〈第6回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト2」

警視庁レッドリスト2

宗教団体・楯の家から届いた脅迫。
慎は対策に動き出す。

「その通り。交通事故は人身事故と物損事故に分類され、人の体や生命に関わるものは全て人身事故とみなされます。一方物損事故は、電柱やガードレールなどが破損しただけのものを指します。事故発生後は通報を受けた交通課の警察官が臨場し、物損事故と判断すれば物損事故報告書の作成のみで処理します。人身事故と判断した場合は実況見分が行われ、実況見分調書を作成し、被害者・加害者双方から供述調書を取って検察庁に送致します」

 前を向いて運転を続けながら、慎は淀みなくそう説明した。感心し、みひろは「お見事」と拍手したが、慎に冷たく「警察官としての常識で、称賛は不適当です」と返された。

「他にも物損事故は運転免許の違反点の加点はなく、刑事及び行政処分の対象にはならない。対して人身事故は行政・刑事・民事の三つの処分が科せられる等々がありますが、今回の事案には無関係なので割愛します」

 さらにそう続け、慎は運転席の窓を開けて前方を窺った。渋滞は続き、車はのろのろとしか進まない。通りの左右には、さっきの県道と似たような風景が広がっている。朝のラッシュアワーは終わっている時間なので訝しく思い、みひろもフロントガラス越しに前方を窺った。

「今回の事案って、『懲戒処分の指針』の『不適切な異性交際等の不健全な生活態度をとること』に抵触する可能性があるんですよね。またこのパターン? って感じですけど」

「警察庁の発表によると、令和二年中に懲戒処分になった警察職員は二二九名。そのうち異性関係が事由のものは九十一件と、二位の窃盗・詐欺・横領等の四十件に倍以上の差を付けてトップです」

「数字の問題じゃなく、私が言いたかったのは『もういいんじゃないの?』ってことで」

 みひろは持論を述べようとしたが、慎はそれを、

「いえ、数字の問題です。異性交際や生活態度など、抽象的で曖昧な行為だからこそ個々の事情や心情に囚われず、データ化して減少に努める必要があります。加えて今回の事案、つまり水野鷹也巡査によるものと疑われる行為は警視庁内の規律違反だけではなく、違法行為、すなわち犯罪です。しかも疑いが事実なら、被害者の身に危険が及ぶ可能性が高い」

 と、遮った。「それはそうなんですけど」と返したみひろだったが納得できず、口を尖らせて傍らの窓に目を向けた。

 急に視界が開けて、大きな交差点に出た。傍らの横断歩道の脇に制服姿の警察官が立ち、赤い誘導棒を手に通行人と車を整理している。その後ろにはリアガラスに赤字で「通行止め」と書かれたパトカーが停まり、路上にオレンジ色と白の横縞のセーフティコーンが置かれていた。そしてその奥には、フロント部分がぐしゃりと潰れた銀色のミニバンと、向かいの路上に転がるオートバイが見えた。ミニバンとオートバイの周りには大勢の警察官がいて、背中に「警視庁 交通捜査」という文字が入ったスカイブルーの制服を着た交通捜査係の係員の姿もあった。

「渋滞の原因は事故だったんですね。当事者はいないみたいだから、救急搬送されたんでしょうか」

 現場に目を向けたまま、みひろは言った。慎が返す。

「人身事故ですね。ちなみに警察の通信指令室が一一〇番通報を受理し、パトカー等に指令して警察官が現場に到着するまでの所要時間をリスポンス・タイムと言います。警察白書によると、令和元年中のリスポンス・タイムの全国平均は八分九秒でした」

「常識」「称賛は不適当」とか言っておいて、思い切り自慢口調なんだけど。うんざりしつつも、みひろは「はあ」と返し、事故車両の写真を撮ったり、地面にかがみ込んだりしている交通捜査係員たちの中に水野の姿を捜した。しかし交差点を過ぎると車は流れだし、現場は見えなくなった。

 事故現場から十分ほどで、町田北署に着いた。広い駐車場にセダンを停め、みひろは慎と署の建物に入った。

 受付で慎が名乗ると、すぐに一階の奥の署長室に通された。待っていたのは署長の高橋警視と警務課長の柴崎警部、交通課長の多々良警部。三人とも笑顔で歓迎とねぎらいの言葉を口にしたが、室内に流れる空気はぎこちなく白々しい。いつものことで、みひろももう慣れっこだ。

 みひろと慎が部屋の中央に置かれたソファに座ると、向かい側のソファの後ろに立った多々良が言った。

「事故係長の会川は現場に出ておりますので、後ほどご挨拶させます」

「人身事故があったようですね。先ほど見かけました……多々良課長。座って下さい」

 慎に促され、多々良は戸惑ったように隣に立つ柴崎と、眼前のソファに座った高橋を見た。多々良は痩せ型で、白髪交じりの髪を七三に分け、柴崎は小太り。高橋は大柄で、銀縁メガネをかけている。柴崎と高橋も戸惑ったような顔になり、室内の空気がさらにぎこちなくなる。小さく微笑んで、慎はこう続けた。

