〈第17回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」
そこには思いも寄らぬ先客がいた。
「ごめん。ちょっと内密で頼まれたことがあって」
「頼まれた？ 今この人――すみません。警部に向かって」
律儀に慎に頭を下げてから、泉谷は話を続けた。
「規則違反とか懲戒処分とも言ってたし、俺らのことがバレたんだろ？ 取引で見逃してもらおうって話？ なんで俺に言わないの？」
「だから、ごめん。一人で何とかできると思ったし、後でちゃんと話すつもりだったんだ」
「後で話すんじゃ、意味ねえだろ！」
この前会った時とは別人のような、激しい態度。黙っていられず、みひろも立ち上がった。
「待って下さい。堤さんは悪くないです。二人のことがバレたら、泉谷さんの異動がダメになっちゃうでしょう？ 堤さんはそれを阻止しようと、室長との取引に応じたんです」
そう言って部屋の奥を指すと、泉谷は慎を見た。しかし慎は、何も聞こえないように前を向いている。堤が泉谷の顔を覗き、なだめるように語りかけた。
「科捜研は、お前の夢だったじゃないか。俺はどうでもいいんだよ。夢なんかないし、警察を辞めたって構わないんだ」
「なに言ってるんだよ。お前だって、ちゃんと志を持って警察官になったんだろ。お前に犠牲になってもらってまで、夢を叶えたくないよ。だったら、俺が辞める。民間にだって、科学捜査をやってる企業はあるんだ」
「バカ言うな！」
堤も叫ぶ。みひろは片手を挙げた。
「待って下さい」
泉谷と堤が振り向いた。
「なんで、どっちかが警察を辞めるって話になるんですか。確認したいんですけど、二人のことが職場にバレても、別れるつもりはないんですね？」
「はい」
泉谷と堤は声を揃えて答え、頷いた。みひろも頷き、「ちょっとすみません」と断って視線を落とした。頭を巡らせ、必死に考える。力を借りたくて慎に視線を送ってみたが無視されたので腹を決め、再び二人に向き直った。
「別れないって決めていて、夢や志を棄てる覚悟があるなら闘って下さい」
「闘うって、警察と？ 飛ばされたら抗議して訴えろってことですか？ あるいは、ネットやマスコミにぶちまけるとか？ だったら、僕らはそういうことは望んでいません」
迷いのない口調で、泉谷は返した。堤も言う。
「一緒にいられれば、それでいいんです。幸せになりたいだけで、何かを変えようとか勝ち取ろうとは思っていません」
「構いません。二人で幸せになることこそが、闘いなんです。だって今の警察では、それが一番の難関で挑戦でしょ？」
語りかけながらみひろは、三日前ここに向かう車中での会話を思い出した。「異性愛者との軋轢」「トラブルの発生は必至」、慎はそう言っていた。それでも泉谷と堤には幸せになる権利があるし、立ちはだかるものに挑んで欲しい。みひろは心からそう思った。
「……それはまあ、確かに」
戸惑い、ためらう様子も見せながらも泉谷が応え、堤も動きはぎこちないものの、「うん」と頷いた。何となく場が収まったような空気になったので、みひろは慎を振り返った。
「とにかく、取引はなしってことで。堤さんも泉谷さんも、このあと何があっても一番大事なものは揺るぎませんよ……あ、でもこの部屋の規則違反は何とかして下さいね」
そう付け加えると、堤は「すみません。解約します」と身を縮め、その姿を見て泉谷が笑った。この二人は大丈夫だ。確信し、みひろも笑顔になりかけた時、慎が口を開いた。
「わかりました。堤巡査部長と泉谷巡査長の違反行為について、監察係に報告します。ただし、いつになるかは未定ですが」
「未定？ なんで？」
みひろは思わずタメ口で訊ね、堤たちも怪訝な顔をする。慎は答えた。
「僕は多くの事案を抱えており、監察係への報告には優先順位を付けざるを得ません。今回のような警視庁の管轄外の地域での規則違反、しかも問題の賃貸契約が既に解除されていた場合、報告は後回しになります」
「でも、僕らの付き合いは？ 問題は、僕がゲイってことなんでしょう？」
堤が訊ねる。すると、慎はこう答えた。
「質問の意味がわかりません。確かに僕は、あなたの問題は規則違反とは別の、もっと根本的なところにあると言いました。しかし『それ』と言っただけで、具体的な名詞や形容詞は一切口にしていません」
堤が呆気に取られ、泉谷は訳がわからないといった様子で堤と慎の顔を見た。みひろもぽかんとしていると、慎はバッグを摑んで立ち上がり、和室を出た。そのまま玄関で靴を履き、ドアを開けて部屋を出て行った。
ドアの閉まるばたん、という音でみひろは我に返った。堤たちへの挨拶もそこそこに、バッグを抱えて慎の後を追った。
「待って下さい」
通路の先を歩く慎の背中に、みひろは呼びかけた。しかし慎は振り返らず、通路を進んで階段を降りていく。アパートの敷地から通りに出たところで慎に追いつき、前に回り込んだ。
「今の話。堤さんたちの交際を、知らなかったことにするって意味でしょう？ 大丈夫なんですか？」
「取り扱いの難しい事案には、直接的な表現は用いず明言を避ける。リスク回避の基本です。それに、情報が得られないなら、堤に利用価値はありません。いずれ誰かが泉谷との関係を内通するでしょうし、その時彼らがどんな闘いとやらをするのか、覚えていれば確認します」
慎はこちらを見下ろし、感情を含まない声で答えた。街灯の明かりが、白く整った顔に影を落とす。
「そんな言い方をしなくても。でも、ありがとうございます」
呆れながらも安堵し、みひろは頭を下げた。が、
「三雲さん。勘違いをしていませんか？」
と返され、体を起こした。慎が続ける。
「僕はあなたに賛同して、堤の規則違反の報告を保留した訳ではありません。むしろ、あなたに失望し、部下としての資質に疑問を抱きました」
「えっ。なんで」
「さっきも言ったでしょう。あなたは僕の指示も許可もなくデータの持ち込みと消去について調べ、堤との取引を妨害した」
「それは申し訳ありません。でも、伊丹係長に辿り着いたのは――」
「安い正義感を振りかざして、僕の邪魔をするのはやめなさい。これは命令です。言っておきますが、規則の何たるかを理解していないあなたに、正義を語る資格はない。加えて、上司の命令に従わないなら、警察官の資格もありません」
みひろの目をまっすぐに見て、言い渡す。いつものお説教とは違う、慎の強く頑なな意志を感じた。だが、納得なんてできない。
「室長だって、中森さんの件で規則を破りまくってるじゃないですか。真相を明らかにするためなら、何をしてもいいんですか？ 上司の命令って言うけど、今の室長は私が信じて尊敬してきた室長じゃない。自分を見失っていることに気づいて下さい」
「それがあなたの真意なら、僕たちはお終（しま）いですね」
慎が言った。声は落ち着いていたが、慎の眼差しはこれまで向けられたものの中で一番冷たかった。みひろは動揺した。しかし、自分は間違っていないとも感じる。
「わかりました」
慎が身を翻し、歩きだした。みひろも慎に背中を向けて歩きだした。駅とは逆方向で、どこに続く道かはわからない。それでも肩にかけたバッグの持ち手を強く握って、みひろは早足で歩き続けた。
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