◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第10回 前編
徳内はオロシャ人から三年前の一件を聞くが…
難所の海域を越えてエトロフ島になんとかたどり着いた徳内は、何年ぶりかで出会った舅とその婿とがお互いの無事と再会を確かめ合う姿に、思わず目頭が熱くなるのを覚えた。丸木舟で荒れ狂う海を行き来すれば、いかに航海に慣れた先住民も自然の猛威には勝ち目がない。遠く離れてしまえば再会できる機会は訪れないことのほうが多いだろう。師の本多利明が「人情一枚」と語ったように、人間の情感は民族を超えて変わるものではなかった。
再会の儀式が済むと、大勢の先住民が集まって来た。オロシャ人三人も招かれ酒宴に加わった。用意された濁り酒や料理が日本から来たとわかる塗り物の器で運ばれ、先住民がアイヌの歌を唄い、踊った。オロシャ人もイジュヨがオロシャの軽快な歌を唄い、サスノスコイとニケタが陽気に踊った。「徳内ドノ」とイトコイにうながされ、徳内も馬子節(まごぶし)を唄って興を添えた。
翌日、徳内は、イトコイの勧めによってオロシャ人三人を食事に招くことにした。フリウエンに米飯を炊かせ、焼いた魚と先住民の汁物も用意させた。イジュヨらは箸が使えず、一本箸で不器用に口に運ぶしかなかった。だが、久しぶりの温かな穀物の味覚に三人は何度もうなずき口をそろえて賞讃したのがわかった。
ナイボ村乙名ハウシビの弟はオロシャ語通辞だと聞いたものの、旅に出ているとかで付近にはオロシャ語を話せる者は依然いなかった。イジュヨが少し先住民の言葉を話せるのを頼りに、徳内はフリウエンを交え身振り手振りで会話するしかなかった。
イジュヨは三十三歳、サスノスコイは二十九歳、従者のニケタはチェルチェンスコイの出身で二十八歳だという。徳内がやって来た江戸のことをイジュヨから尋ねられ、はるか南にあり、海を越えた後に歩いて一月半かかる、大勢の日本人が住む将軍の城がある東の都だと話した。しかし、フリウエンの通訳でわかったものかどうかは不確かだった。
イジュヨは、「本国の名は、モスクワまたはオロシャ」と徳内に伝えた。イジュヨはどことなく気品が感じられ居丈高なところがなく、淡々とした声や話し方にも抑えが利いており、ひとかたならぬ知性をうかがわせた。徳内は、オロシャ人といえばなべて尊大で傲岸(ごうがん)な連中であるとの先入観を持っていたがそうではなかった。
徳内は千島列島の島々について尋ねた。イジュヨは、徳内が渡した筆で紙に図を描き、カムチャッカ半島の先端から島々を大小で示し始めた。
カムチャッカ半島の先、オロシャ側から見て第一島がアトラソワ、第二島パラムシル、第三島オネコタン、第四島ハリムコタン、第五島シアシコタン、第六島マツワ、第七島ラスシュワ、第八島ウシシル、第九島ケトイ、第十島シムシル、第十一島ウルップ、第十二島エトロフ、第十三島クナシリ、そして蝦夷本島のノサップ岬を描きノッカマップ(納加麻布)を図示した。また、イジュヨは、カムチャッカの北(シベリア)にはチュクチ人の住むチョウキチコタンがあり、海峡(ベーリング海峡)を隔てたその東に北アメリカの大陸があると話した。
イジュヨがカムチャッカから蝦夷本島までの千島列島を図示し、その主要な島々の名を知っていたのに対して、松前藩士は運上小屋のあるクナシリ島の名ぐらいしか知る者はいない。もちろんエトロフ島まで渡った者もこれまでいなかった。あまりの彼我の差に、徳内もしばし茫然とするしかなかった。
松前藩はオロシャ南下の脅威に何の危機感もいだいていない。今のところは東蝦夷地の先住民も松前藩の法度(はっと)に従っているが、放置したままであれば、ウルップ島ばかりか、やがてはクナシリ島やエトロフ島までオロシャ人が征服するに違いない。先住民の有力な乙名たちがオロシャに付き従い、松前藩ひいては幕府に背くことにでもなれば、大変な事態となる。蝦夷地探索隊を指揮する佐藤玄六郎(げんろくろう)も、蝦夷本島と東西蝦夷地の幕府直轄を考えていた。徳内は、その方向で間違っていない、むしろ早急に幕府領にする必要があると思った。
(後編へつづく)
〈「STORY BOX」2019年12月号掲載〉