「我々の目的がよりよい職場の環境づくりのための聞き取り調査であることは、ご存じかと思います。今回の来訪にあたり本庁人事第一課監察係より、こちらの交通課が職場環境に問題を抱えていると情報を得ました。問題発覚の端緒は、交通課長から監察係への部下に対する調査依頼とも聞いています。それが事実なら我々が対処すべき事案となりますが、いかがでしょう?」

「その通りです。署長と警務課長に相談の上、私が監察係に通報しました」

 多々良が答え、柴崎と高橋もそのことかと納得した様子で頷く。

 高橋に促され、多々良はソファに座った。慎はバッグからファイルとノートパソコンを出し、ローテーブルに載せた。みひろも自分のバッグからファイルを出す。

「情報によると、ひと月ほど前、署長宛てに『町田北署交通課の水野鷹也が、町田市町田本町在住の生田彩菜にストーカー行為をしている』という内容の匿名の投書が届いたそうですね。署長から報せを受けた多々良課長は水野巡査と生田さんから話を聞いた。間違いないですか?」

「はい。二人は二カ月前に生田さんが起こした物損事故に水野が対応したことで、面識を得たそうです。その後、水野は生田さんの勤務先の飲食店を訪れるようになりましたが、ストーカー行為は否定。生田さんは『尾行されたり、見張られているような気配は感じるが、犯人を見たことはなく心当たりもない』と話していました」

 神妙な顔で多々良が説明し、慎は「なるほど」と返して聞いた話をノートパソコンに入力した。その姿を高橋と柴崎が神妙な顔で見守り、室内に慎がキーボードを叩く音が流れた。自分も何か言わなくてはと思い、みひろは口を開いた。

「では、現状では水野さんのストーカー行為の証拠はなく、ストーカーの存在自体、事実かどうかわからないということですね。ではなぜ、監察係に調査を依頼したんですか?」

 非違事案のほとんどは警察内部からの内部通報、略して内通で発覚する。それは監察係や職場改善ホットラインへの電話だったり、匿名の投書だったりするが上司が部下を、しかも明確な証拠がない状態で、というのは異例だ。

 気をつけたつもりだったが、みひろの口調には責めるようなニュアンスが含まれていたらしい。多々良は一瞬口ごもってから、こう答えた。

「水野は将来有望な警察官で、彼の主張を信じています。ただ何かあってからでは遅く、投書をした人間の動きも気になります。マスコミやネットに『警察に忠告したのに無視された』『身内の犯罪を隠蔽した』と訴えられると厄介ですし、署の面目に関わります」

 最後のワンフレーズは、高橋をチラ見して言う。その姿に、みひろはピンときた。

 ここに来る車中で目を通した資料によると、署長の高橋は今年六十歳で、来年の三月三十一日をもって警視庁を定年退職する。警察幹部の再就職先は定年前の階級とポストで決まり、警視正で県警本部長または署員数三百名以上の大規模署の署長だった者は、通常地元の大手民間企業や自治体、公益団体の顧問・所長に迎えられる。高橋は警視で町田北署は署員数約二百五十名の中規模署だが、それでも部長や理事などのポストは確実だ。しかしこれは残り約一年を問題なく過ごせたらという話で、そのためには署員の不祥事、ましてやストーカーなどというスキャンダラスな犯罪は断固回避しなくてはならない。

 多々良課長にプレッシャーをかけて、内通させたんだろうな。本当は水野さんを退職させたいけど、それはそれでパワハラになるし、投書をした人へのパフォーマンスも兼ねて、監察係に調査をさせようと考えたのね。そう頭に浮かび、みひろはしらけた気持ちになった。多々良に「そうですか」と返しつつ、高橋を見る。ごつい顔には年相応のシワやたるみがあるのに、五分刈りの髪は不自然なほど真っ黒だ。

 百パー染めてるわよね? 床屋さんでも、ヘアカラーってやってもらえるの? まさか、家で自分で染めてるとか? みひろの頭に今度は、高橋がビニール手袋をはめた手でカラーリング剤を付けた櫛を持ち、真剣な顔で鏡を覗いている姿が浮かび、噴き出しそうになる。高橋と多々良、柴崎が怪訝そうにこちらを見た。隣で咳払いの音がして、慎が言った。

「では、調査に取りかかります。水野巡査を呼んで下さい、それと、届いた投書と生田さんの事故の関係書類を拝見したい」

「了解しました」

 多々良が頷くと、慎は荷物をまとめて立ち上がった。みひろも急いでファイルとバッグを抱え、ドアに向かう慎に続いた。

(つづく)

 


「警視庁レッドリスト」シリーズ連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
◎編集者コラム◎ 『閉じ込められた女』著/ラグナル・ヨナソン 訳/吉田 薫
◎編集者コラム◎ 『警視庁殺人犯捜査第五係 少女たちの戒律』穂高和季