【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第17話 呪いの万年筆事件――どえむ探偵秋月涼子の屈辱

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第17回目は「呪いの万年筆事件」。「事件」という響きが、想像力を掻き立てます! そして、「どえむ探偵秋月涼子」が味わう屈辱とは……? 万年筆とSMがどのように繋がるのか、ミステリアスな展開に目が離せません!

1

真琴さんがこの部屋に入ってから、もう三十分は経っただろう。そのあいだ、萩原和人くんと目が合ったのは、二度か、三度か――和人くんはとにかく一心不乱に原稿に取り組んでいる。会話をするあいだも、ほとんどこちらを見ない。

といっても、ただひたすら原稿用紙にのみ視線を集中させている、というわけでもない。真琴さんのほうは見ないけれども、視線はけっこう動いているのだ。原稿用紙の左側には、一冊の文庫本が広げてある。放っておくと閉じてしまうため、クロームメッキの施された、何やらしゃれたデザインの二つの文鎮で、ページを固定してある。和人くんは、そのページをしばらく見つめては、おもむろに右側に置いてある五本の万年筆――それぞれボディの色が異なる――のうちの一本を手に取り、さらさらと文字を書き記していく。

数行書くと、万年筆を元に戻し、また文庫本に目を移す。そして、次は別の万年筆を手に取って、数行書き進める。五本の万年筆には、ボディの色に合わせて黒・赤・青・緑・黄色のインクが詰めてあって――だから、数行ごとに色の変わる妙な原稿が一枚、また一枚と溜まっていくのである。

文庫本のページをめくるとき、新しい原稿用紙に進むとき、そしてもちろん万年筆を取り換えるとき、いちいち作業が中断するので、どうもそれほど効率的とはいえないようだ。

「新宮先輩、どのくらい読みました?」

和人くんは、やはりこちらを見ないまま問いかけた。

「さっき聞いたばかりじゃないか」

「で、どのくらい?」

「今、二十三枚目だよ」

「どうです? 傑作になりそうでしょう?」

「うん。なかなかおもしろそうだ」

「でしょう? この万年筆を使い始めてから、次々にアイデアが湧いてくるんです。本当に不思議ですよ。ひょっとしたら、ミステリー史上に残る傑作ができるかもしれません」

「そう……だな」

「この三日で、もう二百枚以上書いたんです。今、二百三十五枚目です」

「その件なんだけどね、和人くん」

「なんです?」

「今度の『濃夢』は特大号だとはいっても、一人当たりの担当ページは十五ページしかないんだよ? だから、そんな長編を一挙に載せることはでき……」

「そんなこと、わかってますよ」

和人くんは、苛ついた口調で真琴さんの言葉を遮った。いつもヘラヘラしている和人くんにしては、全く珍しいことだ。

「今度の『濃夢』には、冒頭部分だけ載せればいいでしょう。そのあと連載にするんです。ぼくはまだ二年なんだから、卒業までには完結しますよ」

『濃夢』というのは、聖風学園文化大学ミステリー研究会(ミス研)で出している部誌の名である。新宮真琴さんはそのミス研の三年生。萩原和人くんは一つ下の二年生である。

これから二か月ほど先の十一月の終わりには、学園祭が控えている。その学園祭に向けて『濃夢』特大号の編集が進みつつあり、和人くんはその『濃夢』に掲載されるはずの新作ミステリーの執筆に取り組んでいる――はずなのだが――

2

ありていに言うと、和人くんは既に名作として知られている著名な作品を、ただひたすら書き写しているだけなのだ。それも五色のインクを詰めた万年筆をとっかえひっかえしながら、目がチカチカするような原稿を量産している。狂ったのか?

和人くんが書き写しているのは、日本ミステリー史上に名高い、鮎川哲也の『りら荘事件』。この選択は、なかなかセンスがいいと思う。しかし、ミス研の一年間の活動の集大成――といっても大したことはないが――に、まさか明らかに盗作とわかっている作品を載せるわけにもいかない。

「そういうことなら、今そんなに頑張らなくてもいいんじゃないか」

蘭子さんから、「くれぐれも若さまを悪く刺激しないように」と釘を刺されている真琴さんは、用心深く言葉を継いだ。加賀美蘭子さんというのは、ミス研の四年生。和人くんの許嫁である。結婚すれば和人くんよりは二つ上の姉さん女房になるはずの人であるが、日ごろから和人くんのことを「若さま、若さま」と呼んで、下にも置かぬもてなしをしている。それには先祖伝来の事情があるらしい。

蘭子さんの加賀美家はこの土地では有数の大金持ち。そもそも真琴さんたちの通う聖風学園文化大学も、加賀美家が経営しているのだが、その加賀美家は、江戸時代の半ばころから和人くんのところの萩原家に、ずっと世話になってきたのだそうな。萩原家は先祖代々、昔々このあたりを治めていた大名の家老をやっていて、明治維新でその大名が東京に行って華族になったあともこの土地に残り、加賀美家と二人三脚でいろいろと――何がいろいろなのか真琴さんはよく知らないが――やってきたらしい。

