◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 後編
勘定奉行の松本秀持の目を引いたものは──。
「へい。もう丸屋なにがしは町内におりません。何でも土田吉次郎(つちだきちじろう)とかいう二本差しに化けました」藤太郎はいかにも侮蔑の感情を込めてそう言い捨てた。
増上寺の西に金地院(こんちいん)という臨済宗の大きな寺があり、その寺地内に土田姓の後家があり、丸屋がそれに入夫(にゅうふ)したのだという。
「案の定、旦那にも話を通しておりませんので。食うや食わずでいた時分から、さんざお世話になっておきながら、所詮そういう義理もへったくれもねえ下郎なんですよ。あの馬鹿野郎、後家に子をはらませたとかで、先方の家では外聞を気にし、丸屋も独り者ですし、入夫ということで丸く納めたところでしょう。絵道具なんざ新銭座町の元の家に置きっぱなしにしたまま、野郎は上機嫌で大小を差し、名まで土田吉次郎などと改め、天井向いて大納言を決め込んでます。カラスが鷹の真似したってカラスはカラス、いずれ羽をむしられ赤裸になって、ほっぽり出されるのがおちでしょう。以前からしょうもねえ下郎だとは思っておりましたが、あんな調子じゃ、ろくな死に方しません」
人の生は人それぞれで、大小を差しそれで満足を得られればそれでよいと伝次郎は思った。入夫という形で丸く治まればそれに越したことはなかった。絵筆を持てば抜群の技量を備えていても、町人の出ゆえ丸屋が何かと割りを食うことがあったことは想像できた。さすがに伝次郎には語ったことはなかったが、丸屋が子どもの時分には狩野派の某(なにがし)から手ほどきを受けたと常々言いまわっているとの話を耳にしたことがあった。格式にこだわる江戸狩野派の名のある絵師が町人の子を弟子にとったりはしないものだった。
しかし、絵であれ詩文であれ芸道に非凡な才を持つ者は、逆に世俗と折り合いをつけるのが難しいところがある。妻子を得れば暮らしの労苦が付いて回る。これまでのようにおのれの身ひとつで生きるのとはわけが違う。これまで好き放題に生きてきた丸屋が、四十路を目の前にして、名字と引き換えに今さら世間並みの暮らしの労苦を引き受けられるのか。おそらくそれは難しい相談だろう。心を病んだりしなければよいがと伝次郎は思った。
明けて天明六年(一七八六)丙午(ひのえうま)の正月十八日、芝三田三丁目から出た火は五丁目までを焼いた。
翌十九日、幸橋門(さいわいばしもん)外から出火、桜田伏見町、鍛冶町などを焼くにいたった。
雨雪降らず、強い北西風が連日砂煙を巻きあげ、乾き切った江戸は、一昨年暮れの大火に続き、いつまた大火が起こってもおかしくなかった。
果たして同月二十二日昼、湯島天神前黒門町から出火し、烈しい北西風にあおられて湯島三丁目お花畑を焼き、神田明神の表門を焼き落とし、湯島聖堂にも火がおよんだ。次いで飛び火は、神田佐久間町、長者町、金杉町、旅籠町と神田川まで延焼し、筋違(すじかい)御門内の小柳町、須田町、通新石町、鍋町、鍛冶町、今川橋、本銀町、十軒店町、本町、室町、日本橋までの東側を焼き尽くした。
東に延びた火の手は、柳原土手下通り、弁慶橋、馬喰町一丁目、鉄砲町、小伝馬町、大門通り、通油町、大伝馬町、本町三丁目四丁目、石町、田所町、人形町、泉町、住吉町、堺町、吹屋町、元大坂町、芳町、甚左衛門町、難波町、浜町川岸通りを全焼し、長谷川町、富沢町、乗物町、堀江町、小船町、堀留、新材木町、伊勢町、瀬戸物町、小田原町、安針町、長浜町、本船町にまで達した。