宴も引けた深夜2時、吉原大門のそばに花魁がひとり。しかし、その顔は……平谷美樹の連続怪奇時代小説『百夜・百鬼夜行帖』第七章の壱 花桐 前編【期間限定無料公開 第71回】
第七章の壱 花桐(前編)3
湯島一丁目の〈おばけ長屋〉は、神田明神の南にある。そこから吉原までは北東に一里弱(約四キロ)。湯島天神裏門坂の丁字路を右に曲がり、下谷広小路のはずれを突っ切って下谷同朋町に入ったところで、左吉は「こっちのほうが近道でござんす」と、路地に入った。
吉原は元和四年(一六一八)から明暦二年(一六五六)まで現在の日本橋人形町の辺りにあった。しかし、賑わいを増した日本橋に、遊廓があっては風紀上問題があるとして、浅草日本堤に移転させられた。以来、それまでの昼間だけの営業であったものが昼夜の営業を許可され、幕府公認の遊廓として繁栄し続けている。
吉原は〈お歯黒どぶ〉と呼ばれる堀で囲まれ、仲ノ町を中心に町並みが分かれていた。その中に、三千とも四千ともいわれる遊女たちが生活していた。
西側に京町一丁目、揚屋町、江戸町一丁目。東側に京町二丁目、角町、堺町、江戸町二丁目、伏見町。西のはずれが浄念寺河岸。東のはずれが羅生門河岸である。いずれの河岸も揚代の安い切見世が並んでいる。それぞれの町は仲ノ町側と河岸側に木戸が設けられていた。
百夜と左吉が吉原の大門の前に着いたのは、朝四ツ(午前十時頃)。泊まりの客との
百夜は、吉原は初めてだったから、閉じた目で黒塗りの冠木門を仰ぎ見た。
それは、大門から真っ直ぐに続く仲ノ町も同様だった。多くの亡魂は漂っていたが、それらは強い恨みを抱いているわけではなく、ただ寂しげな気配の塊となって、浮遊しているのであった。
昼見世が始まるのは昼九ツ(正午)からである。引手茶屋の並ぶ仲ノ町には客の姿もなく、始業のための準備に走り回る
百夜は左吉と共に仲ノ町を歩きながら、奇妙な気配を感じていた。
微かな付喪神の気配である。
人や動物の気配に似てはいるが、どこか硬く冷たい。
大門の側から仲ノ町の奥のほうへ真っ直ぐに続いている。
その気配に意識を集中すると、赤みを帯びた紫色の帯となって百夜の心眼に映った。
付喪神の移動した軌跡である。
「こっちでござんす」
左吉は仲ノ町の真ん中辺りに来ると、左の木戸をくぐった。
付喪神の気配もまた、木戸をくぐって堺町の横丁を進んでいる。
道の左右に出格子が並んでいる。張見世といって、遊女たちを並べて客の品定めをさせる座敷である。今はまだ誰も座っておらず、屏風の前に火の消えた
「ここでござんすよ」
付喪神の気配は土間を通り、二階への階段へ続いている。
そして、一度二階へ上がった気配は再び一階へ降りて、建物の奥のほうへ消えていた。
上総屋の見た花魁は、付喪神かもしれない。
意外にも、たいしてがっかりしていない自分自身に、百夜は少し驚いた。
またしても付喪神か──。そう思わないではなかったが、慣れてしまったのか、付喪神を鎮魂することに意義を見出したのか、いつもより落胆の気持ちは小さかった。
吉原という女にとっての地獄に現れた付喪神。それはおそらく、薄幸の女たちにかかわるモノであろう。そう考えると、微かに胸が痛む。だから、積極的にかかわろうという気持ちが強いのかもしれない。自分もけっして幸福とは言えぬ道を歩いてきたのだから──。
人に化ける付喪神。しかし、その姿は花魁で、顔だけ化かす相手に似せる──。
その正体が何者であるのかという興味もある。
だが──。
百夜はちらりと左吉に顔を向ける。
『今回は付喪神絡みじゃござんせんぜ』
と、言ったときの得意そうな左吉の顔を思い出し、腹が立った。
素直に自分の気持ちを語ってしまえば、左吉はすぐに調子に乗る。
