【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第27話 メデューサはポセイドンに愛される―妖女メデューサの冒険⑥
人気SM作家・美咲凌介による書き下ろし掌編小説・第27回目は「メデューサはポセイドンに愛される―妖女メデューサの冒険⑥」。大好評のこのシリーズ。今回でメデューサの冒険は終わりを迎えます。突如現れたポセイドンの狙いとは……? メデューサと共に旅してきたペルセウスとの別れに胸を打たれます。
メデューサ……ギリシア神話に登場する化け物。ゴルゴン三姉妹の一人。その目は宝石のように光り輝き、その姿を見た者は石に変えられる。もともとは類いまれな美少女であったが、不遜にもアテナ神と美を競ったため、呪いを受けて自慢の髪を蛇に変えられた。イノシシの歯、青銅の手、黄金の翼を持つとも伝えられる。のちにペルセウスによって退治された。斬り落とされたメデューサの首からは、天駆ける馬ペガサスと黄金の剣を持つ化け物クリュサオルが生まれた。この両者は海神ポセイドンとの間にできた子であるともいわれる。
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「どうして今すぐに助けないの?」
メデューサがそう尋ねると、ペルセウスは面倒くさそうに
「今助けるとなったら、あの連中を殺さなきゃならないだろ? でも王様は、神官たちと表立って喧嘩したくはないんだよ。神官たちの言う通りに、アンドロメダを生贄に差し出した。だが、どこの誰とも知らない奴が姫をさらって、おまけに化け物ケートスも退治して、またどこへともなく行方をくらました、だから俺は何も知らん。……王様としては、それでごまかすつもりなんだ。だから、アンドロメダを助けるのは、連中がいなくなってからだ」
「そのケートスって化け物のことだけど、勝手に退治して大丈夫なの? ポセイドン様のお怒りを買ったりしないでしょうね?」
「あの神官たちはインチキだよ、メデューサ。お前もそう言ってたじゃないか」
メデューサとペルセウスは今、ギリシアの地を遠く離れ、エチオピアにいる。辿り着いてから、もう三か月ほどが過ぎたか。最初は人々の多くが黒い肌をしていることに驚いたが、今ではそれにもすっかり慣れてしまった。それに、この国にはメデューサたちと同様、ギリシアから来た者も多い。旅人を歓迎する国柄のようだ。ペルセウスはゴルゴン退治の英雄――嘘っぱちだが――として王族たちにもてはやされ、今では王とも親しく語り合う仲になっていた。
そこで聞いてきたのが、こんな話。
エチオピアの王ケーペウスは、カシオペアという美貌の妻を持っている。このカシオペアが失言をした。自分は海の精霊――海神ポセイドンの侍女たち――よりも美しいと自慢したのである。これに怒ったポセイドンが、カシオペアの娘アンドロメダを、化け物ケートスの生贄として差し出すよう命じた、というのだ。少なくとも、ポセイドンの神殿を支配する神官たちは、そう主張している。
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「なんだか、似たような話を聞いたことがあるなあ」
ペルセウスが、にやにやして言った。
「メデューサ、お前も自分はアテナ様より美しいなんて言って、罰を食らったんだろ?」
「あれは違うのよ、ペルセウス。あなただって知っているでしょう? 男たちは私をアテナ様みたいにチヤホヤする。そう言っただけなの。あのアテナ神殿の巫女様の話だと、それだけで十分に不敬だっていうんだけど……どうなのかしら? 神様って、ずいぶん心が狭い気がするわ」
「まあ、それはそれとして……」
ペルセウスは、少し考え深げな顔つきになった。
「理由はよくわからないが、王様は今のところまだ、神官たちと直にぶつかりたくはないって言うんだ」
王族と神官たちのあいだには、なかなか複雑な関係が横たわっているらしい
「でも、自分の娘は助けたいし、それに、毎年毎年、生贄を要求する化け物ケートスとやらも、この際始末してしまいたい。そこで、このゴルゴン殺しの勇者ペルセウスに、白羽の矢が立ったというわけ」
「それでご褒美は?」
「今度こそ、たんまりいただける。この国はずいぶん豊かだからな。でも、黄金や宝石は全部お前にくれてやるよ、メデューサ。俺はあのアンドロメダがいただければ、それでいい。王様は、無事ケートスを退治して姫を救い出したら、結婚も認めるし、姫を旅に連れ出してもいいって言ってるんだ。なかなか話のわかる爺様だ」
「だって、こっそり助け出すのだったら、国の中には置いておけないじゃないの? それにしても、あなた、ついこのあいだまで、黒い女なんてまっぴらだって言ってなかった?」
「あれは間違いだった。白くても黒くても、女はいいものだ。それに、あのアンドロメダは特別だよ。ただ心配なのは、お前のことだ、メデューサ」
「なに?」
「あの子と俺が結婚するってことになると、お前の立場というか、気持ちというか……やっぱり嫉妬というものがだね……もちろん、俺はアンドロメダと結婚しても、お前を見捨てるつもりはなくて……」
「バカバカしい」
メデューサはペルセウスの心配を、ごく簡単に片づけてやった。
「それより、ほら……連中、帰って行くようよ」
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二人は海中に突き出た大きな岩陰から、海岸のほうを見ている。海岸といっても、海はいきなり深くなる。砂浜はほとんどなく、岩だらけだ。その中でもひときわ高く、崖のようにそそり立つ巨大な岩の中ほどに、小さな――といっても、人が十人ほど隠れられるくらいの大きさはあるが――穴があいている。その穴に祠がしつらえられており、入口のところに一人の裸の少女が括られていた。それがアンドロメダだった。
