◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 前編
幕府普請役配下の徳内は千島列島を目指し──
北緯四十二度の福島村ならば早稲(わせ)種であれば稲作も可能であると思われたが、手入れするほどの人手がないため原生林の枝が伸び放題となって陽光をさえぎり、地面が冷えきって満足に稲が育たないのだろうと思われた。徳内を蝦夷地に送り込んだ師の本多利明は、緯度がその地の繁栄の成否を決定すると考えていた。しかし徳内は、必ずしも緯度の測定値のみで耕作の成否は判断できないことに気づかされた。
十二里ほど進んだ先の箱館(はこだて)は、湾に向かって川が四方から流れ込み、充分な水利を得ながら畑作をもっぱらにしていた。麦、粟、稗の穀類から大豆、小豆、大根まで、湾周辺の畑では相応の収穫を上げていた。前年にも、ずっと北に位置するアツケシの運上小屋奥にある山麓で、沢の流れる谷地に野生の稗がみのっているのを徳内は見ていた。
稲作は難しくとも、畑作に打ち込めば飢餓に瀕することはない。先住民に粟や稗を初め作付け可能な穀類の種子を与え、栽培法を教え、農業によって暮らしを立てる利を知らしめれば、蝦夷地もいずれ良国となるに違いなかった。ところが、松前藩は蝦夷地の先住民に穀類の種子を与えることを禁じていた。
確かに大飢饉は天候不順によって引き起こされた。だが、人命よりも金銭を優先する悪政の結末が大厄災を招いたことも明らかだった。弘前藩は、領民に屈強な赤米の稲を作らせず、冷害に弱い白米ばかりを作らせた。南部藩は、稲作よりも醬油の原料となる大豆作りばかりを奨励した。いずれも大坂や江戸に送って金銭に換えやすいという理由にほかならなかった。年貢米も東北の諸藩が金銭を得るために大坂へ廻米し、大凶作になっても領民へ廻す米はどこにもなかった。人命より藩を維持するための金銭を優先した結果の大飢饉である。松前藩も全く同じことだった。松前藩は、内地から来た商人どもからの運上金(うんじょうきん)を頼りとし、漁労へ打ち込ませる必要から先住民に農業を厳しく禁じていた。
蝦夷地の先住民は、物々交換をするのみで金銭を遣わず、おのれの財を貯えようと他人を欺いて貪(むさぼ)るような真似をしない。年貢や租税もないので心を煩わせる必要もない。魚類はいくらでも採れるため、田畑からの食物がないことも気にかけない。かつては着のみ着のままで日々を悠々と暮らしていたはずだった。それが、松前藩の支配下に置かれ、貪欲で俗悪な本土商人の一方的な搾り取りにさらされていた。
先住民アイヌの言葉は片言しか知らなかったが、徳内は松前藩からの通辞役を拒んだ。先住民は和語を話せば松前藩に罰せられるため藩役人や通辞役がいるところではけして話さないが、先住民の集落には和語を解する者が必ずいる。蝦夷本島の奥に踏み入っても先住民の道案内と和語を解せる者を頼れば何とかなることを知っていた。
江戸からの普請役たちが何のために蝦夷地へ来たのかを先住民の首長、乙名たちは知っていた。彼らを抑圧してきた松前藩や搾取してきた場所請け負いの商人どもとは異なり、江戸の普請役は彼らが願う農耕を実現できるよう取り計らうと語った。実際、幕府御用の苫屋(とまや)が昨年アツケシで行った交易は、これまでの飛驒屋がやってきたことが盗賊に等しいものだったことを明かした。それまで飛驒屋が先住民に渡していた品は、水で倍に薄めた酒や混ぜ物ばかりの粗悪な煙草だったことがわかった。アツケシの惣乙名(そうおとな)イトコイやノッカマップのションコらは、江戸からの役人たちに助勢を惜しまぬよう先住民の各村落に通達していた。
(後編へつづく)
〈「STORY BOX」2019年11月号掲載〉