今回も付喪神絡みであったことを棚に上げ、『百夜さんがそういう気持ちになったのはあっしのおかげでござんすぜ』とでも言うに違いない。
いつものように淡々とことを進めよう。
そう決めて、百夜は土間へ足を踏み入れた。
百夜と左吉が土間に立つと、廊下を雑巾掛けしていた中郎が顔を上げた。
「どちらさんで?」
怪訝な表情で百夜を見た中郎は、
「今、番頭さんを呼んで来らぁ」
と言って、中郎は立ち上がった。
「身を売りに来たのではない」
百夜が言った。
「上総屋市右衛門さんに頼まれて来たんでござんす」
左吉が言う。
「上総屋さんに──」中郎がはっとした表情になる。
「やっぱりお怪我をしていたのでございますか?」
「上総屋は転んだのではない。腰を抜かしたのだ。その件について楼主と話がしたい」
百夜の言葉遣いに眉をひそめながら、中郎は、
「分かりやした」
と言って一旦奥に入り、すぐに戻ってきた。
「お上がりください」
百夜と左吉は内証(帳場)に案内された。
頑丈な金具で補強された大きな箪笥と長火鉢が置かれた部屋には、小柄な老婆──亀女が座っていた。白髪頭を達磨返しに結い、珊瑚玉の簪を斜めに挿している。鼈甲縁の眼鏡の奥に、大きな目がぎょろぎょろと動いていた。
「修法師かい?」
亀女は、百夜の胸に下がる結袈裟の房を見ながら言った。
「左様だ」
「その言葉遣いはなんだい」亀女は顔をしかめた。
「女なら女らしい言葉を使いな」
「津軽訛は聞き取れぬと思うてな。江戸の侍の亡魂の口を借りておる」
「津軽訛──、侍の亡魂──? お前、もしかして百夜かい?」
「鐵次から聞いておるか。どうせろくな話はしていまい」
「小娘で、クソ生意気な口を利くが、腕は一流だと言っておった」
「腕は一流というところだけ当たっておる」
「全部当たっていると思うがね」亀女は唇を歪めた。
「それで、そっちは左吉といったかな。お前の主が上総屋から相談を受けたということか?」
「へい。左様で」
「それで、上総屋は何を見て腰を抜かした?」
「自分の顔をした花魁でござんす」
「何?」
亀女は驚いた顔をしたが、次の瞬間、笑いだした。
「それは、腰も抜かすだろうよ。ほかの二人もそうだった」
「ほかの二人?」
百夜は眉根を寄せる。
「そうさ。昨日は扇屋の助五郎。一昨日は金棒引きの松吉。いずれも自分の顔をした花魁を見て肝を潰している」
「全部で三人が、自分の顔の花魁を見たということか」
「〝影の患い〟が
「〝影の患い〟が流行病であるという話は聞いたこともない。仮に流行病だとすれば、罹った者は三人では済むまい」
「〝影の患い〟なのか?」
亀女は百夜を見た。
「上総屋さんは──」と、左吉が答える。
「自分がいつ死ぬのか恐ろしくて、床についたまんまでござんす」
「そのほかの二人の様子はどうだ?」
百夜は訊いた。
「松吉は、怯えてはいるものの寝込むほど体を壊しちゃいない。扇屋は上総屋同様、床から起きあがれぬそうだ。今夜は、寝所と廊下に不寝番を置くと見舞いの者に話していたそうだ」
「二人はどこで花魁に出会った?」
百夜が訊いた。
「松吉は大門のそば。扇屋は堺町の木戸の外」
「そして、上総屋が堺町の木戸の内側、常盤楼か」百夜は肯く。
「おそらく三人は〝影の患い〟ではないな」
百夜は言った。
「え? だって、もう一人の自分に出会ったんですぜ」
左吉が言った。
「〝影の患い〟というものは、そうそうある病ではない。日を置かずに吉原の中だけで三人も〝影の患い〟に罹るということは考えられない。また、〝影の患い〟は、他人にうつる病ではない。それに、もう一人の自分と言うのならば、衣装、髪型まで自分と同じはずだ。格好は花魁。顔ばかりが自分であるならば、別の怪異だ」