少女を拘束した男たちが、ちょうど今、立ち去るところだ。
ペルセウスが立ち上がった。
「よし、そろそろ行くか。今日も暑くなりそうだなあ」
空はよく晴れている。夏の盛りだった。まだ日が昇ってそれほど経っていないのに、陽光は既に焼けつくような激しさだ。午後になれば、もっと強烈になるだろう。
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「そのケートスっていう化け物は、いつ来るの?」
祠を目指して歩きながら、ペルセウスに尋ねる。
「はっきりとはわからない。でも、毎年だいたいこの時期にやってくるそうだ」
「どんな化け物?」
「どんな奴だろう? でかくて黒いって話だけど、楽しみだ。なにしろ化け物に会うのは、初めての体験だからな」
「なに言ってるの? 私も化け物じゃないの」
「ああ、そうだった」
ペルセウスは、短く笑った。
「すっかり忘れてたよ。それにお前は、人を食わないし」
「人を食う化け物なんて、本当にいるのかしら」
「でも、これまで何十年も、毎年毎年、生贄をささげてきたっていう話だぜ。ただこれまでは、どうせ死刑になるような奴を選んできたのに、今年だけはお姫様を差し出せっていうのが怪しい」
「どうせ神官たちが、なにか悪だくみをしてるんでしょうよ」
メデューサは今までに、数十の国を巡ってきた。ペルセウスといっしょになってからも、十いくつかの国を旅してきた。そして、新しい国に行き着く度に神殿を訪ねてみたのだが、本当に神々と意志を通じることのできる神官や巫女は、ほとんど存在しなかった。ペルセウスと知り合った国で出会った巫女だけは、本物だったように思われるが、その巫女でさえ一年に数回しか神託を受けない、という話だった。
ほとんどの神官や巫女たちは、偽物なのだ。そして、偽物に限って、こそこそと生臭い真似をしている。
「でも、ペルセウス。その化け物が出てきたら、あなた、本当に勝てるの?」
「わからない。お前には、負けちゃったしなあ」
「あら? あのときは、あなたが勝っていたわ、ペルセウス。ただ、私が死ななかったというだけで、勝負はあなたの勝ちだった」
「メデューサは誉め上手だな。まあ、その誉め上手で、しかも不死身のメデューサがいっしょにいるんだから、なんとかなるだろう」
「どうかしら?」
メデューサは、少し心配だった。なんといってもメデューサ自身、自分以外の化け物に会うのは、これが初めてなのだ。
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アンドロメダはまる裸にされ、祠の入り口に拘束されていた。左右の手首に、金属でできた環がはめられている。その環から鎖が伸び、洞窟の天井にがっちりと固定された金具につながれていた。
なるほど美しい。あどけない顔。しかし、その裸体には、むせかえるような華やぎがある。
「まあ、ペルセウス様。どうしてここへ?」
「王様に頼まれて、お前を助けに来たんだ、アンドロメダ。ついでにケートスとかいう化け物も、やっつけてやる」
「そちらの方は?」
アンドロメダは、ペルセウスの背後にいるメデューサの姿を見ると、急に褐色の裸体をすくめた。それは、どうやら恥じらいのためだけではなかったらしい。
「ああ、恐ろしい。なぜでしょう? その方を見ると、なんだかとっても恐ろしくなってしまって……」
メデューサは例によって、蛇の髪を白い布の袋で隠している。それなのに、これほど怯えるというのは、この少女はよほど敏感な質なのだろう。
「このあいだ、話してあげただろう? メデューサだよ。頭に蛇を飼っている、おもしろいお姉さんだ」
ペルセウスは、ごく快活に言った。こちらはまた、怖いとか気味が悪いとかいうことに全く鈍感な男である。
「アンドロメダ。怖がることはない。そうだ、メデューサ。蛇を見せてやれよ。どうせこれから親しくつき合うことになるんだから、隠していても仕方ないだろう」
「そうねえ」
メデューサが被っていた布をとると、アンドロメダは「あっ」と小さく叫び、細かく震え始めた。
「まあ、こんなに怯えて。かわいいこと」
メデューサは、数本の蛇を繰り出して、アンドロメダの裸体を嬲ってやりたい欲求を押しとどめながら、せいぜい優しい声を出してやった。
「あなたをいじめるつもりはないから、安心しなさいな。それよりも、いろいろと変ねえ」
「なにが?」と、ペルセウス。
「化け物が人を食らうっていうお話がよ。だって、ほら……この骨を見てごらんなさい。ペルセウス、あなた変だと思わない?」
足元には、たくさんの白い骨が散らばっている。中には、ほぼ完全なままの、いくつかの頭蓋骨もあった。
「骨があるってことは、食われたってことじゃないのか?」
「もっとよくご覧なさいよ。この骨なんか、まだ服の中にきちんと収まっているわ。服も脱がさずに、肉だけきれいに食べる化け物なんているかしら」
「ということは?」
「この人たちはたぶん、ごく普通に殺されたか……ごく普通っていうのは、殴り殺されるとか、斬り殺されるっていう意味ね……それとも飢え死にしたのかもしれないわねえ。ここに繋がれたまま、飲まず食わずで……少なくとも、化け物が人を食らうっていう話は、出鱈目だと思う」
「でも、食われなかったとしたら、一年でこんな骨だけになってしまうものかな」
「化け物が食わなくても、虫や蟹が食べてしまうでしょうよ」
