モーリー・ロバートソンのBOOK JOCKEY~もう一つのサザエさん~【第6回】

多様化する日本社会

日本では今、多様化が進んでいる。これらはハード・ヒッティングなパンチとして日本社会に衝撃をもたらしている。最初のパンチは女性の覚醒だ。昭和の経済成長期に典型的だった「サザエさん」のような家庭を持つことに執着しない女性が増え、子供を生むことよりも自己実現を優先させる人口がひたひたと増えている。35歳を超えた後の出産リスクがどうのこうの、したがって逆算で「婚活」をする時期が狭まって働く女性たちは必死になって……ではなく、最初から結婚しない。籍を入れず、シングルマザーとして子育てをしながら働くという選択肢が求められる。一人ではできないので、ナニー(オナニーではなく、育児ヘルパーのこと)が必要になる。そのナニーたちを大挙して日本に「輸入」する必要がある。つまり、移民だ。

さらに、幼い頃から自己実現しまくっている女性たちは男性を「立てる」生き方を望まない。男にとって都合のいい「ディズニーランド」のぬいぐるみを被って生きるのはまっぴらなのだ。つまり、才能ある女性たちは当たり前のように重役や社長、国会議員や総理大臣を目指す。それほど才能がない女性も男性と50-50の決定権を求める。これが少しずつ定着すると、それが新たな常識となり、長く続いた日本の男尊女卑や「構造的な男尊女卑」は崩れ去り、最終的には忘却される。この新しい世界の中で「おーい、お茶!」と役割分担をしてきたオヤジ達が生きる場所はない。世代が若くなるにつれ、男子だからという優遇は徐々に消滅していく。稼ぐのは男、家庭を守るのは女の時代は終わった。性別にかかわらず、個々人が稼ぎ、協力しあって家庭を守るのだ。一夫一婦制ですらなくても良い。シングルマザー同士が子連れでシェアハウスを借り、共同生活の中で子供を育てるという選択肢も今後は一般化するだろう。大正時代に日本のアナーキストが考えていたような男女の理想像が、今、経済的な理由、およびたゆまぬ女子教育の努力が重なって、実を結びつつあるのだ。新しい「サザエさん」には「マスオさん」がいない。そして住み込みの外国人ヘルパーであるフリーダがいる。

次に、議論が日常の中に持ち込まれる。現在日本で「議論」とされるものは「朝まで生テレビ」で左翼と右翼がワーワーと己のポジションを大きな声で投げ付け合うものであり、揚げ足の取り合いでしかない。例えば集団的自衛権の行使が違憲なのかということに左右共に血道を上げて議論し、おびただしい記事や書籍も出版されるが、そもそも東アジアにおける軍事的な状況から逆算して考えるという観点が、往々にして欠落する。東大を筆頭に名門を出た知識人や学者たちは、ひたすら憲法の細かい論議をするのがお好きなのだ。もちろんそんな議論をしている限り、結論は出ない。パラダイム・シフトと呼べる大きな価値観の転換は、そのプロレスのリングの中では起きない。結局、自民党や金持ちが勝つ方向へと予定調和する。オヤジはますますオヤジ化し、老化、硬直化する。社会は活力を失い、ますます移民に頼るようになる。移民が日本で子を産み育て、その子らは日本社会に民族的、人種的、言語的な多様性を強制的に挿入する存在となる。そこからも日本は多様化する。局所的に英語も中国語もスペイン語もアラビア語も流通する日本は、ますます移民が就労しやすくなる。移民人口は年々加速的に増える。日本の永住権や国籍を取得した「新・日本人」が有権者ベースに増えるため、政治も変わる。ロンドンで当選したばかりのムスリムの市長を見れば、そこに日本の近未来を重ねることができる。

男女のパワーバランスが50-50となり、単一民族の意識も終焉する。伝統的な家庭が尊ばれなくなる。若い世代ほど日常会話に英語がまじり、それはかつてのようにカタカナにはめ込んだ「モア・ベター」な擬似イングリッシュではなく、センテンスごとの英語になる。「文春」という言葉は「文藝春秋」という語源が忘れられ「センテンス・スプリング」が標準的な言い回しとなる。センテンス・スプリングが恒例のアクタガワ・アワード・イン・リテラチュアを発表するのだ。選考委員ではなく、アクタガワ・ジャッジによって。

オヤジの人口は、ある時からアホウドリのように激減し始める。その絶滅危惧種のオヤジは賢明に「ルー大柴語」を駆使して周りをサラウンデッドする日本人、新・日本人、定住外国人、及び観光客といわゆるひとつのソーシャライズをするのだ。ユー・ノウ?

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