〈第2回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト2」

警視庁レッドリスト2

今度の調査事案は、職場内いじめ。
二人は吉祥寺署に向かった。

 

 6

 四人が話し合うのを見届け、森と谷口にも形だけの聞き取り調査を行い、みひろと慎は午後三時過ぎに吉祥寺署を出た。前田への報告は笹尾が、「私がしておきます」と申し出てくれた。

 みひろと慎が駐車場に停めたセダンの前に着くと、見送りで付いて来た川浪が言った。

「変なことになっちゃって、申し訳ありません。でも、阿久津さんたちに立ち会っていただいたお陰で、冷静に話し合えました。ありがとうございます」

「よりよい職場の環境づくりが我々の目的ですから、お気になさらず。もう大丈夫ですか? 他に気がかりなことがあれば、この際どうぞ」

 メガネにかかった前髪を払い、慎が問う。きょとんとしてからはにかんだような笑みを浮かべ、川浪は首を横に振った。

「大丈夫です。本当にすみませんでした。職場改善ホットラインにかけた電話も、取り消します」

「でしたら、こちらで手続きしておきます。ご実家のこととか、また何かあったら連絡して下さい」

 みひろも言うと、川浪は「わかりました」と頷いた。少しぎこちないが、口調と眼差しは落ち着いている。大丈夫そうだなと判断し、みひろは話を変えた。

「ところで、お勧めのパン屋さんがあれば教えてもらえませんか? 吉祥寺は有名どころがたくさんありますけど、穴場的なお店をぜひ」

 前のめりで熱っぽく問いかけたみひろに、川浪が身を引く。しかし、慎は何も言わない。確認し合った訳ではないが、敢えて昼食抜きで吉祥寺まで来て、空きっ腹を抱えて聞き取り調査に励んだのは、彼も同じ目的があったからだろう。

 年齢、経歴、趣味嗜好、果ては職務や警察組織に対する考え方まで、慎とはおよそ共通点はないみひろだが、無類のパン好きという点は同じだ。ゆえに都内各所の警察署を訪ねた際には、その土地の名店でパンを買って食べるのがお約束兼お楽しみになっている。

 川浪は「穴場ですか。う〜ん」としばらく考え、顔を上げた。

「キッシュって、パンに入りますか?」

「微妙なところですね。キッシュはフランスの家庭料理で、その語源は、ドイツ語でケーキを意味する『クーヘン』だと言われています。ですからこの説に基づくならケーキ、つまりスイーツにカテゴライズされ」

 待ってましたとばかりに語りだした慎をみひろは「入ります」と遮り、さらに「心当たりがありますか?」と問うた。川浪は「ええ」と頷いた。

「洋服と雑貨のセレクトショップなんですけどカフェもあって、そこのキッシュがおいしいんです。定番のシャケとホウレンソウの他に、季節のキッシュもあります。今なら、菜の花とベーコンかな。タルトがサクサクしてて、ボリュームもたっぷり。場所は南口の丸井の近くで、前に用度係のみんなで行きました」

「私たちも行きます! もうヨダレが出て来ました」

 さらに身を乗り出したみひろに川浪は笑い、店の名前と、他のお勧めの店をいくつか教えてくれた。その全てを慎がスマホにメモするのを確認し、みひろは言った。

「ありがとうございます。さっき笹尾さんが、度々食事会や飲み会をやってるって話してましたけど、本当なんですね。羨ましいです。私も参加したいぐらい」

「ぜひいらして下さい。みんな喜びます」

 笑顔のまま返した川浪だったが、言葉の前に少し間が空いた気がする。さすがに図々しかったかな。みひろが心の中で反省すると、隣で慎が言った。

「お引き留めして、すみませんでした。これで失礼します」

 一礼し、慎はセダンの運転席に乗り込んだ。みひろも挨拶して、助手席に乗る。川浪はセダンが駐車場を出て五日市街道を走りだすまで、頭を下げて見送ってくれた。

「アートメイクとは?」

 川浪が見えなくなり、渋滞にはまってセダンが停まるなり慎は言った。訊かれると思っていたので「ああ」と頷き、みひろは答えた。

「細い針で皮膚に色素を注入していく美容法です。要は顔の入れ墨、タトゥーですね。昔はエステサロンでもやっていましたけど問題になって、今はお医者さん以外は施術できないはずです」