ペルセウスは、もう一度足元を見た。素早く走り回る小さな銀色の虫や、甲羅の赤い小さな蟹が、あちこちの岩陰を出たり入ったりしていた。
「なるほど」と、ペルセウスは骨を蹴飛ばしながら
「そういうことなら、ますます安心だ。殴り合いや斬り合いなら、俺が負けるはずはない」
「そもそも化け物なんていないのかも」
そう言ったメデューサに、アンドロメダが鋭く言葉をはさんだ。
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「いいえ。ケートスは、たしかにいます。海にいるんです。……巨大にして黒きもの、その名はケートス。ケートスに生贄を捧げよ。さらばこのエチオピアは永く栄えるであろう。……私が生まれる前から、ずっとそう言い伝えられてきたんです」
「じゃあ、そのケートスが来ないうちに、まずはこの鎖をなんとかしましょう。ペルセウス、道具は持ってきてくれた?」
「これに全部、入れてきた」
ペルセウスは、大きな袋を肩から下ろした。中には、メデューサが彫刻で使う鑿や槌などが一そろい入っていた。
「鎖を切るのは難しそうだから、その岩に埋めてある金具を掘り出したほうがいいわ。でも、かなり手間取りそうよ。繋がれる前に助けたら、簡単だったのに」
「だから、それができない理由を、さっき説明してやったじゃないか」
「ペルセウス、あなたも手伝いなさいよ」
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作業はなかなか進まない。とにかく岩が硬いのだ。ようやくアンドロメダの右腕が自由になった――といっても、まだ手枷と鎖、その先に金具がぶら下がったままだったが――ときには、もう正午を過ぎていた。
一段落ついたということで、食事をすることにした。ペルセウスがパンや肉を持ってきていたのである。アンドロメダも自由になった右手を使って、少しずつパンをちぎっては口に運んでいる。
「あなた、もっと食べなくていいの? のんびりしていたら、すぐになくなってしまうわよ」
メデューサが声をかけてやると、アンドロメダは――
「ありがとうございます。でも、今はまだ食欲がなくて……」
「お姫様だからなあ。メデューサみたいに、ガツガツしてないのさ」
「あら。私は、この蛇たちを養ってあげる必要があるから、その分たくさん食べなくちゃならないの。ちょっと、ペルセウス。その肉よこしなさいよ。とってもおいしく焼けてるじゃない?」
「肉の焼き方なら、俺に任せておけ」
そんな話をしているときだった。突然、海のほうが騒がしくなった。海鳥が鳴き騒ぎ、波の音も少し変わったようだ。
「来たか」
ペルセウス、メデューサの順に立ち上がり、祠の外に出て行く。まだ左手を繋がれたままのアンドロメダも、できるだけ上体を伸ばして、外を覗いた。その口から、高い声が飛び出してきた。
「ケートス。ケートスが来た!」
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「なるほど、たしかにすごい化け物ね」
メデューサは、呆然としてつぶやいた。あれが相手では、ペルセウスもメデューサも勝てるはずはない。巨大にして黒きもの、ケートス。だが、これほどまでに大きいとは、思ってもいなかった。
海に新しく、黒い丘が出現したようだった。それが、ゆっくりとこちらに向かって進んでくる――と見ているうちに、右へ向かい、次に左へと向きを変え、遠ざかっていくかと思うと、またこちらに向かってくる。
「ペルセウス、どうするの? あれじゃあ、とても私たちに勝ち目はないわ。あなたの自慢の剣だって、あの怪物にとっては、小さな棘のようなものよ。本当に、化け物って存在したのね」
メデューサは、自分も化け物だということを忘れて、そんなことを言った。だが、ペルセウスは妙にのんびりした――聞きようによっては少しがっかりしたような声で言った。
「アンドロメダ。あれが本当に、ケートスなのか?」
「間違いありません。あたくし、まだ小さかったころ、父からいつも聞かされていました。父は言っていましたわ。海から来る黒い巨大な悪魔ケートス、この国はいつもあの悪魔に狙われているって……」
「でも、あれが陸に上がって悪さをしたことは、これまでないんだろ?」
「それは……だって、毎年毎年、生贄を差し出してきましたもの。そして、今年はいよいよ、このあたくしが……」
「それは、あの神官たちに、騙されてきたんだなあ。いつから騙され始めたのかは知らないけど……あれがケートスっていうんなら、化け物でもなんでもない。ここに繋がれた人を食うこともない。ああ、もちろん船をひっくり返したり、それでおぼれかけた人間をつい食っちまったりってことは、あるかもしれないが……陸に上がって人を食うなんてことは、絶対にないよ。まして国を滅ぼすなんてのは、ただの出鱈目だね」
「そうなの?」と、メデューサ。
「そうさ。俺は島で育ったから、よく知ってる。あれは、ただのでかくて黒い魚だよ。俺たちは、クジラって呼んでた。もちろん、クジラの中でも相当に大きいやつだけどな……でも、魚にはちがいない。普通の魚とちがうのは、時々潮を噴き上げるってことくらいかな。見ていろよ。そのうちにやらかすから」
たしかに、しばらく見ているうちに、ケートスは潮を二回噴き上げた。二回目に噴き上げたときには、かなり海岸の近くまで寄ってきていたので、その一部が霧のように祠の中にまで飛んでいた。少しだけ生臭いような匂いがした。
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「そういうわけで、もう安心していいよ、アンドロメダ」
