる大千軒岳(だいせんげんだけ)や、東方の海岸に位置する大沢には古くからの金鉱があり、一六二〇年代には本土から渡ってきた十万人を超える鉱夫が和人地にいた。松前藩主は代々キリシタンに寛容なことで知られ、宣教師カルワーリョが布教に訪れた元和六年(一六二〇)当時、キリシタン禁令によって迫害をのがれようとした信者も多数海を渡り、大千軒岳の原生林に分け入って金掘りに従事していた。

 寛永十五年(一六三八)、天草島原の乱平定の直後、第二代藩主松前公廣(きみひろ)は幕府に呼び出され、蝦夷島のキリシタンを処断するよう命じられた。蝦夷島は日本ではないとする藩主の意識もあって、松前と江差には多くのキリシタンが住み暮らしていた。もしキリシタンの処刑を拒めば、幕府に対する明らかな反逆となる。

 翌十六年八月、松前藩は、従前からのキリシタン領民は見逃し、本土から渡来したキリシタン鉱山夫のみを処刑することで幕府の目をそらさざるをえなくなった。大沢金山で自首してきた信徒の男女五十人、千軒岳金山で五十人、また松前と江差の中間に位置する西部海岸の比石で六人、合わせて百六人を処刑した。

 皆川沖右衛門は、案内に立った松前藩士に千軒岳の原生林をさんざ引きまわされた後、水の溜まった廃坑を幾つか見せられただけで終わった。現藩主の松前志摩守道廣(しまのかみみちひろ)は「蝦夷大王」の異称で知られ、蝦夷島は日本ではないとする代々藩主の意識をそのまま受け継いでいるように思われた。キリシタン宗門は、神君家康を否定し幕藩体制から独立した国を裏付けるのに極めて都合がよいものとなる。皆川は道案内の者に領内キリシタンについても問いただしたが、百五十年ほど昔に百余人が処刑されたことを知っているぐらいで、かつて千軒岳の麓にあったという教会堂の場所さえ知らなかった。

 皆川ら普請役は、藩主の松前道廣にも一度目通りを許されただけだった。それも、御簾(みす)ごしの拝謁で、上段の間に座した道廣の大柄な体の輪郭しかわからなかった。道廣は、幕府派遣の普請役ごときと会見する気はまるでなく、佐藤玄六郎が旅宿をはじめ案内役などの便宜を計ってもらった御礼を口上したのに対し、「ご苦労」の一語だけを放ち上段の間からさっさと立ち去った。幕府の査察など屁とも思わず、お前たちがやりたいように蝦夷地を調べ幕府に報告すればよい、ここはお前たちの知る本土とは異境だと言わんばかりだった。

 第八代藩主松前道廣は、この年三十二歳、生まれつき知に秀で、武術や馬術にも尋常でない才を示した。年少の頃から学問は好まないが、侍臣に素読(そどく)させ、たちまちその本質を理解し、しかも細部までよく憶えていて訪れた儒者を驚かせた。

 将軍から松前氏あての知行は、他藩主のそれとは全く異なり、領地としての田畑ではなく先住民アイヌとの交易独占を許可するという異例のものだった。参勤交代も遠方ゆえに元禄時代より六年に一度と定められ、いわば無禄の大名という奇妙な立場にありながら、松前道廣はそれを逆手に取って「蝦夷大王」と自ら号し、幕藩体制からはみ出た、あたかも独立国の国主のごとき気概を示した。豪勇の気風と度量とを兼ね備えた道廣は、外様(とざま)雄藩(ゆうはん)の仙台藩主伊達重村(だてしげむら)や薩摩の島津重豪(しげひで)らと気が合い、彼らとは親しく交流した。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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