◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第4回 前編
前年の十一月、再び江戸の両替商を六百四十三人とする町触れが出された。前年四月にも江戸両替商の人数を六百三十五人と定め、闇の両替商を規制したばかりだった。それでも、銭相場の下落は町衆の暮らしを追い詰めたままで、もぐりの両替商は絶えることなく出現していた。主要輸出品の俵物の勝手売買を極力取り締まり、すべて幕府の管理下で掌握しようとする意図はわかるが、抜け道はどこにでも作られるものだった。
二月も末日の二十九日、丸屋勝三郎が、平秩東作(へずつとうさく)の著した『東遊記(とうゆうき)』の写本を携えて伝次郎の家に来た。
狂歌師で知られた平秩東作は、幕府勘定方組頭(くみがしら)の土山宗次郎(つちやまそうじろう)からそそのかされて蝦夷島の江差に渡り一山当てようと目論(もくろ)んだ。その江差に滞在した天明三年十月から翌年四月までの見聞記だった。
平秩東作が述べんとするところは、『蝦夷島は農作が可能な地で、充分な収穫が見込める。松前藩による漁獲頼みの財政策を改め、本土から農民を移住させて広大な蝦夷島を開拓させれば大いに国益に利するはずだ』というものだった。
伝次郎が興味をひかれたのは、江差からは北国筋や西国筋への船通いの便がとてもよく、越前敦賀(つるが)までは一日の航路、琵琶湖の北にあたる近江の海津(かいづ)までは七、八日で着くという。琵琶湖を渡って京や大坂までも日数はかからず、江差から長崎へ直行するのもさほど難しくないらしかった。しかも、江差から松前藩に献上する運上金は年に七千両にのぼるという。
噂に聞いていたとおり、ニシン漁の不振は深刻で、平秩東作が江差にいた時期もニシンの漁獲は皆無だった。近江商人らの山師どもが続々と蝦夷島へ入り込み、松前藩に金を握らせ、あとさきを考えず手当たり次第に乱獲すれば当然この結末を招く。本土からの商人は金にならないと思えば去っていくだけの話だが、後に残されるのは荒れ果てた山海ばかりとなる。
「実は、蝦夷地探索のため勘定方の普請(ふしん)役が松前に向かったとの話を耳にしました」丸屋がそう漏らした。
蝦夷島の、松前を中心とする渡島(おしま)半島の六十里ほどがいわゆる和人地で、それ以外の広大な範囲を原住の民が住む蝦夷地と呼び習わした。
諸国大飢饉と江戸の大火、相次ぐ厄災と極度の財政難に追い詰められた田沼意次が、針路を向けた先はやはり北方だった。先日、町触れで告示された長崎会所による俵物直接買い取りの件も、蝦夷地対策の一環として定められたのだろうと思われた。
「仙台の藩士から耳にしましたところでは、勘定奉行の松本伊豆守から蝦夷地と北方交易の普請役派遣につき助勢するようとの文書が届けられたとかで、同様のものが松前をはじめ南部、八戸(はちのへ)、津軽の江戸藩邸にも届いたそうです。この大飢饉で仙台藩の領民は三人に一人の死者が出たとか申します。津軽、南部、八戸、いずれも大凶作に見舞われた地で、こんな時に北方探索の助勢を求められても迷惑千万な話だと嘆いておりました」
勘定方の普請役というのは、三十俵三人扶持(ぶち)、お目見え以下の御家人で幕府勘定所の末端に位置した。いわば町奉行所の同心と同等で、諸国に送られ隠密として内偵調査にあたったりする下級役人だった。それでも幕吏は幕吏である。平秩東作のごとき狂歌師くずれの町人が蝦夷島へ内偵に出かけるのとはわけが違った。田沼意次は、幕府の方針として蝦夷島と北方交易路の開拓に乗り出すことを、海路にあたる関係諸藩に公告したことになる。山師どもの総大将が、公儀を楯に蝦夷島開発に踏み出した。
「津軽や南部などの諸藩どころでない。蝦夷島に太古より住み暮らしてきた原住の民にしてみれば、一層やっかいな大盗賊が大手を振って寄せ来ることになる。かつて江差あたりにはニシンの群れが押し寄せ、海面が埋まるほどだったと聞いた。それがまったく獲(と)れなくなった。獣でも、鳥でも、魚でも、原住の民が獲りつくすことはけしてしないはずだ。獲りつくせば自分たちが生きていけなくなることは、彼ら自身がよく知っている。森や川、海、そこに棲む獣や魚貝、海草、天地の生きるものすべてと共に生きなければ生きられない。ところが、本土からの連中は、幕吏であれ、会所役人であれ、皆商人と同じだ。食べるために魚貝や昆布がほしいわけでない。狙いは金銭だけだ。連中は飽くことを知らず、いずれ何でも獲りつくす。その報いは、いつの日か必ず訪れる」伝次郎はそう言った。
(後編へつづく)
〈「STORY BOX」2019年6月号掲載〉