「言われてみれば、あの黒いものからは、そんなに恐ろしい気配を感じませんわ。メデューサ様を見たときには、あんなに恐ろしかったのに……」
「メデューサが? こいつを怖がることなんてないよ。こいつは、男を裸にしていたぶるのは好きだけど、女をいじめることはないから」
「そんなことないわ、ペルセウス。あなたが知らないだけで、私は女を裸にして慰み者にするのも好きなのよ。ずっと昔、ある国の若い女王を裸にして、この蛇を使ってさんざんかわいがってあげたこともあったわ。なつかしいわねえ」
アンドロメダは、また身を固くしたようだ。
「おどかすんじゃないよ、メデューサ」
「大丈夫よ、アンドロメダ。あなたはペルセウスのお気に入りみたいだから、手を出さないであげる。と言うより、蛇を出さないであげるって言ったほうがいいのかしら。それに、この国には美人が多いみたいだし。代わりにいい娘が見つかるかも……」
「そのうち、メデューサが年に一度、美女を生贄に差し出せと言い出すかもしれないな」
「それもいいわね」と、メデューサは短く笑った。
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「さあ、あとはこの左手の鎖をはずすだけよ」
「いや、もう一つ、小さな問題が残ってる」
「なに?」
「俺は、ケートス退治で名を上げるつもりだったんだ。ケートスのでかい死骸を、この海岸に残しておく。すると、それを見つけた王様が、だれかがケートスを殺して、わが娘を連れ去ったって大騒ぎをして見せる。そのころ俺はアンドロメダを連れて……ああ、もちろんメデューサ、お前も連れて行くよ……よその国にいるわけだが、そこでエチオピアに巣食っていた怪物ケートスを殺したのは、この俺、勇者ペルセウスだと名乗って出る……と、まあそういう寸法さ」
「それで、どうなるの?」
「ゴルゴン殺しに加えて、ケートス退治のペルセウス様が来たっていうんで、国を挙げての大歓迎。では、この英雄にわが国の軍を任せてみようということになって、この俺は晴れて将軍に抜擢されるというわけ」
「そう都合よくいくかしら?」
「いかないかもしれないが、可能性はあるだろ? それにケートスが化け物じゃなくて、ただの魚だったっていうことになれば、王様もアンドロメダを手放すのがいやになるかもしれない」
「あなたの気持ちは、どうなの?」
メデューサが問いかけると――
「あたくしは、ペルセウス様と……」
最後まで言わずに、少女はその褐色の裸体をペルセウスに、そっと近づけた。
「あら」と、メデューサは、疑わし気な目を二人に向けた。
「ずいぶん仲がいいのねえ。あなたたち、もしかしてもう、やることをやってしまったあとなのかしら」
「いやいやいや」と、ペルセウスは片手をむやみに、ぶんぶんと振った。
「まあ」と、アンドロメダは下を向いて、裸体をもじもじとくねらせた。
「もちろんメデューサ、お前の複雑な気持ちは、よくわかる。だがな……」
「バカバカしい」
メデューサは、さっきと同じ一言でペルセウスを黙らせると――
「そういうことなら、なにかいい手はないかしら? とにかくケートスの死体が欲しいというわけね」
アンドロメダが急に震え始めたのは、そのときだった。
「ああっ。なにか……なにか来る」
「どうした? アンドロメダ」
「なにかが来ます。なにか恐ろしいものが……」
「だから、あれはクジラだって」
そう言って近づいたペルセウスに、裸の少女は片腕でしっかりと抱きついた。
「いいえ、いいえ。ケートスではありません。もっと恐ろしいものが近づいています」
アンドロメダがそう言ったときには、メデューサの蛇も異変を察知して騒ぎ出していた。
「本当だわ。なにかが来てる。すぐ近くまで」
メデューサの身体も、細かく震え出した。
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ペルセウスだけが、平気でいる。
「どうしたんだ、二人とも。臆病風に吹かれて……これだから女ってのは……」
「バカね。あなたが特別に鈍いだけよ」
「メデューサ。お前、その身体……どうした?」
「どうしたって……あっ」
手足の先が、散り始めていた。砂のようにこぼれ、さらに微小な粒子となって、メデューサの身体が潮風の中に消えていこうとしている。
「何者だっ」
ようやく気配に気づいたのか、ペルセウスが剣を引き抜いた。
「お前が本当のケートスか?」
辺りに耳をつんざくような哄笑が響いた。
「愚かな。俺の名がわからぬのか、ペルセウスよ、ゼウスの子倅よ。メデューサは、しばし俺が預かる」
「誰だ」
ペルセウスがもう一度叫んだときには、メデューサの身体は、ほとんど消えかけていた。ただ、蛇の群れだけが宙に浮いて蠢き、絡まりあっている。
「俺の名は、ポセイドン」
声がそう告げたとき、蛇の姿も消えた。
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気づいたときには、海底の宮殿らしき建物の中の一室にいた。裸になっている。
海底の宮殿らしき――というのは、窓から見える風景によってである。広大な砂地の庭が広がり、そこには色鮮やかな花のようなものが、その美しさを競い合っている。だが、それは地上の花ではない。そもそも植物ではないのかもしれない。そして、夥しい数の魚たち――赤や青、銀色、そして縞模様の大小さまざまな魚たちが、辺りを泳ぎ回っている。
時に大きなサメの姿が見えると、小魚たちが一斉に散っていくのもおもしろい。
だが、この部屋の中に水はなく、空気が満ちていた。どういう仕組みになっているのだろう。メデューサはしばらくのあいだ、寝台の上に腰かけて、裸のままぼんやりとしていた。
