◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 後編
勘定奉行の松本秀持の目を引いたものは──。
佐野政親は、諸大名からの返済がとどこおらないようにするため、借りた金額に相当する大名領の田畑を担保とし、もし返済がとどこおった場合には担保とした田畑を幕府代官が押さえ、その年貢で元利を返済させるという仕組みを提案した。幕府が大名の返済を保証し、両替商の大名貸しをうながすものだった。また、貸付金の年利は七分とし、そのうちの一分の利子を幕府に上納するものとした。さらに通例の御用金とは異なって、出金は命じるものの、金を幕府に納めさせるのではなく、金は大坂商人の手元に置いたまま、幕府の公金として諸大名に融資するという奇妙な形のものだった。しかも、御用金を命じながら大名への貸し付けは強制ではなく、両替商と大名の「相対(あいたい)済まし」、すなわち当事者どうしの話し合いで決定するというあいまいな形を残した。これまで田沼政権を支えてきた大坂商人に大名への融資を強制することまでは、佐野もさすがにできなかった。
御用金の供出を命じられたのは大坂の約三百軒と、大坂代官の支配する兵庫や伊丹など周辺の豪農と寺社の数百軒で、御用金の総額は六百万両にのぼるといわれた。これまで大坂商人に好意的だった田沼政権が御用金を命じた。大坂商人の保有する巨額資金を大名に貸し出させ、幕府も利益を得て何とか政権の延命を図ろうという魂胆であったが、大坂商人は甘くなかった。大名貸しが強制ではなく当事者の話し合いによるものとの条件を目ざとく突かれ、御用金令による大名融資は一向にはかどらなかった。彼らはすでに田沼政権を見限っているかのようだった。
天明五年十二月二十七日、伏見(ふしみ)奉行の小堀政方(まさみち)が突然罷免された。小堀政方は、妾同士が姉妹という縁で田沼意次に抜擢され、大坂城番から伏見奉行に昇進した人物だった。伏見奉行は、これを無事勤め終えると奏者番(そうじゃばん)などに昇進できる、大坂や京の町奉行に次ぐ要職であった。伏見奉行就任当初は小堀も善政をしき好評だったらしいが、やがて遊蕩の味を覚えて借財を重ね、豪商に献金を求めては返済に当て、それでも足らず民へ徴収金十二万三千両を課した。これを文殊九助(もんじゅくすけ)という町人から江戸表に越訴(おつそ)され、悪政が露顕して処断された。
田沼意次の息がかかった伏見奉行が、町人からの越訴により不埒のかどで罷免に追い込まれた。田沼意次とつながる悪徳奉行の断罪は、江戸の町衆から大いに喝采を浴びた。松平定信の登場とともに意次の権勢低下をあからさまに示す事例となり、これまでとは異なる時代の到来を確かに印象づけた。
天明五年十二月末、加瀬屋伝次郎は風邪をひき、常備してあった葛根湯(かっこんとう)を服用したが効果なかった。寝込むほどではないものの、いつまでも頭痛と咳が治まらず、仕方なく芝宇田川町の町医者東条享哲(とうじょうきょうてつ)を呼んだ。
黒々とした総髪(そうはつ)に小さく髷(まげ)を結った儒者頭(じゅしゃがしら)の町医は、脈を取り丁寧に触診した後、麻黄湯(まおうとう)を処方した。
「しばらくの間煙草(たばこ)はお控えください」と言い、薬箱を持って立ち去ろうとして、額装し壁に掛けてあった『船員図』に目を止めた。
しばらく立ったまま眺め、「丸屋さんのお作で?」ときいた。
「ええ、さすがに絵筆を持たせたら尋常ではないでしょう」伝次郎がそう答えると、享哲は視線をそらし「人はなかなか生業に打ち込むばかりというわけにもいきませんから……」と言葉を濁して立ち去った。
享哲の処方が効いて伝次郎の頭痛と咳が治まった翌々日の昼過ぎ、東海道を隔てた新銭座町(しんせんざちょう)の髪結い床、藤太郎が剃刀箱(かみそりばこ)を下げてやって来た。髪結い床は出張しないものだったが、以前からの慣例で居つき地主の伝次郎家には三日に一度宇田川町の髪結いが足を運ぶことになっており、それが風邪で寝込んだために藤太郎が代わりに来た次第だった。
伝次郎が髪を梳(す)く藤太郎に、「近ごろ丸屋さんを見かけないが、旅にでも出たのかい」と話を向けてみた。この年一月、丸屋と付き合いのある蘭学者の大槻玄沢が、丹波福知山城主の蘭癖(らんぺき)大名、朽木昌綱(くつきまさつな)から後援を得て、長崎へ旅立っていた。丸屋もしきりに長崎へ行きたがっていた。