池澤夏樹『スティル・ライフ』/芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第66回】おしゃれな文体・おしゃれな生活

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義! 連載第66回目は、池澤夏樹『スティル・ライフ』について。人と世界の関係を鮮やかに詩的に描いた作品を解説します。

【今回の作品】
池澤夏樹スティル・ライフ』 人と世界の関係を鮮やかに詩的に描く

人と世界の関係を鮮やかに詩的に描いた、池澤夏樹『スティル・ライフ』について

この連載では村上春樹を採り上げたことがありません。芥川賞を受賞していないからです。でも、1979年に群像新人賞を受賞した『風の歌を聴け』は衝撃をもって文壇に迎えられました。ストーリーがまったくない、ただのおしゃべりみたいな文章なのに、知性やウィットが感じられ、何だかおしゃれでハイカラな感じがして、ベストセラーになりました。あんまりおしゃれでハイカラな感じがしたものですから、外国文学の模倣だろうと決めつけられて、芥川賞は落選してしまったのですが。

池澤夏樹は村上春樹より少し年上ですが、外国文学を深く読み込んで、日本人離れしたハイブロウな文章を書くという点では、少し似たところがあります。とくにこの作品の冒頭の、読者に語りかけるような導入部は、外国文学みたいで、選考委員のほぼ全員が、この部分はない方がいいと述べています。でも話が始まると、若者二人が一種のサギ事件みたいな犯行を企てるという内容になって、とりあえずストーリーは展開していきます。厳密に言うとサギではなく、横領した資金で投資をして儲け、横領したぶんは埋め合わせしておくというもので、バレなければ犯罪ではない(?)ということになります。

文章そのものの魅力

とても頭のいい人間が、頭の悪い一般社会の人々をバカにしたような、後味の悪い犯罪ですし、そんなにうまくお金儲けができるのかなと、話そのものの信憑性も疑われるような内容なのですが、この作品の場合は、ストーリーのリアリティーなどあまり問題ではないと感じさせるほどに、文章そのものに魅力があります。いま、魅力があると書いてしまいましたが、村上春樹ほどのクセはないけれども、ややおしゃれで、ハイカラで、どこか人をバカにしているようなこの作品の文章を、選考委員がある程度は評価したことは確かでしょう(だって芥川賞を受賞したのですから)。

ふつうの人に比べて、格段に知識をもった人というのが、世の中にはいます。服装のセンスがよかったり、ワインに詳しかったり、古今東西の文学に通じていたり、経済や社会についての見識をもっていたり、現代科学の最先端の知識をもっていたり……。しかも悔しいことに、その全部を一人の人間がもっていたら、そいつはたぶん、嫌味な人間ではないでしょうか。この作品の導入部に出てくる、犯罪に関わる二人の若者がバーで交わすとりとめもない会話の中にも、チェレンコフ光などという、おしゃれな用語が出てきます。カミオカンデでニュートリノを検出する時に決め手となる淡い光のことなのですが、それで日本人の科学者がノーベル賞を受賞するはるか昔に、小説の中の何げない会話にチェレンコフ光が出てくるだけでも、わあ、おしゃれだ、おしゃれすぎる、とぼくなんかは感動してしまいます。

ぼく自身、バーでチェレンコフ光の話ができるような話し相手がいればと、つねづね思っているのですが、でもこういうおしゃれな会話は、ごくふつうの人にとってみれば、キザでつきあいにくいやつという印象を覚えるのではないでしょうか。村上春樹の文章をおしゃれだと感じるのは、はっきり言って、文学的な田舎者だとぼくは思います。池澤夏樹の文章は、それよりは一段上等だと思いますが、それでもかなりキザっぽくて、何だかななあと思ってしまいます。

池澤夏樹という書き手の人生

結局のところこの作品は、ごくつまらない犯罪を、おしゃれな文体でコーティングしただけの、シュークリームの皮の中に味噌まんじゅうが入っているような、おぞましい違和感を抱かせる小説だとぼくは感じてしまいます。こういう言い方をすると、ぼくがこの作品を批判していると受け取られるかもしれませんが、そういうわけではありません。実のところぼくはこの作品の文体が好きですし、こんな文章を書きたいとつねづね思っています。そして考えてみたら、こんな文章をどこかでぼく自身も書いたことがあるのかもしれません。ずっと昔に書いた短篇に、そんなものがあった気がしてきました(昔のことですから忘れてしまいました)。

池澤夏樹という書き手は、とても魅力的です。実のお父さん(母親の再婚前の夫)が有名な作家だということを高校の時まで知らなかったとか、国立大学の理科系学部を中退しているとか、ギリシャ映画の字幕を担当していたとか、これって都市伝説なのかもしれませんが、ふつうの人の人生と比べれば、とてもおしゃれでハイブロウではないでしょうか。ですから、ふつうの家庭に生まれて、ふつうに育った人には、とても真似のできない人生を生きている人ですし、池澤さんの文体を、ふつうの人が真似ようとするのは、危険です。よい子は真似をしないように、というアドバイスつきで、ぜひ読んでくださいとお勧めします。この文体は、学ぶべき価値のあるものだと思います。

スティル・ライフというタイトルも魅力的ですね。映画や動画に対して、動かない写真のことをスチールと言います。スティル・ライフというのは、動かない生活、動かない人生ということでしょうか。バーでチェレンコフ光の話をするような、そんな生活のことなのかもしれません。

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初出:P+D MAGAZINE(2019/04/25)

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