だが、それもごく短いあいだのことだった。すぐに、あの圧倒的な気配が部屋中に満ちてきたのだ。メデューサの頭の上で、蛇が騒ぎ始めた。
メデューサは、あの祠の中で身体が散り果てる寸前に聞いた言葉を覚えている。
「ポセイドン様ですね。お姿をお見せください」
「よかろう」
部屋に充満していた気配が凝縮していく。やがて、メデューサの目の前に、一人の半裸の男が現れた。人間で言えば四十歳くらいか。がっしりとした筋肉の鎧に覆われた上半身はむき出しで、腰のあたりに海藻ででも編んだのか、見慣れぬ青黒い布のようなものが絡まっている。
容貌は精悍で美しい。それに、どこかしら懐かしさを感じさせる顔だった。メデューサの死んだ父親に似ているようでもあり、ペルセウスに似ているようでもある。
「どうだ? この姿は。お前の好みに合わせてやったが……」
「では、本当のお姿ではないのですね」
「愚かな。変化自在のものに、本当の姿なんぞというものはない。強いて言うなら、お前にとってのポセイドンの本当の姿が、今のこの俺の姿だ」
「なんだか騙されているような気がします」
「それなら、気持ちよく騙されてみることだ」
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「なぜ、私をお呼びになったのですか」
「それよ」
ポセイドンは、ごく真面目な顔つきで言った。
「以前から見ていたが、お前ほど美しい女はいない。そこで、伽をさせようと思ってな」
「お戯れを。私は醜い化け物ではありませんか。もちろん、この蛇が頭に生える前でしたら、私も少しは己惚れていたのかもしれません。でも、アテナ様の罰を受けて、こんな姿に……」
「それが愚かな勘違いというものよ」
ポセイドンの声が大きくなった。
「地上の者は、美というものが全くわかっておらぬ。メデューサよ、お前の最も美しいところは、まさにその蛇にあるのだ。蛇が頭に載っていないお前など、ただ少しばかり小ぎれいな人間の女にすぎぬ。そんな者は、地上にはいくらでもいる。おお、この手触り……」
ポセイドンは、蛇を何本か片手でつかみ、ゆっくりとしごくように撫であげた。メデューサの意志に反して、他の蛇はさかんに暴れ狂い、ポセイドンの顔に襲い掛かっていくが、くすぐったそうな表情をするだけで、少しも気にしていないようだ。
「この鱗の感触が、なんとも言えぬ。俺の作ってやった魚の鱗にも、決して負けておらぬ」
「でも、この蛇は罰として授かったのです。一生、自分の醜い姿に苦しむように、と」
「メデューサよ、お前の知りたかったことを教えてやろう」
なんです? と尋ねる前に、ポセイドンの言葉は続いた。
「アテナの奴は、間違いを犯したのだ。お前は、男どもが自分をアテナのようにチヤホヤすると言っただけであろう。それを、アテナの手下の精霊が、わざと大げさに報告したのよ。お前がアテナより美しいと己惚れていると言って。お前がちっとばかり愛らしかったので、その精霊が嫉妬したのだな。アテナも、ちゃんと確かめればいいのに、あのときはたまたま機嫌が悪くてな……怒りに任せて、お前に罰を与えてしまった。あとから気づいて後悔したが、今さら自分が間違えたとは言えない。あの小娘は、あれでなかなか高慢だからな」
「そうだったのですか」
「そうだったのさ。アテナも少しばかり気がとがめたのか、偉ぶってお前を許してやるとかなんとか、巫女を通じて知らせたであろうが」
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「それにしても、この蛇が罰として与えられたというのは、事実ではありませんか。罰として与えられたものが、どうして美しいはずがありましょう」
「そこがアテナの愚かなところだ。あいつには美というものが、ちっともわかっておらぬ。だから、罰のつもりでこんな美しいものを遣わしてしまったのさ。それに、メデューサよ。お前自身も、少しもわかっておらぬ。彫刻などしているようだが、つまらぬものばかり作りおって……なにより自分の美しさを知らぬというのが、怪しからん。俺が今から本当に美しいものを見せてやるから、よく心に刻むがいい。全部、俺が作り、俺が命を吹き込んでやったものばかりだ。アテナの作ったものとは、比べ物にならんぞ。あの小娘は人間どものためにオリーブの木なんぞを作ってやって、たいそう喜ばれたそうだが、なんの、つまらぬ木ではないか」
ポセイドンは窓の外に向かって、来い、来い――と呼び始めた。やがて、見たこともない大きなタコが現れ、海底を這い回り始めた。しばらくするとたくさんのイカが群れを成して、左手から右手へと通り過ぎて行った。
「どうだ? あの触手の繊細な動き!」
メデューサは、なんとも返事ができず、ただ「はあ」と答えた。
「どうも、わかっておらぬようだな。では、次。これはどうだ?」
巨大な海蛇が向こうから身をくねらせながらやってくる。太い胴体は灰色で、そこに気味の悪い黒の縞模様が付いていた。
「あのくねり方、あの色合い。実に美そのものではないか」
メデューサは、また「はあ」と答えた。あまり気に入らなかった、ということは、すぐにバレてしまったらしい。どうやら、さっきから心を読まれているようだ。ポセイドンは苦笑して――
「まあ、深遠な美がすぐに理解できぬのは、仕方のないこと。だが、俺が本当にお前を美しいと思っていることだけは、わかったであろう」
そうなのかもしれない。タコやイカの触手や、海蛇の胴体が美しく見えるのならば、メデューサの蛇を美しいと思ったとしても、不思議はない。だが……