「顔の入れ墨……それは女性にとって、非常に価値または希少性の高いものなんですか?」

「価値や希少性はわかりませんけど、興味は引くと思いますよ。眉毛はメイクの要で、みんな試行錯誤してるし」

「川浪さんがアートメイクの話をしたとたん、空気が一転したでしょう。あの流れが僕にはさっぱり。そもそも遅刻して来たのに眉毛を描いていた、がいじめの原因になるということ自体、理解不能です。遅刻をした男がヒゲを剃っていても、誰も咎めませんから」

「ヒゲを剃るのは身だしなみで、眉を描くのはおしゃれってことなんじゃないですか。メイクでいうと、ファンデーションと口紅までは身だしなみだけど、アイメイクは、自分を飾ったり可愛く見せようとするものだから引っかかるというか。でもアートメイク、しかも何年か前にやったのなら仕方ないよね、みたいな。こういう説明なら、理解できます?」

 頭を巡らせ、できるだけわかりやすく伝えたつもりだったが、慎は前を向いたまま、あっさり、

「まったく。今の話は感情論的な推測であって、説明ではありませんし」

 と返した。

「ですよね〜」

 運転席に顔を向け、みひろは微笑んで見せた。腹は立つが、それ以上に空腹の限界だ。事故でもあったのか渋滞は続き、セダンはのろのろとしか進まない。

 バッグからペットボトルのミネラルウォーターを出して飲み、お腹と気持ちを落ち着かせてから、みひろは改めて口を開いた。

「女は些細な理由で怒ったり恨んだりする分、些細なきっかけで気が治まるってことです。理屈じゃなく、その場の空気や気持ちにはまれば、腑に落ちるんです。私が前に働いてた通販会社のカスタマーセンターも女ばっかりで、あの手のもめ事はしょっちゅうでしたよ。とくに川浪さんのところは、警察っていう男社会の中にある女の園でしょ。良くも悪くも、関係が濃くなるんじゃないですか」

「男社会の中にある女の園ですか。比喩としては的確ですね」

「どうも。豆田係長が言ってた、『これまでとは別の意味で、厄介』ってこういうことだったんですね。で、結論として、今回の案件はどうなるんですか? 川浪さんは職場改善ホットラインへの電話を取り消すって言ってたし、笹尾さんたちも謝ったし、さすがに懲戒処分と赤文字リスト入りはなしでしょう?」

 不安を覚えつつ問いかけると、慎は首を縦に振った。

「ええ。念のため、しばらく前田係長に見守ってもらいますが」

「そうですね。川浪さんの家のことが心配だし、笹尾さんはちょっとはりきりすぎてる感じでしたから。『何かあったらその場で言い合いませんか?』なんて提案しておいて、しょうもない誤解と思い込みでトラブってるし。矛盾してるなと思ってたんですよ」

 ほっとして、みひろは膝の上のバッグを抱え直し、前を向いた。

「上司としては、三雲さんにあのはりきりを見習ってもらいたいところですが」

「そう言われると思ってました……ところでこの車。吉祥寺駅南口に向かってるんですよね。キッシュのお店に行くんでしょう?」

 車窓から通りの先を窺いながら問うと、慎は、

「愚問です」

 と言い放ち、前髪を掻き上げた。「はい」とみひろも力を込めて頷いた時、ようやく車列が流れ始めた。

(つづく)

 


「警視庁レッドリスト」シリーズ連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
著者の窓 第6回 ◈ レ・ロマネスク TOBI 『七面鳥 山、父、子、山』
鳥居徳敏『ガウディ』/圧倒的魅力に満ちた独創的な建築様式