◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第1回 後編
『鉢(はち)植えて梅が桜と咲く花を 誰たきつけて佐野に斬らせた』
鎌倉時代、時の執権(しっけん)北条時頼(ほうじょうときより)は、民情を視察するため僧に身をやつして諸国を巡り歩いた。ある冬の夜、上州佐野で大雪にあい、行く手に見えた茅屋(ぼうおく)に一夜の宿を求めた。その家の主(あるじ)は、旅の僧を快く迎え、もてなすものが他にないと大切に育てていた鉢植えの松、梅、桜を惜しげもなく伐り、それを薪にして暖をとらせた。
僧から問われるまま主が語るには、名を佐野常世(つねよ)といい、かつては佐野荘三十余郷の領主であったが、一族の者にすべて奪われ、今はこのように落ちぶれ果てている。しかし、いざ鎌倉という時には自分が一番に馳せ参ずると鎌倉幕府に対する不変の忠誠を語った。
後に北条時頼が諸国の軍勢を招集すると、果たして痩せ馬に乗った佐野常世が真っ先に鎌倉へ現われた。時頼は、佐野常世の行動に深く感じ入り、過ぎし雪夜の礼もかねて三か荘を常世に与え、その忠行を賞讃した。
北条時頼の回国伝説をもとにした謡曲「鉢の木」は、民衆によく知られた演目だった。田沼山城守を斬殺した佐野善左衛門は、佐野常世の末裔(まつえい)だという。「鉢の木」に寄せて、佐野善左衛門をたきつけ田沼山城守を斬らせ、田沼意次の時代を終わらせようと企んだ何者かがいるとの落書だけが、このたびの刃傷沙汰の的を射ていると伝次郎には思われた。
三
四月七日、田沼山城守斬殺の一件につき、殿中でその場に居合わせた者たちの処分が公表された。
目付の松平恒隆と同役の跡部良久が最も重く罷免。大目付の久松定愷と同役の牧野成賢は謹慎。目付の三名、井上正在、安藤惟徳、末吉利隆、いずれも謹慎。
田沼山城守と同行していた若年寄の酒井忠休と太田資愛は将軍に目通りを禁じられ謹慎。同役の米倉昌晴(まさはる)もその日登城していたが、田沼山城守が襲われた時に中之間の戸を閉めたまま部屋に閉じこもっていたことをもって目通りを禁じられこれもまた謹慎。
佐野善左衛門と新番所に控えていた新番組の万年六三郎、猪飼五郎兵衛、田沢伝左衛門、白井主税の四名は、新番組を罷免され小普請組入りを命じられた。小普請組は幕臣のなかでも病弱で職務に耐えぬか無能で使いものにならぬ者ばかりが配属される用済み部屋だった。
結局のところ罷免されたのは目付二人と新番組の四人、残りは謹慎と叱責程度の処分で済んだ。白昼に殿中で二十数名もが居並ぶなか若年寄が斬殺されたにしては、余りにも軽い沙汰としか思われなかった。この件で誉められたのは最初に佐野善左衛門に組み付いて取り押さえた大目付の松平忠郷一人だけだった。松平忠郷は二百石を加増されたという。大目付は三千石高以上の旗本がつく重要な役職で、将軍の代理として大名や役職についている旗本の監察役である。同役の久松定愷と牧野成賢が同じ場所で凶行を目の当たりにしながら、ただ傍観していた。それが単なる謹慎ではあまりに軽すぎた。結局、数百石取りの新番組四人、最も下位の者ばかりに重い処分が下されたことになる。小普請入りでは以後の出世は全く望むべくもないが、彼らとて召し放ちの追放にあい明日の食にこと欠くわけではなかった。こんなことでは江戸市中で何が起こっても不思議はなかった。