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「まだ聞きたいことがあるようだな。いや、口に出さなくてもよい。みんなわかっている。……そうだ、ケートスは、ペルセウスの言った通り、ただの大きなクジラよ。ただし、あのゼウスのバカ息子は……うむ、ペルセウスがゼウスの息子だというのは本当だ。本人も少し疑っているようだから、お前がちゃんと教えてやるがいい。このポセイドンが、たしかに請け合ったとな……それで、ペルセウスは、あれを魚だと言っておったが、それは大きな間違い。あれは実は、牛や馬、人間と同じように、乳で育つ動物だ」
「まあ!」
「驚いたか。それから……お前の思っている通り、あの神官たちはまがい物だ。あんな奴らに俺は神託なぞ授けてやったことはない。もう既に罰は与えた」
そこでポセイドンは少し黙り、それから安心させるような微笑を見せた。
「心配は要らぬ。殺してはいない。お前が人を殺すことを嫌うのを、ちゃんと知っているからな。本当に小娘というものは、気が小さくてかなわぬ」
小娘――というのは、メデューサのことらしい。メデューサは少し照れくさい気持ちになった。
「奴らは既に、神殿から逃げ出してしまった。俺が恐ろしい目に合わせてやったからな。だから、もう心配することはない。ペルセウスにもアンドロメダにも、これから悪いことはなにも起こらぬ」
「ありがとうございます」
「では、伽をするか」
ポセイドンは、メデューサの顔をじっと見つめた。
恐ろしい瞬間だった。魂が身体ごとその瞳の中に吸い込まれていきそうだ。愛とか恋というものではない。もちろん好奇心や興味といったものでもない。ただ強烈な磁力のような、名づけようもない心の動きに駆られて、メデューサは海神の胸にしがみついた。
「お望みでしたら」
「よし」
――と、ポセイドンはメデューサの裸体をがっちりと抱いた。蛇が暴れ始めた。
「お待ちください、ポセイドン様。剣を……小刀かなにかをお持ちになって、蛇を……」
男と交わると、メデューサの蛇は暴れ出す。だから、ペルセウスはメデューサと交わるときにはいつも、片手に持った短刀で蛇を斬り払いながら事に及ぶのだった。
ポセイドンは、短い笑い声をあげた。
「俺に、あの小僧の真似をしろと言うのか」
「でも、蛇がポセイドン様を襲ったりしたら……」
「それが楽しみで、お前を呼んだのだ。食い物でも、甘いだけではつまるまいが。ピリリとした刺激があってこそ、味もひときわ引き立つというもの。遠慮することはない。蛇に好きなだけ暴れ回らせるがいい」
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その言葉は、嘘ではなかった。
ポセイドンの力強い腕に抱きすくめられ、寝床に押し倒されると、蛇たちは狂ったように暴れ始めた。やがて、メデューサの中にポセイドンのものが押し入ってきたときには、どの蛇も部屋の天井に届くほどまで伸び、執拗に海神のたくましい背を打ち始めた。硬いつややかな鱗が皮膚にぶつかる鋭い音が、ひっきりなしに響いていた。数本の蛇は首に巻きついて締め上げていた。
だが、ポセイドンにはそれが快い刺激でしかないらしい。
「どうした? まだ足らぬ。もっと打て。もっともっと締め上げよ」
メデューサには答えることができない。その口からは、悦びの声がほとばしり続けていたからだ。
メデューサは、二度、三度と果てた。ようやくポセイドンの身体が離れたときには、疲れ切ってすぐには口もきけなかった。ペルセウスに蛇を斬り払われながら楽しんだあとも、ひどく疲れる。だが、今の疲れとは疲れ方が異なっていた。
蛇を斬られたときには、どこかが静かに冷えてしまっているような気がする。しかし今は、身体中に熱がこもっていた。
こんなにも疲れ切っているのに――と不思議だったが、メデューサは気がつくとポセイドンにまたしがみついていた。
「ポセイドン様。よろしければ、もう一度……」
「かわいいことを言う」
ポセイドンが、再びメデューサの汗ばんだ裸体を、軽々と抱き上げた。蛇がまた騒ぎ始めた。
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その一度の交わりで、子を孕んだらしい。海の中の宮殿で、美しくたおやかな精霊たちにかしずかれながら、時が至るのを待った。やがて月が満ち、メデューサは双子を産んだ。
双子は、ちっとも似ていなかった。生まれ落ちると瞬く間に成長し、一人は――というよりも一頭はと言うべきか――翼の生えた天馬となった。もう一人は初めから金の剣を携えていたが、こちらは魁偉な容貌を持った、大きな青年だった。
天馬は辺りを飛び回り、青年は剣を振り回した。その剣はやわらかな金でできているはずなのに、ポセイドンの加護があるせいか、どんな硬い鉄も岩も、瞬時に切り裂いてしまうのだった。
「お前たち、なんてわんぱくな。少しは大人しくしていらっしゃい」
メデューサはうっとりと微笑みながら、二人の――いや、一頭と一人の息子たちを眺めていた。
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ポセイドンによって、天馬はペガサス、金の剣を持った青年はクリュサオルと名づけられた。ポセイドンは言った。
「息子たちよ、お前たちは母とは違い、死すべき者として生まれた。だが、悲しむことはない。限られた生を、せいぜい好きなように生きるがよい」
二人の息子が宮殿から広い世界へ発とうとしたその瞬間、メデューサは思い出した。ペルセウスは? アンドロメダはどうなったのか?
