◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第4回 前編

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年の暮れの江戸を大火が襲う。幕府は北方交易開拓の準備を進めていた。

 そもそも拝借金の制度は、天災などによって損害を出し苦境におちいらざるをえなかった大名を、幕府が救済する制度だった。年利が一割二分から一割五分の時代、拝借金は幕府が無利子で大金を貸し出し、しかも年賦での返済を許すという恩恵措置である。幕府が苦境の大名を援助する拝借金制度は、幕府と諸藩を結びつける信頼と忠誠の基礎となるものだった。

 十二年前の目黒行人坂大火で、江戸藩邸の百六十九が焼けた。その折も幕府は、藩邸を焼失した老中に一万両、若年寄には五千両、御用取次(ごようとりつぎ)には二千両、そして他の御側衆にも千両の拝借金を出した。ちなみに老中に昇った田沼意次は一万両の拝借金を得ていた。また屋敷を失った旗本に対しても、禄高に応じて千石取りには五十両、八百石取りには四十五両といった拝借金を拠出した。しかし、それ以外の罹災(りさい)した大名には財政困難を理由に拝借金を出さず、せいぜい参勤交代の遅参を許す程度のことでお茶を濁した。

 幕閣と旗本にのみに拝借金を出し、ほかの被災した大名には一両の拝借も許さなかった。あくまで幕府を優先し、いざとなれば諸藩は切り捨てる。十二年前の目黒行人坂大火で、それまで維持されていた幕府と諸藩の信頼は突き崩された。そして、一年前の拝借金全面停止である。家の祖先が徳川幕府を創設したと自負する譜代門閥(ふだいもんばつ)の大名たちの憤激は、想像に余りあるものだった。諸国大飢饉と物価高騰、そしてこのたびの大名小路焼亡が田沼意次に追い打ちをかけていた。

 幕政を握る田沼意次は、自らの政策を継続させるはずの息(そく)、山城守意知(やましろのかみおきとも)をこの年三月に殺された。にもかかわらず、意次は気落ちした様子もなく登城し政務に励んでいた。一刻も早く田沼政治を終わらせようとする勢力による西尾忠移邸への放火は充分に起こりうる。むしろ、このたびの西尾忠移邸からの出火によって、田沼山城守斬殺も佐野善左衛門(さのぜんざえもん)の私怨から起きた惨劇ではなく、同じ意図から発せられた謀殺だろうとの確信を伝次郎は抱いた。手段を選ばぬ黒い力が確かに動いている。そこに思いいたって伝次郎は慄然とするものを覚えた。

 

     十三
 

 天明五年(一七八五)一月二十九日、田沼意次は、老中首座の松平康福(やすよし)とともに一万石を加増され、これまでとあわせて五万七千石取りとなった。将軍家治(いえはる)の意次に対する信頼は依然ゆるぎもしなかった。前年三月に殺された田沼山城守の室は、松平康福の娘だった。田沼意次は松平康福との間にも深い縁戚関係を築いていた。

 

 二月二十二日、ほとんどの江戸町人と直接かかわりのない奇妙な町触(まちぶ)れが、町年寄役所から各町に廻された。

『長崎から唐船によって輸出される俵物(たわらもの)、煎りナマコ・干しアワビ・フカの鰭(ひれ)・昆布などの海産物を、以後はじかに長崎会所が買い取ることとし、これまでのような長崎俵物問屋への売り渡しを一切禁ずる』というものだった。

 長崎から清国に輸出する俵物は、蝦夷島(えぞがしま=北海道)をはじめ諸国の沿海地方で作られ、長崎の俵物問屋が各地に船を送って買い取る仕組みとなっていた。それを改め、長崎会所の役人と俵物支配人の鮫屋忠兵衛(さめやちゅうべえ)の手代が長崎会所の船で諸国を廻り、これを直接買い取ることに定めたという。

 要するに長崎俵物においても、商人の横流しや抜け荷(密貿易)が横行しており、幕府勘定所の金蔵に少なからぬ損害をおよぼしている表れだった。ちなみに長崎会所は、長崎の市政機関で、長崎で買い取った輸入品を日本の商人に入札で売りさばき、俵物や銅を輸出し外貨を得て、幕府へ運上金を納め、地役人の給料や長崎市政の諸経費などにあてる役所である。むろん幕府勘定所や長崎奉行の支配下に置かれていた。その長崎会所が俵物の集荷に直接乗り出し、会所の雇い船で長崎まで運ぶこととなった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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