ともかくその加賀美蘭子さんから重々言われているので、真琴さんはできるだけ優しく話しかけた。

「この二・三日、ろくに寝ていないって聞いたよ。少し休んだほうがいいんじゃないか。朝からずっとやってるんだろ? もう夕方だよ?」

「でも書けるときに書いておかないと……ぼく、今、なにかが来てる感じがするんです。憑かれたような気がするくらいです。とにかく、どんどん着想が湧き上がってきて……この万年筆を握っていると、次に何を書くか迷うということがないんですよ。不思議だなあ」

そりゃ書き写しているだけなんだから、迷うこともないだろう――そうは思ったが口には出さず、真琴さんはさりげなく話題を変えた。

「サイフォンで淹れたコーヒーを、ご馳走してくれるっていう話じゃなかった? わたしは、とても楽しみにしているんだけど」

「ああ、そうでした。そうでしたね」

「少しくらい、休んでもいいんじゃないかな。原稿用紙も、その万年筆も、逃げ出しはしないよ?」

「ええ、でも……」

「わたしは一応、君のお招きに預かって、ここに来たはずなのに」

ここ――というのは、萩原邸のこと。真琴さんは、同性の恋人である新宮涼子とともに、萩原和人くんの家に招かれた体裁になっている。今、萩原家の住人はこぞって温泉旅行に出かけていて、残っているのは和人くん一人なのだ。

「さっきから、放っておかれているようで、寂しいな」

普段の真琴さんなら、決してこんな媚びたような言い方はしない。そもそも寂しいなどという感情を、あまり感じない性なのである。要するに嘘をついたわけだが、嘘というものはかえって人の心を動かすことがあるらしい。

「そうですね。失礼しました」

和人くんは立ち上がると――

「新宮さんは、まだサイフォンを見たことがないんですって? 初めて見ると、けっこうおもしろいと思いますよ」

「楽しみだな」と、真琴さんも立ち上がった。

3

真琴さんは、和人くんをキッチンへ連れ出すと、涼子と蘭子さんの待機している離れへと報告に戻った。

「とりあえず、キッチンに移動させることには、成功しましたよ」

「ああ、よかった」と、蘭子さんはソファからすぐに立ち上がった。

「わたしたちが行っても、大丈夫かしら」

「大丈夫でしょう。呼んできてほしいって言ってましたから。これからコーヒーを淹れるそうで、張り切ってます」

「じゃ、行きましょう」

「お姉さま、さすがですわ」

涼子も、続いて立ち上がった。

「蘭子先輩もあたしも、何度もチャレンジしましたけど、和人くん、ちっとも動こうとはしなかったんですのよ。それで……相変わらず、ひたすら本を写していましたの?」

うん……と頷くと、真琴さんは涼子の耳に唇を寄せて、そっと囁いた。

「イカれてるよ、いろんな意味で」

4

真琴さんたちがキッチンへ行くと、和人くんは戸棚から、カップやら皿やらを取り出しているところだった。それからアルコールランプ。コーヒー豆。そのコーヒー豆を挽くのに使うという、取っ手のついた小箱のようなもの。

あちこちバラバラにしまってあるせいで、幾つかの戸棚のガラス戸を開け、引き出しを開け、道具を次々に取り出している。驚いたのは、蘭子さんが実にさりげなく、それらをきっちりと閉めて回るところ。和人くんは、そのことに気づきもしないようだ。それとも、いつものことだから慣れてしまっているのか。

真琴さんは、また涼子の耳元に囁いた。

「見てごらん。加賀美先輩のかいがいしいこと。涼子も少し見習わなくっちゃ」

「お姉さまったら、意地悪ばかりおっしゃって」

実は、真琴さんと涼子とでは、どちらかというと涼子のほうがだらしないところがある。冷蔵庫のドアを閉め忘れたりして叱られるのは、涼子のほうなのだ。

「もしお姉さまがあんなふうだったら、涼子だって後始末をしてまわりますわ。でも、お姉さまはいつだって、きちんとしていらっしゃいますでしょう?」

「じゃあ、これからは、わざとあちこち閉め忘れたりしてみよう。そして涼子がちゃんとわたしの後始末をしてくれるかどうか、検査してみるね」

やがて、和人くんがサイフォンの実演を始めた。

サイフォンというのは、なかなかおもしろい。下に置いてあるフラスコのようなものから、上のガラス玉のようなところに湯が登っていくようだが、どういう仕組みになっているのだろう。真琴さんがそんなことを思っていると、和人くんがアルコールランプの火を消した。今度はコーヒーが上から下へ滴り落ちてくる。

「ほう」

――と感心しているうちに、部屋中にコーヒーの強い香りが立ち込め、和人くんも次第に落ち着いてきたようだ。

「サイフォンじゃ一杯ずつしかできないから、わたしたちはドリップでいただきましょう。それとも、ココアのほうがいいかしら。若さまも、そのほうがいいんじゃありません? 少し眠ったほうがいいと思います」

蘭子さんがそう勧めると、和人くんは案外素直に――

「そうですね。ちょっと疲れたかも」

和人くんは、蘭子さんが自分の婚約者だからといって、横柄な口をきいたりはしない。他の先輩に対するのと同じように、だいたいは敬語を使っている。そのあたりは真琴さんも好感を抱いているところ。

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