「案じることはない、メデューサよ」
ポセイドンは、寝台に腰かけたメデューサに向かって言った。
「二人とも、まだあの海岸の祠にいる。お前が帰るのを待っている」
「でも、もう一年近くが経ったではありませんか」
「そんな気がしただけのこと。本当は、まだ日も暮れ切っていない」
「でも、私はここで何か月も……」
「お前がそう思うように、俺が仕向けたのだ。急に腹が膨らんでいくと、若い娘は平静ではいられまい。さぞ慌てふためき、心配するであろうと思ったのよ」
「若いだなんて……私はもう百年以上も生きています」
ポセイドンは、例の苦笑をして見せた。
「たった百年ではないか。まだまだ小娘だ。さあ、メデューサよ、地上に戻るがよい。息子たちも、それぞれ好きなところへ旅立つことだ」
「待ってください、ポセイドン様。どうせ戻るのなら、日が暮れるまでのあいだだけで結構です。この息子たちを、私に貸してください」
「なぜだ? ああ、なるほど。ケートスの件も引き受けた。二度とあの海岸の近くには寄りつかないようにしてやろう」
ポセイドンは、またメデューサの心を読んだらしい。
「ありがとうございます」
「だが、用事が済んだら、息子どもはすぐに放してやれ。長く手元に置いておこうなどと考えてはならんぞ。お前の手には負えぬ者たちだ」
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メデューサはペガサスの背にクリュサオルとともにまたがり、祠に戻ってきた。
「おお、メデューサ。戻ったか」
夕日が海の向こうに沈もうとしている。しかし、ペルセウスの顔が赤く火照って見えるのは、そのためだけではないようだった。
あれからせっせと仕事に励んでいれば、とっくに自由になっているはずのアンドロメダの左手が、まだ繋がれたままだったのだ。
「あなたたち、私のいないあいだに、なにをしていたのかしらねえ」
「細かいことは気にするなよ、メデューサ。若い男と女がこんな狭い場所でいっしょにいれば、まあ……なんだ……自然の成り行きってものがあるじゃないか」
「呑気なものね」
「だって、あのクジラも、あれからすぐにどこかに行っちゃったしな」
「私のことは心配しなかったのかしら?」
「それは……」と、アンドロメダが口を挟んだ。
「あのときはっきりと、ポセイドンという御名が聞こえましたの。ですから、あたくし、ポセイドン様が迎えにいらしたのなら、決して悪いことではないって、ペルセウス様を懸命に説得いたしました。ペルセウス様は、それはもうメデューサ様のことを心配なさっていましたわ。でも、ほら……ポセイドン様は、わが国の守り神。ですから、きっとなにもかも、よいようにはからってくださると思ったんです」
「その通りよ。ケートスは……つまりあのクジラは、もう二度とこの海に現れないようにしてくださるって。それから、あのインチキ神官たちは、神殿から追い払われたようよ」
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「ところで、そこにいる馬と、無口な男は何者だ?」と、ペルセウス。
「私とポセイドン様との間にできた、立派な息子たちよ」
「どうして、たった一日で子どもが生まれるんだ?」
「神様ですもの。なんでもできちゃうの。あっ。そうそう……」
メデューサは、ぴょんと一度跳びあがると、ペルセウスに向かって微笑んだ。
「いい知らせがあるわ。あなたがゼウス様の息子だっていうの、本当のことですって。ポセイドン様が請け合うって、そうおっしゃったわ」
「ほう」
「どう? 嬉しいでしょう?」
「まあ、嬉しいことは嬉しいが……それほどでもないかな。俺は俺ってだけのことだ」
「偉そうな口をきくじゃないの。だったら、もっと嬉しいことを教えてあげる。ケートスの死体を用意してあげるわ。私の息子たちに頼んで」
「ケートスはもういないのに、どうやるんだ?」
「ペガサス。それにクリュサオル。あの岩が見える? そう、あれよ」
メデューサは、遠くに見える大きな岩を指さした。上下の間に括れがあり、巨人の胸の上に顔が乗っているように見えた。
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「お前たち、あれに顔を彫ってきなさい。なるべく恐ろしそうな顔を……ええ。ペガサスがクリュサオルを乗せて、あの岩まで飛んで行くの。それで、クリュサオルはその自慢の剣で、岩を彫りなさい。さあ、早く。ぐずぐずしていたら、日が暮れてしまうわ」
ペガサスは一度高くいななき、クリュサオルは「承知した、母者人」と、えらく古風な一言を残して、メデューサの指さした岩へと向かった。日が沈み切る少し前には、早くも岩に不気味な顔が彫りあがっていた。
「よくできたわ、息子たち。じゃあ、好きなところに行きなさい。楽しく暮らしなさいね。お母さんが恋しいなんて、メソメソしちゃいけませんよ」
「あの剣は、すごいな。金ピカなのに、おそろしく切れ味がいい」
クリュサオルを乗せたペガサスが遠ざかるのを見ながら、ペルセウスがぽつりと言った。
「どう? あれがケートスの死体だってことにしたら、いいじゃないの。そして、ペルセウス、あなたはケートス退治の英雄よ」
「でも、どう見たってあれは、ただの岩だぜ」
「だから、ゴルゴンの首を使ったってことにするのよ。化け物にゴルゴンの首を見せると、なんと恐ろしい魔力! 化け物ケートスは、岩と化してしまいましたって」
「なるほど、メデューサ。お前はやっぱり頭がいいな」
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二十年ほどが過ぎた。
