◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第4回 前編

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年の暮れの江戸を大火が襲う。幕府は北方交易開拓の準備を進めていた。

 

     十二
 

 十二月二十八日、二人連れの読売りが、見慣れた深編笠に着流し姿で芝神明の境内に立った。伝次郎が読売を買うと、背丈の高いほうが「旦那、ご無事で何よりです」と編笠の下から珍しく親しげな声をかけてきた。大災の後は、一時誰もが人間の顔を取り戻すことがある。

 手に入れた読売によれば、このたびの火元は、常盤橋(ときわばし)内、西尾隠岐守忠移(おきのかみただゆき)邸の長屋、そして八代洲(やよす)川岸の横田筑後守邸長屋との二カ所だという。いずれにせよ内桜田の大名小路屋敷からの失火には変わりなかった。大小名の江戸屋敷もおびただしい数が焼失した。田沼意次(たぬまおきつぐ)の中屋敷も、江戸町奉行曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ)の役宅も全焼した。丸屋勝三郎が何かと世話になっている幕府蘭方医桂川甫周(かつらがわほしゅう)の屋敷も焼失した。

 大小名の江戸屋敷や旗本屋敷は、どれほど焼かれようと、どこからか金が涌き出てきて再建されるに決まっていた。十二年前の目黒行人坂大火でも百六十九を数える大名屋敷と、旗本屋敷の三百余が焼亡したものの、いつの間にか建て直されていた。だが、家を焼かれた数万人の町衆はそうはいかない。この厳寒の季節に命からがら避難して家に戻ってはみたものの、雨露をしのぐ場所もない有様で途方に暮れるだけだった。しかも大火の後の氷雨が降り、焼け残った家々の庇(ひさし)を借りて震えているしか術がなかった。

 芝で焼け残った露月(ろうげつ)町から浜松町の金杉橋までの町家はもとより、裏通りの芝神明宮や増上寺大門近くの町家では、焼け出された人々を空家や空き蔵に入れたり、米や麦、甘蔗(かんしょ)干しなどを少しずつ出し合って芝神明の境内で粥をふるまったりした。赤羽川南の高輪や品川方面の無事だった町家からも義援の金品が続々と届けられ、家主の要蔵ら町役人(ちょうやくにん)はそれを振り分ける作業に忙殺された。

 焼け出されずに済んだ者とすべてを失った者との分かれ目は単なる偶然による。されど災害が起こるたびに露わになるのは、武家と百姓(ひゃくせい)、強者と弱者、富者と貧者、そこに横たわる断層だった。

 町人や農民は自力で家を建て直さなくてはならない。大火の後、材木は一気に高騰し、大工や屋根職人の手間賃も上がる。ただでさえ大飢饉に見舞われ満足な糧(かて)もないこの師走である。しわ寄せを食うしかない者たちの向けるところのない怒りや不満は、つまるところ幕政をとり仕切る田沼意次に向けられる。田沼意次はこの厄災続きをどう乗り切るつもりなのか。打つべき手立てなどもはや見つからないものと伝次郎には思われた。

 このたびの江戸大火で最も窮地に立たされるのは、間違いなく田沼意次である。同じ二十六日、時もほぼ同じく四ツ半過ぎに、大名小路のほど近い二カ所から出火するのも不自然な話だった。田沼意次を追い落とす意図のもとに放火されたこともありうる。江戸城内で田沼意次の息子を斬殺させるような手合いは、民草(たみぐさ)の生命や暮らしを省みることは一切ない。天下国家のためなどとうそぶく連中は、町人や農民など何百人死のうと知ったことではない。人を使って火を放ち大火を招くことも当然やりかねないと伝次郎には思われた。

 とくに伝次郎が引っ掛かりを覚えたのは、遠州横須賀城主で奏者番(そうじゃばん)の西尾忠移がこの大火の火元として名指しされていることだった。三万五千石の大名西尾忠移の室は、ほかならぬ田沼意次の三女である。つまり、田沼意次は西尾忠移の岳父となる。西尾忠移が、老中への出世口となる奏者番に昇ったのはこの年五月のことで、田沼意次の威光によることは明らかだった。よりによってこの難事に西尾忠移の江戸屋敷から出火するとは単なる偶然とはとても思われなかった。

 一方、もう一カ所の火元と記された八代洲川岸の横田準松(のりとし)は知行九千五百石の御側衆(おそばしゅう)で、安永六年(一七七七)の冬十一月にも屋敷から出火した前歴があった。一カ所の火事ならば人足総がかりでの鎮火も可能だが、大名小路でほぼ同時に二カ所から出火すれば、消火に向ける人手を二つに分ける必要が生じ、容易に消火はできなくなる。

 そういえば大名や旗本への拝借金が全面停止にされたのは、一年前の天明三年(一七八三)十二月のことだった。連年の凶作続きで年貢はもとより運上(うんじょう)金の徴収が滞り、幕府財政は火の車となった。そこで幕府は、七カ年の倹約令を出し、大名と旗本への拝借金を全面停止にした。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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