「するってぇと、何か化かしてるってこってすかい?」
「おそらくな。端午の節句が終わるのを待って、何かが吉原の大門をくぐった」
「端午の節句が終わるのを待って?」
亀女が言った。
「端午の節句には花菖蒲を飾り、子どもたちは菖蒲の葉を結んだもので地面を叩いて回る。江戸中、菖蒲のにおいが漂っておった。なんらかの目的のあるモノが、菖蒲のにおいが消えるのを待って、大門から堺町へ向かったのだ」
「ああ。物の怪は菖蒲のにおいが嫌いなんでしたね。そういやぁ、
左吉は大きく肯いた。
「ほぉ、節句の前後に
百夜はからかうような口調で言った。
「いえ……、その……、ご贔屓の旦那衆の接待でござんすよ」左吉は慌てて話題を変える。
「〝影の患い〟じゃなけりゃあ、
狢が人を化かす記録は古く、推古天皇の三十五年の春二月、陸奥国で狢が人に化け、歌を唄ったというものがある。
「狢であるか狐であるかはともかく、上総屋には後から〝影の患い〟ではないから、心配しないようにと伝えておけ」
「へい」
左吉は肯いた。
「狢が化かしているにしては」亀女が言った。
「大門から常盤楼までと、道筋がしっかりしすぎではないか?」
「いいところに気がついたな」
「ちゃんとした考えがあって、大門から入り、常盤楼まで来た。そのように思えるのだが、どうだ?」
「おそらく、そうであろう」
「亡魂か?」
「でも」左吉が口を挟む。
「花魁の亡魂なら、なぜ外から大門をくぐって来るんです?」
「大門の外から来たとは限らぬ」百夜は言った。
「
「何かを探す?」
亀女が訊く。
「上総屋は、花魁が消える直前に『違う』という言葉を聞いている。ほかの二人はどうだ?」
「ああ。そういえば『違う』という言葉を聞いたと言っておった」
「花魁は大門から何かを探し始めた。堺町のところまで来たが、捜し物が見つからないので、常盤楼に入った」
「なぜ常盤楼なのだ?」
「大門から仲ノ町の真ん中辺りまでに見つからなかったから、常盤楼にあるかもしれぬと思ったのであろうな。花魁は常盤楼にかかわるモノだ」
「常盤楼で花魁を張っていた者の亡魂か?」
「亡魂と決まったわけでもない」百夜は薄く笑った。
「二人が見た花魁の特徴を知りたい」
「赤い襠。銀色の俎に桐の花の刺繍」
「上総屋さんが見た花魁と同じ衣装でござんすね」
「手掛かりは桐の花だな──。納戸を見せてもらおう」
「納戸でござんすか?」
と、左吉は怪訝な顔をした。その表情には微かに不安の色も浮かんでいる。
納戸は道具類を仕舞っておく部屋。ならば、今回もまた付喪神なのか──?
百夜には左吉のそういう思いが手に取るように分かった。
笑いを堪えながら、百夜はもう一度亀女に言った。
「納戸を見せてもらおう。おそらく、そこに手掛かりがある」
「分かった」
言って亀女は「よっこらしょ」と立ち上がった。
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著者紹介
平谷美樹
Yoshiki Hiraya
1960年岩手県生まれ。大阪芸術大学卒業後、岩手県内の美術教師となる。
2000年「エンデュミオン エンデュミオン」で作家デビュー。
同年「エリ・エリ」で第1回小松左京賞受賞。
「義経になった男」「ユーディットⅩⅢ」「風の王国」「ゴミソの鐵次調伏覚書」など、幅広い作風で著書多数。
本田 淳
Atsushi Honda
1985年東京造形大学油絵科卒業。
(株)日本デザインセンター イラスト部を経て、(株)アイドマ イラスト部入社。
1992年独立。
広告業界に身を置きつつ、2001年より10年間ほど日本南画院展に出品。多数受賞。
初出:P+D MAGAZINE(2019/08/03)