ペルセウスはアンドロメダを連れて各地を旅し、ついにはある小国の王となった。メデューサは今、その国の宮殿の庭に作られた、人工の小さな森の中で暮らしている。
ペルセウスが国を一つ作った陰には、メデューサの人知れぬ助力があった。それは、ペルセウスとアンドロメダだけが知っていることだ。
冬が終わり、春が訪れようとしている。旅立ちには、よい季節だった。
森の奥の洞窟――これも人工的にこしらえた偽物だが――の入り口で、捕ったばかりのウサギの肉を焼いていると、ペルセウスがやってきた。相変わらず身は軽いが、もう四十代の半ばになっている。白いものの混じり始めた立派な髭が、メデューサには、いつ見ても少しおかしい。
「やっぱり出て行くのか」
ペルセウスは、火の側にどっかりと座り込むと、そう問いかけた。
「この国も、もう飽きたわ。今ではすっかり治まっているし、退屈なの」
「ああ、俺もいっしょに行けたらなあ」
ため息を吐くようにそう言うと――
「だが、そうもいかない。王様ってのは、これでなかなか忙しいものでな。それに、アンドロメダは、もう旅はこりごりだって言ってるし」
「あちこちで、ずいぶん怖い目にもあったものねえ」
「王様になんか、ならなきゃよかったよ」
「いいじゃないの。優しい王妃と、たくさんの子どもたち。王を慕う民衆。実に理想的よ」
アンドロメダは、次々と子を産んだ。その子どもたちは皆元気に育ち、この王家は子だくさんで知られていた。
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「そう理想的とも言えないんだ」
ペルセウスは、ぼそぼそと言った。
「知ってるだろう? 俺について、変な噂が広まってる。俺が、母親とつきあってた島の王様を殺したとか、爺さんを殺したとか、それからアンドロメダの父親も殺したとか、俺と知り合う前のアンドロメダに求婚していた、若い男を殺したとか……とにかく、殺した、殺した、殺した……そんな噂ばっかりだ。しかも、それが全部、まるっきり嘘なんだぜ」
「あなた、人殺しをたくさんやってきたじゃないの?」
「だからこそ、腹が立つのさ。人を殺すことにこだわりがあるからこそ、殺してもいない人間を殺したなんて噂を立てられるのは、我慢できないな。とにかく、全部がまるっきり出鱈目なんだから」
「ねえ、ペルセウス」
メデューサは、ペルセウスの目をのぞきこんで言った。
「私たちは、噓には我慢しなくちゃいけないのよ」
「どうして?」
「だって、私たちは、嘘で成り上がってきたんだから。あなたのゴルゴン殺しも、ケートス退治も、嘘でしょう? ほかにもいっぱい嘘をついたし」
「なるほど」
「それに、今あなたを悩ませている、そのたくさんの噂も、悪い噂じゃないわ」
「そうか? 人殺しの話だぞ」
「みんなはあなたに、なにか目の覚めるようなこと、胸がわくわくするような物語を求めているのよ。それが、ああいう形の噂になって、吹き上がってくるんだと思う。あなたがどこかに行って、ただのんびりしばらく暮らして、また帰ってきましたっていうのでは、みんなが納得しないの。なにか恐ろしいこと、血なまぐさいこと、身の毛もよだつようなことが起こらなきゃ。なぜって、あなたは勇者だから。生きた英雄なんだから」
「相変わらず誉め上手だな」
メデューサは、やわらかな声でしばらく笑った。
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「だが、今は……本当のことを聞かせてくれ。お前は、なぜこの国を出て行くんだ?」
「さっき言った通りよ。ここは平和で安全で居心地がいいけれど、退屈なの」
「そうか?」
だが、本当は別の理由があった。
ペルセウスがこのまま老いていくのを――そして、いつか死んでしまうのを、見ていたくなかったのだ。
それに、アンドロメダのこともあった。今は意識していなくても、アンドロメダはいずれメデューサを憎むようになるだろう。自分は子を次々と産み、その度に少しずつ太り、美貌は次第に輝きを失っていく。しかし、メデューサはいつまでも二十歳前の少女のままの姿をしているのだ。そんなメデューサの住む森の中へ、夫であるペルセウスが足繫く通って行く。憎まないはずがない――そんな気がした。
いきなり、ペルセウスが大声をあげた。
「メデューサ、肉が黒焦げになってるぞ。お前はいつまで経っても、肉の焼き方を覚えないな」
「うるさいわねえ」
メデューサは、あわてて肉を火から遠ざけた。
しばらく黙ったあと、ペルセウスが言った。
「気が向いたら、いつでも戻ってこいよ」
「ええ。いつかまた、顔を見にくるかも」
メデューサは、ペルセウスに向かってにっこりと笑って見せた。
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だが、メデューサが再びペルセウスの顔を見ることはなかった。死後、ペルセウスとアンドロメダは、神々によって星座に祭られた。
メデューサは、今も生きて、この地上をさまよっている。
◆おまけ 一言後書き◆
妖女メデューサの冒険は、これで一区切りとします。なお、私のこのメデューサシリーズは、本来のギリシア神話からは、あまりにもかけ離れた話になってしまいました。「そこまで変えるのであれば、いっそのことメデューサがペルセウスの首を斬る話にすれば、おもしろかったのでは?」とお思いの方が、いらっしゃるかもしれません。(なんか、そういう彫像もあるらしいですね?)ですが私としては、「そういう話にできないところが私らしい」と、そう思っているのです。
2020年12月18日
美咲凌介(みさきりょうすけ)
1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
初出:P+D MAGAZINE(2020/12/26)